暴きだす金曜日 2
3
「森野先輩と喋ったんですか? いいなあー」
売店のパンを片手に、瑞樹は心底羨ましそうな声で言った。
放課後、場所はマネージャー部室。練習が始まるまであと一時間半はあるので、わたしたちはのんびりランチタイムを過ごしていた。
床に敷かれたブルーシートに、わたしたちは円を描くように座っている。入り口に一番近いところに座っている瑞樹は、うっとりした声で、
「森野先輩、いいですよね。爽やかだし優しそうだし」
「そう?」
刺々しい言い方になっているのが自分でもわかった。瑞樹が目を丸くする。
「ユズ先輩、森野先輩が嫌いなんですか?」
「そういうわけじゃないけど。でも、そんなに優しい人かなあって」
「優しいですよ、ぜったい! ……話したことはないですけど」
ないんかい。
玉子焼きをお箸で切りながら、あかりが割り込む。
「友だち想いではあるよね。保健室で休んでた小宮山先輩を迎えに来てたから」
「ですよね! さっきそれ聞いたとき、あたし、ムチャクチャ優しいと思いました!」
瑞樹のはしゃぎよう、なんだか、好きな芸能人の話をしているときみたいだ。
優しいねえ。まあ、保健室まで友だちを迎えに行くなんて、みんながみんなやることじゃないでしょうけど。
ツナサンドを口に運びながら、わたしは保健室に入ってきたときの森野先輩を思いだす。あの人の笑顔を見ても普段は胡散臭いとしか感じないけど、あのときは本当にうれしそうに見えた。小宮山先輩が、もう体調はバッチリだと言ったときに見せた、あの笑顔だ。
友だちの体調が回復したと聞いて、安心したように笑う。……世間一般で言えば、充分「優しい」と言える行動ではあるんだけど。
「でも森野先輩、意外とドジなんですね。階段から落ちちゃうなんて」
「ああ。それはたぶん、体調が悪かったからだろうって真弓先生が言ってた」
瑞樹がぎょっとした顔であかりを見る。
「体調って、森野先輩、なにかあったんですか?」
「一限目は保健室で休んでたんだって。熱は無かったけど、疲れてるみたいだったから、階段から落ちたのもそのせいじゃないかって」
「そうなんですか……。心配です」
パンを見下ろし、ため息をつく。
おかしいな。瑞樹は人のことをすごく心配してくれる子だけど、森野先輩のときは妙に力が入っている。
「瑞樹、森野先輩となにかあったの? 反応が他の人と違う気がするんだけど」
「ああ、わかります? 実はあたし、中学のときから森野先輩のファンで」
へへ、と照れたように笑う。
「え、瑞樹と森野先輩って、同じ中学なの?」
「はい。中一のときに見て、うわ、かっこいいー! 爽やかーって思って。それからもう、あたしの中では憧れの先輩ポジションです。……あ、でも、森野先輩を追いかけて公星に来たってわけじゃないですよ?」
なぜかわたしに笑顔を向ける。
「森野先輩、卒業したあともときどき中学に遊びに来てたから、あたしたちの卒業アルバムにさりげなく映ってたんですよ。ときどき見返してます」
「意外とミーハーなのね」
瑞樹はパンの最後の一切れを飲み込んでから、
「そんなこと言って、嶋先輩が映ってるアルバムがあったら、ユズ先輩だって見返すでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
見返すだけじゃなくて、たぶんにやにやもする。ケータイのカメラで写して、いつでもどこでも見られるようにするかもしれない。
瑞樹は満足したように笑ったあと、なにかを思い出したような表情になった。
「そういえばあたし、ユズ先輩の卒業アルバム見たことないです。あかり先輩のはあるのに」
「あ、私も見たことないや」
お弁当箱のふたを閉めながら、あかりまでそう言ってきた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。瑞樹は瞳を輝かせていた。
「今度持ってきてくださいよ。あたし、中学のユズ先輩見たいです」
「私も。ユズの昔の写真って、よく考えたら見たことないし」
あー、と言葉につまってしまう。
「……ごめん。わたし、中学のアルバムなしくちゃったの」
「ええッ?」
あかりと瑞樹の声が綺麗に重なった。
「アルバムなくすって、そんなことあるんですか?」
「うん。大掃除のときどこかにまぎれちゃったみたいで」
もちろん嘘だ。部屋の本棚にしっかり収まっている。
「とか言って、ホントはなにかの理由で見せたくないんじゃないですか? あれでしょ、変な顔で映っちゃったんでしょ?」
「まさか。違うわよ。本当になくしただけ」
瑞樹は渋々と頷き、じゃあ、見つかったら持ってきてくださいね、とだけ返した。安堵したのも束の間、
「じゃあさ、家族写真持ってきてよ。ちっちゃいユズ見てみたいから」
にこにこ笑いながら、あかりがそんなことを言ってきた。危うく、ツナサンドを喉に詰まらせるところだった。
冗談じゃない! 家族写真なんて、卒業アルバム以上に見せたらアウトだ。
「嫌よ。自分の家族を友だちに見せるって、なんか恥ずかしいじゃない」
「そんなことないと思うけど……」
「わたしはそんなことあるの。とりあえず、家族写真はだめ」
軽く首を傾げるあかりの横で、瑞樹は意地の悪い笑みを浮かべた。
「もしかしてアレですか? 妹の柚希ちゃんが自分よりかわいいから、見せるのが嫌とか?」
「ち、違うわよ。そんなんじゃないから」
「ふーん。じゃ、ユズ先輩のほうがかわいいんですね?」
口下手な妹の顔を思い浮かべる。
目鼻立ち、輪郭、スタイル、すべてにおいてわたしに引けをとらない。……けど、あいつにはわたしみたいに魅力的な泣きぼくろはないし。うん、そうだ。わたしのほうがかわいい…………はず。
「…………もちろん」
「けっこう考えましたよね、いま」
「そんなことない」
「ほんとですかあ? あやしいなー」
じろじろと人の顔を舐め回すように見てくる。頬に一筋、汗が伝うのがわかった。
やばいな、このまま瑞樹の尋問が続くのか? この流れはちょっとまずい。
どう話を逸らそうかと対策を練り始めたとき、横から助け舟が入った。
「ねえ、ちょっと売店行かない? 私、部活の前にアイス食べたい」
あかりが鞄から財布を取り出してそう提案してきたのだ。ナイス、あかり! 本人はただアイス食べたいだけだろうけど、わたしからしたらこれ以上ないアシストだ。
「うん、行こう行こう。ほら、瑞樹も」
詮索好きな後輩はまだわたしを問い詰めたそうな様子だったけど、先輩二人を相手にごねる気はないらしい。じゃあ行きましょうか、と腰を上げた。
道中は授業や部活の話をして、幸いなことに、わたしの卒業アルバムや家族写真のことに話題が戻ることは無かった。
4
売店へ行った帰りのこと。
「やっぱり、モナカアイスって最強だと思うんです。バニラアイスもモナカも楽しめて、溶けても手につかないなんて。こんな贅沢なアイスはないですよ」
「でも、食べると喉渇くじゃない。わたしはこういうシャーベット系のさっぱりしたやつが一番だと思うけどね」
「喉も渇くし溶けると大変だけど、見つけるとどうしても買っちゃうんだよね……『ホームランバー』」
なんて会話をしつつ、わたしたちはアイスを片手に理科室棟を歩いていた。暑い外よりは極力室内を、ということで、理科棟を抜け道に使わせてもらっているのだ。冷房はもう切られていたけど、直射日光が当たらない分、体感温度が二、三度は下がっている気がする。
「あれって、藤井先輩じゃないですか?」
真っ先にアイスを食べ終えた瑞樹が、前方を指差した。
廊下のどん詰まり、保健室のドアが開いていて、その前に制服姿の背の低い男子生徒が立っていた。言われてみれば確かに、あの身長と体型は藤井に見える。奥には真弓先生がいて、二人で何か話をしているみたいだった。
「なに話してるんですかー?」
瑞樹がなんの躊躇いもなく奥にいる二人に声をかける。真弓先生はわたしたちを認めると、ぱっと顔を輝かせて、手招きをした。
近づいてきたわたしたちに言う。
「ちょうどよかった。あなたたちに訊きたいことがあるの」
「あなたたちって、私とユズにですか?」
「そう。今日の休み時間、保健室に来たじゃない? そのとき、私の印鑑見た?」
あかりと顔を見合わせる。アイコンタクトは一瞬で終了した。
わたしはかぶりを振り、
「見てません。もしかして、なくしたんですか?」
「ううん。なくしてはいないわ。藤井君が見つけてくれたから」
藤井が自慢げに胸を張り、訊いてもいないのに教えてくれた。
「部室んとこのトイレがいっぱいだったからよ、ここのトイレに入ったんだ。そしたら、保健室のドアのすぐ前に落ちてるのをみつけたんだよ」
「ってことは、真弓先生が外に出たときに落としたんですか?」
「と、思うでしょ? でも私、出入りはほとんど裏口からするから、表のドアは滅多に使わないのよ。今日も、あっちのドアを使ったのはあなたたちが来たときの一回だけだし」
わたしたちの悲鳴を聞いて、大丈夫? と飛び出してきたときのことだ。
「じゃあ、そのときに落としたんじゃないですか? 印鑑、ポケットに入れてました?」
「ううん、どうだろう? 普段はずっとポケットに入れてるんだけど、あのときはちょうど小宮山君の証明書を書いていたから。印鑑を押したのは覚えてるけど、その直後ぐらいにあなたたちの声が聞こえてきて。ポケットに入れたか、机に置きっぱなしにしたか、実はよく覚えてないのよ」
ふんふんと頷きで相槌を打つ。真弓先生は続ける。
「でも、落としたとしたらそのときしか考えられないから、実際はポケットに入れてたんだと思う。で、あなたたち、そのあとに保健室から出たでしょう。どう? 印鑑、落ちてなかった?」
藤井が言うには、印鑑はスライドドアのすぐ前に落ちていたらしい。えーっと……、あのとき、ドアのすぐ前は……。
「すいません、見てませんでした」
わたしがそう答えると、私もです、とあかりがあとに続いた。
真弓先生は苦笑いを浮かべて、
「そうよね。保健室から出るとき、わざわざ下を見ながら出ないもんね」
言うとおりだった。視線を前に向けながら出るから、真下に印鑑が落ちていても視界に入らない。視界には入らないんだろうけど……
「でも普通、誰か一人ぐらいは蹴っ飛ばしそうじゃねえ?」
あ、藤井このやろう! わたしが言おうとしたことを先に言ってるんじゃねーっての。不愉快極まりないけど、表情には出さないようにする。
「そうよね。視界には入らないかもしれないけど、蹴飛ばしやすいところにはあるし……。しかも、わたしたちだけじゃなく、森野先輩たちも通ったのに」
「でしょう? それでいま、不思議だなあと思ってたらあなたたちが来たから」
話を聞いてみた、と。
あかりが真弓先生の持つ印鑑を指差して尋ねた。
「その印鑑、本当に真弓先生のですか? 他の誰かのって可能性は?」
「残念ながら、間違いなく私のよ。それに、この学校で生徒と職員、事務員を合わせても、『真弓』という苗字は私だけだから」
そう答えたあと、先生は小さく息を吐き、
「まあ、たまたま誰も気づかなかったし蹴飛ばさなかったっていうのもまったくありえない話じゃないわよね。ごめんね、こんなことに時間を使わせて」
手を合わせて頭を下げる真弓先生に、なぜか藤井が代表して言った。
「いいっすよー。おれたち誰も気にしてませんし。……あ、川口だけは、心の中でめちゃくちゃキレてるかもしれませんけど」
おい、さりげなくわたしのイメージがダウンするようなこと言うなよ。
「そうなの? じゃあ、川口さんは特にごめんなさいね」
真弓先生も、なに笑いながらノッて来てるんですか。
「そんなことないですから、気にしないでください、真弓先生」
「信じちゃ駄目っすよ。こいつ、こんなこと言いながら心の中では腹黒いこと考えてるようなタイプっすから」
うっぜえー。いつまで引っ張るんだこいつは。真弓先生と瑞樹は楽しそうににやにや笑っててフォローいれる気なさそうだし、あかりは困ってるし。
「昨日だっておれにぼそっと暴言吐いたし、実は優等生じゃないんすよー」
藤井はわたしをどうしても腹黒キャラにしたいらしく、ぺらぺらとあることないこと吹き込み始めた。てか昨日って……。あいつめ。
この調子だと、やめろと言ってもますます調子に乗るだろう。こういうとき、藤井に有効なのは――。
わたしはアイスの袋を握って音をたてた。藤井が反応し、視線を向ける。袋を見た途端、あ! と声を上げた。
「なんだよお前ら、アイス食ってたのかよ! いいなあ、チクショー。いま何時だ?」
無言で腕時計を見せる。よし、と頷いて、
「まだ間に合うな。おれもアイス買ってくる! じゃあ、真弓先生、お邪魔しましたあーー!」
一目散に廊下を走り去っていった。真弓先生はくすくす笑いながら、台風みたいな子ね、と呟いた。
「野球部でも、盛り上げてくれるでしょ?」
「はい。藤井先輩がいるのといないのとじゃぜんぜん違うんですよ」
確かに、ぜんぜん違う。わたしのストレス量が。
真弓先生は小さく笑い、
「で、川口さん。本当に怒ってない?」
「怒ってないですよ。さっきのは藤井くんの冗談です」
むしろ、ちょっとうれしいぐらいだった。
ドアの前に落ちていた印鑑を、誰も気づかないし蹴飛ばさない。
ここ最近、こういう「ちょっと不思議な出来事」を話すと、彼は意外と乗ってくるということがわかった。話の種にはちょうどいいかもしれない。
もし、嶋くんと話をする機会があったら、この話をしてみよう。わたしはそう思っていたのだった。
5
機会は意外と早く訪れた。
部室に戻ったあと、応急セットの整理をしていたわたしは、デッドボールを喰らったときに使うコールドスプレーがほとんど残っていないことに気がついた。
正直、ラッキーだと思った。隣ではあかりと瑞樹がボールを縫っている。ほつれたボールはまだ大量にあって、わたしも手伝わないといけない雰囲気だったけど、できれば針仕事はしたくない。つまり、絶好の逃げ道ができたのだ。
「コールドスプレー切らしてるから、ナカムラスポーツで買ってくる」
これ幸いとばかりにそう告げて、わたしは部室を出た。
練習開始まであと三十分強。ゆっくり歩いて、できるだけ時間をかけて買いに行こう。そんなことを考えながら歩いていると、前方、ハンドボールコートのほうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。
わたしは小走りに彼に近づき、声をかける。
「嶋くん。これからランニング?」
「ん? ああ、そう。練習の前に、ちょっと走ろうと思って」
美少女が隣に並んで歩き始めたにも関わらず、普段と別段変わることのない口調。このぶんだと、一昨日のこともなんとも思ってないわね。……ま、知ってたけど。
「川口は?」
「ちょっとスプレー切らしてるから、ナカムラスポーツに」
その単語を聞くなり、嶋くんの表情がばつの悪そうなものに変わった。
「ナカムラスポーツか……。俺のミットの具合とか訊かれたら、なんか適当にごまかしといて」
「うん。まさか本当のことは言えないもんね」
昨日の事件は、たとえ信頼できる人が相手でもむやみに話すことではない、とわたしたちの意見は一致していた。
流れで、話題は昨日のことになる。嶋くんが喋ってわたしが相槌を打ちを繰り返しているうちに中庭を過ぎた。なんとなくそれを堺に、話を変える。
「ところで嶋くん。さっきもまた不思議なことがあったのよ」
「不思議なこと?」
「うん。あのね、保健室で――」
真弓先生印鑑事件のあらましを説明し終える頃には、校門まであと少しというところまで来ていた。下校のピークはとっくに過ぎているので、辺りに人は二、三人しかいない。
「どう思う?」
わたしにそう訊かれて、嶋くんは言葉につまり、視線を泳がせた。あー、と困ったような声を出したあと、そのまま、わたしの目を見ずに答える。
「真弓先生の言うとおり、偶然じゃないかなー」
ぜったい嘘だ。なんだ、この不自然な態度。
「嶋くん、なにかわかったんでしょ?」
「えっ!」
わたしをエスパーかなにかかと疑うような反応。いや、あのごまかし方じゃ誰でもわかるわよ、嶋くん。
「よかったら教えてくれないかな? いちおう、部活までまだ時間あるでしょ?」
「いや、でも、俺の仮説でしかないし……」
「それでもいいから」
「うーん……。じゃあ、誰にも話さないって約束してくれるか?」
真剣な面持ちになり、そう訊いてきた。わたしは頷く。
「わかった。……ちょっとこっち」
特別教室棟のほうへ向かう。特別教室棟の玄関前、突き出た二階のベランダのおかげで大きな屋根が出来ているところで立ち止まると、嶋くんは低い声でこう言った。
「もしかしたらこれは、ちょっとした事件かもしれない」