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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第五章 暴きだす金曜日
19/28

暴きだす金曜日 1

第三章、『顔に傷つく水曜日』のネタバレがあります。

未読の方は注意してください。


 二限目の化学が終わって、教室に戻ってきたときのこと。

 誰もが羨む容姿を持つわたし、川口柚香は、自身の纏う美少女オーラに違わぬ優雅な仕草でドアを開け、教室に足を踏み入れた。その瞬間、耳に飛び込んでくる聞きなれた声。


「絶対できるよ!」

「無理無理! んなことできるわけないって」


 あかりと夕子ちゃんだった。二人とも地学を選択しているから、先に戻ってきていたのだ。既に生徒は半分ほどしか残っていない教室内、ヒートアップしている両者はかなり目立っていた。

 面倒くさそうだし、無理に話に入る必要はないかな。そう思ったけど、夕子ちゃんがわたしに気づき、手招きをした。近づくと、鼻息荒く言ってくる。


「ユズちゃん、ちょっと意見聞かせて! アタシとあかりじゃ、ぜんっっぜん意見合わなくてさー」

「うん、いいわよ。なに?」

「それはね……ユズちゃん、双子って入れ替われると思うッ?」


 突然の質問に、頭がフリーズする。なんとか、


「えっと、なんでそんなことを?」


 と返答すると、あかりが説明してくれた。


「昨日のドラマでそういうシーンがあったんだよ。顔がそっくりな双子の兄弟がいて、一日だけ二人が入れ替わるの。ドラマの中では誰も気づかなかったけど、実際そんなことってできるのかなって」

「なんだ、そういうことね。びっくりした」

「ごめんねー。突然すぎたね」


 夕子ちゃんが笑いながら顔の前で両手を合わせた。


「で、どう思う、ユズ?」


 あかりが期待を込めた目でわたしを見る。

 どうって言われても、そんなの考えるまでもないじゃない。

 わたしは笑い混じりに答えた。


「無理に決まってるでしょ」

「えーッ」


 落胆したようにあかりが頭を抱える。夕子ちゃんは胸を張り、


「ほらあ、アタシの言ったとおりじゃん」

「えー、でも、できるよ! ユズはなんで無理だと思うの?」


 珍しくむきになっているあかりに色々な想いを抱きながら、わたしは考える。なんでって改めて訊かれると、けっこう答えづらい。


「なんていうか、普通、気づかれない? 顔が同じでも、仕草とか違うし。真似しても限界があるでしょ。普段その人とよく話す人たちは騙せないんじゃないかしら」

「うーん、そうかなあ? うまく演技すればいけるんじゃない?」

「無理無理。違う人間なんだから、そんな完璧に演じることなんてできないって。絶対どっかでボロ出るよ」


 夕子ちゃんが顔の前で手を振りながら否定する。あかりは面白くなさそうな顔になり、じゃあさ、と反論を試みた。


「あんまり親しくない人が相手だったらどう? そしたら騙せるんじゃない?」


 夕子ちゃんは急に勢いをなくして、あかりから視線を逸らした。


「まあ……。それなら、できなくもない気がするけど。ユズちゃんはどう?」

「それでも無理なんじゃないかな。ところで、そろそろ移動したほうがよくない?」


 わたしが目で時計を示すと、二人とも、あ、と声をあげた。


     *


 今日の三、四限目は、外部から講師を招いての講演会になっている。全校生徒が体育館に集まり、講演を聴くというわけだ。わたしたちからすれば、授業が潰れてラッキーという感じだけど、他にもう一つ、講師の先生に感謝しないといけないことがある。


「試験期間以外の半日授業って、すっごい得したような気分になるよね」


 隣を歩くあかりが弾むような声で言った。

 そう、午後からはその講師と先生方で勉強会を行うとかで、学校は午前で終わるのだ。すれ違う生徒の一人ひとりが妙に浮き足立っているように感じるのはそのせいだろう。半日授業と聞いてテンションの上がらない学生はいない。

 ちなみに、夕子ちゃんは教室の外で待っていた友だちと一緒に体育館に向かったので、わたしたちは二人で歩いている。


「あっ」


 あかりが急に前方を指差した。なんだろうとそこに目を向けてみると、特別教室棟から女子生徒が出てくるところだった。


 中肉中背で、肌は黒い。少し色素の落ちた髪を頭の下のほうで結んでいる。制服の上から来ているのがベストではなく学校指定のサマーカーディガンなのは、腕の日焼けを防ぐためだろう。わたしも同類なのでよくわかる。目鼻立ちは特別整っているわけではないけど、表情からは自分に自信を持っているような凛々しさが感じられる。

 間違いない。ついこのあいだまで一緒に部活をしていた先輩マネージャーにして、わたしの恩人――小松こまつ明日香あすか先輩だ。


「明日香せんぱーい!」


 あかりが手を振りながら先輩に向かって走っていく。全力で走るとまだ微妙に左頬が痛むので、わたしは小走りでそのあとを追った。

 先輩はわたしを見るなり、飛び出しそうになるほど目を見開いた。


「ユズ、あんた、その顔どうしたの?」

「一昨日の部活で、ボールが当たっちゃって」


 わたしは苦笑いで湿布を撫でた。


「うーっわ、それは痛い。せっかくの泣きぼくろも見えなくなってるじゃん」


 そう、それもわたし的にはかなりショックなのだ。


「でも、骨には異常ないみたいなので、しばらくしたら治りますよ」

「ならよかった。ずっとそんなんじゃ、嶋にアタックできないもんね」


 口を大きく広げ、先輩は笑った。

 流れで三人並んで歩きだす。明日香先輩はあかりを見て、


「あかり、あんたまた黒くなったんじゃない?」

「あ、わかります?」

「当たり前。暗い中歩いてたら、歯しか見えないわよ」

「でも、明日香先輩も人のこと言えないじゃないですか」

「これから白くなるの、あたしは。それに比べて、ユズはあんまり焼けてないわよね。ちゃんと毎日部活行ってる?」


 なんてことを言うんだ、この人は。わたしは笑いながら答える。


「行ってますよ。ちゃんと朝練も手伝ってます」

「まじ?」

「はい。ユズ、毎日頑張ってますよ」


 先輩は軽く頷いたあと、わたしを見て、


「さすが、私がマネージャー長に任命した後輩ね」


 と、にやっと笑った。


 先輩が引退したとき、マネージャーの経験や野球の知識からして、次のマネージャー長はあかりだろうと思っていた。だけど、明日香先輩はわたしを指名した。理由はわかっている。そうすれば、キャプテンに任命された嶋くんと話す機会が多くなるだろうと配慮してくれたのだ。だからわたしにとって、明日香先輩はただの先輩ではなく、掛け値なしの「恩人」なのだ。


「ところで先輩、受験勉強は捗ってますか?」


 あかりに訊かれると、明日香先輩は奥歯の痛みを堪えるような顔になった。


「まあまあね。でも、今日塾で大きいテストがあるから、昨日は徹夜だった」

「徹夜したんですか? けっこう元気そうですね」


 あかりがそう言うと、先輩はカーディガンのポケットから図書カードが一枚入るぐらいの大きさの封筒を取り出した。真ん中に大きく、『秋山翔吾(しょうご)先生』と書いてある。そして、封筒を裏返すと、『真弓幸恵』とあった。じゃあ、中身は……。


「保健室の利用証明書ですか?」


 先輩は頷いた。

 保健室利用証明書とは、読んで字の如く、保健室を利用したことを証明する紙だ。封筒からもわかるとおり、大きさは図書カード代。保健室から退室する前に、真弓先生が救急箱などが入った棚の引き出しから取り出して記入する。


 記入事項は、利用した生徒のクラスと出席番号、氏名、それから、保健室を訪れた理由。それらを書き終わったあと、真弓先生が署名し、印鑑を押す。これを担任に提出しないと保健室を利用したとは認められず、無届欠課、いわゆるサボリ扱いになってしまう。

 明日香先輩は封筒をカーディガンのポケットにしまいながら、


「一、二限は保健室で寝てたの。どうせ受験には使わない科目だから、徹夜して一、二限はサボろうって昨日から決めてたのよ。講演会も寝るわ」


 なるほど。それにしても明日香先輩、声が大きい。たぶんいまの、周りを歩いてた人たちに聞こえてましたよ。

 わたしは一つ、気になったことを尋ねる。


「なんで封筒に入ってるんですか? 普通、裸のまま貰いますよね?」

「ウチの担任、午後の勉強会には来るらしいんだけど、午前は出張でいないのよ。こういう場合、証明書は職員室の机に置いとけばいいんだけど、そしたら風で飛ばされないか心配だからって、真弓先生が入れてくれた。担任が出張だと、いつもそうしてるんだって」


 へえ。真弓先生、けっこう律儀なんだ。

 あかりが言う。


「でも明日香先輩、もう受験に使う科目まで決めたんですか? すごいですね」

「志望校は前から決めてたからね。でも、科目決めてる人は他にもたくさんいるわよ。そういう人たちはみんな、受験に使わない科目の授業は出ないで自習したいって思ってるわ」

「先輩がしたのも似たようなことですしね」


 まあね、と答えたあと、明日香先輩は小さく息を吐き、


「……本当なら、指定校推薦で行ければ一番いいんだけどね」


 と、しみじみと呟いた。

 公星高校には、明日香先輩の希望する千久万ちくま大学への指定校推薦の枠がある。推薦条件は、内申が四・八以上で、無断欠席、無断欠課がない生徒に限るというハイレベルなもの。明日香先輩は要領よく勉強できるし、休むときは必ず連絡をするので、この条件は満たしている。


 だけど、千久万大学に進学希望の人はもう一人いて、その人も完璧に条件をクリアしている。定員は一人だけ。推薦で行けなかったときのことも考えて、受験勉強の手を休めることはできないのだ。

 体育館に着く。三和土で靴を脱ぎながら、あかりが


「やっぱり、大学受験って大変なんですね……」


 と言うと、先輩はうんうんと頷いた。


「そうよ。あんたらも覚悟しときなさい。一年なんてあっという間だから」


     *


 全校生徒の集まる体育館は、いつものように蒸し風呂状態だった。団扇で首元を扇ぐ者は数知れず、男子生徒の中には、ズボンの裾を思いっきり上げて半ズボンにしている人までいた。並べられたパイプ椅子の、隣の席との間がやや広めに取られているのが唯一の救いといったところか。


「あっついね」


 パイプ椅子に腰掛けるなり、あかりはカーディガンを脱いだ。わたしもそれにならう。脱いだカーディガンは背もたれにかけた。

 ちなみに、座り方は出席番号順。わたしとあかりは出席番号が一つ違いなので、席は前後だ。気軽に声を掛けられる人がすぐ近くにいると、なんとなく安心する。

 ……まあ、暑さのせいで、のんきに喋る気力もないけど。それはあかりも同じのようで、緩慢な動作で手で顔を扇いでいる。体育館内には気だるい雰囲気が漂っていた。


 そうした中で始まった講演の内容は、至って普通だった。

 話を要約すると、「高卒と大卒では年収がアホみたいに違う。退職金もボーナスもないフリーターなんてもってのほか。よっぽどの理由がない限り大学へ行ったほうがいい」。そんなの言われなくてもわかってるっつーの、というのが生徒たちの本音だろう。

 途中、あかりに


「普通よね」


 と話しかけると、


「ホントにね」


 という答えが返ってきたほど、普通の内容だった。

 その後、前半が終わると十分のトイレ休憩があり、後半に入ると、なんと体育館の照明を消し、映写機を使って話し始めた。これは完全に逆効果だった。体育館を暗くしたせいで、眠気に負ける生徒が続出したのだ。

 一番左端の列、三年十組を見る。暗いからどんな体勢でいるかわからないけど、明日香先輩は堂々と寝ているだろう。


 ――と、そのとき。


 三年十組の列から、生徒が一人立ち上がった。座っていた場所は、列の半分よりだいぶ前の方。まさか、明日香先輩? 先輩は『小松』だから、出席番号は若いほうのはずだ。

 そう思ったけど、立ち上がった人の背は明日香先輩よりも高いことに気づいた。別人だ。トイレにでも行くのだろう、体育館の後ろのほうへ歩いていった。


 視線を前方に戻す。講師の先生のありがたいお話(フリーターのAさんと、大卒正社員のBさんの生涯収入の違い)がまだ続く中、あかりは完全に寝ていた。自分の意思で寝たわけじゃなく、睡魔を我慢しきれずいつのまにか寝てしまったんだと思うけど、顔は完全に下を向き、背中も曲がっている。

 ……試しに、背もたれにかかったカーディガンの袖を引っ張ってみる。反応なし。次は、カーディガンのポケットに手を入れてみる。これもまた無反応。

 じゃあ、これならどうだ、と背中を軽くデコぴん。やっとあかりはもぞもぞと動いた。けど、起きてなにか言うでもなく、再び眠りにつく。


 どんだけ熟睡してるんだっつーの。

 欠伸を噛み殺しながら、わたしは心の中でそう呟くのだった。


     *


 なにかの修行かと思うほど長く退屈な講演が終わると、最後は生徒会長のお礼の言葉で締めくくられた。わたしはこのとき、講演の最中よりも遥かに集中して壇上に立つ男子生徒を見つめた。

 身長は平均的だけど、手足が細いおかげでスラリとして見える。髪型は清潔感のあるショートヘア。輪郭はすっきりしていて目が大きく、やや童顔。まあまあのかわいい系イケメンと言えなくもない。


 生徒会長の森野もりの駿一しゅんいち先輩。この人こそ、もう一人の千久万大学希望者、平たく言えば明日香先輩のライバルだ。

 部活には入ってなかったけど、生徒会長という役職に就いていたのはかなり大きいだろう。明日香先輩だって、よくクラス委員をやってたけど……。学校側がどっちを取るか、正直、わたしには見当がつかない。


「いかにも、生徒会長です! って感じの人だよね」


 あかりが振り向きながら言ってきた。さっきまで半目だったのに、森野先輩が出てきた途端いつも通りの顔になっている。


「なんていうか、私、明日香先輩が不安になるのもわかるよ」

「……先輩は負けないわよ」


 そつのない賛辞をはきはきと並べる森野先輩を見ながら、わたしは呟いた。

 正直言って、わたしはあの生徒会長があまり好きではない。なんかどうも、『爽やかな好青年』というだけではない気がする。……ま、明日香先輩のライバルという先入観があるせいだと言われたらそれまでだけど。


 ――でもやっぱり、どうしても好感が持てないのよね。

 胡散臭い笑顔を浮かべながら講師のナントカさんと握手をする森野先輩に、わたしは改めてそう思うのだった。



 講演会のあと、わたしたちはまっすぐ教室には戻らず、保健室へ向かった。あかりが講演の最中にささくれをはがし、そこから出血してしまったためだ。保健室に行くほどのことじゃないとわたしは思ったけど、傷跡からばい菌が入って化膿するのが嫌なので、あかりは早めに消毒したいそうだ。

 特別教室棟の正面玄関のドアを開ける。ここから入れば、保健室は左に歩いてすぐそこだ。


「真弓先生、まだ眼鏡かけてるかな?」

「かけてると思うわ。眼鏡焼けって、そんなに早く治らないだろうし」


 廊下を歩きながらそんな話をする。あかりにはさっき、一昨日の真弓先生がどうして昼と夜で眼鏡を付け替えていたか説明したところだ。わたしが突き止めたわけじゃなく、嶋くんの推理だよと話すと、あかりは、


「嶋君神の子不思議な子、だね。藤井君のメールや足跡のこともわかっちゃったし」


 と、目を大きくして言った。

 本当はその他にもう一つ、昨日も事件を解いたんだけど、このことをあかりに教えていいのかわたしには判断できないので黙っていた。あかりが昨日の事件のことを他人に吹聴して回ることはないだろうけど、いままでのに比べたらやっぱりちょっと大事だし。わたしの勝手な判断で話すことじゃない。


 廊下のどん詰まりにある保健室は微かにドアが開いている。もしかしたら先客がいるかも、と思っていたら、明らかに男だとわかる豪快な咳が廊下にまで聞こえてきた。風邪気味の男子生徒でも来ているのだろう。

 すごい咳だね、とあかりと言葉を交わしながら、階段のわきを通る。

 そういえば、一昨日はここから熊代くんが下りてきたんだった。昨日、嶋くんと熊代くんの仲がいいと聞かされたときは心臓が止まりそうになったけど……。さすがに今日は会わないわよね、と階段を見上げる。

 思ったとおり、階段から下りてくる人はいなかった。階段を上る人もいなかった。


 ただ――。

 階段から、飛び下りてくる人はいた。


「はっ?」


 と声が出たときはもう遅い。

 中段辺りからダイブしたであろうその人は、中途半端な体勢で着地したせいで、そのままの勢いで何歩か前に流れ、その先にいたあかりとまともにぶつかった。


「わ!」

「きゃっ!」


 そして、あかりも隣にいたわたしにぶつかる。あかりはそのまましりもちをつき、わたしは壁に激突した。まるでコントのようにスムーズな玉突き事故だった。

 いたたた、と肩を押さえながら、わたしはあかりのそばでしりもちをついている男の顔を見る。いったい誰だ、この非常識な飛び降りヤローは!


「あ……」


 思わず声が出た。

 そこにあったのは、わたしがどうしても好きになれない顔――生徒会長の森野先輩だった。


「大丈夫ッ? いま、なにか悲鳴が聞こえたけど」


 保健室から真弓先生が飛び出してきた。森野先輩は曖昧な笑みを保健教諭に返した。


「すみません、ちょっと、階段から落ちてしまって……」

「怪我はない?」


 先生が近づいてくる。わたしとあかりが揃って、大丈夫です、と答えると、真弓先生の目は森野先輩に向けられた。


「あなたは?」

「ちょっと足を捻ったみたいで……」


 森野先輩は座ったまま、右足首を押さえた。そこを捻ったのだろう。

 真弓先生とあかりに支えられて、森野先輩はなんとか立ち上がった。そのまま二人の肩を借りて、びっこを引きながら保健室へ向かう。

 わたしは……そうだ、先生たちが通りやすいように保健室のドアを開けておこう。

 ゆっくり前に進む三人を早歩きで追い越し、スライドドアに手をかける。ドアを引く直前、森野先輩が、あ、と声を出したけど、気にせず全開にした。そこで突っ立っていても邪魔なので、先に保健室に入ると、


「……あ、どうも」


 椅子に座っていた男子生徒とばっちり目が合った。反射的に頭を下げる。そういえばさっき、保健室から大きな咳が聞こえてきたっけ。この人のだったんだ。胸の刺繍が青だから、三年生だ。

 その人はすごく驚いたような表情を浮かべて、ポケットに手を突っ込んだまま、小さく会釈を返した。机の上には保健室利用証明書がある。たぶん、これを書いている最中に真弓先生はわたしたちの悲鳴を聞いて、保健室から飛び出してきたのだろう。


「すみません。もう大丈夫です」


 後ろからそんな声が聞こえてくる。森野先輩はあかりたちから離れて、右足を引きずりながらも一人で歩いていた。捻挫でもしたのかと思ったけど、そこまでひどくなかったみたいだ。


「大丈夫か?」


 保健室に入ってくるなり、森野先輩は椅子に座っていた三年生に尋ねた。わたしは邪魔にならないように隅っこの壁に張り付く。

 座っていた先輩は頷いて、


「ああ。もうばっちりだよ」


 森野先輩はほっとしたように笑って、よかった、と呟いた。


     *


「本当にすまなかった」


 生徒会長の、もう何度目になるかわからない謝罪の言葉。向かいの椅子に座るあかりが笑いながら首を振る。


「大丈夫ですよ。私たち、なんの怪我もないんですから。先輩のほうこそ、足はもう大丈夫なんですか?」

「うん。もう痛くない」


 右足を動かして、大丈夫、とアピールする。

 さっき森野先輩が階段から飛び下りてきたのは、何者かに追いかけられて逃走していたたわけでも、おかしなクスリをやって気分がハイになっていたわけでもなく、段を踏み外して落ちそうになったから咄嗟にジャンプしてしまったということらしい。

 森野先輩はあかりと真弓先生のあいだに座るわたしに顔を向けた。


「川口さんも、すまなかった。怪我をしてるのに……」

「ああ、いえ。これは大したことないですし、大丈夫です」


 わたしが顔の湿布に手を当てながら笑顔を作ると、先輩も


「それはよかった」


 と、にっこり笑った。

 うーっっわ、胡散くせえー。思いっきり作り笑いのわたしが言うのもなんだけど、この人の笑顔、ぜんぜん信用できない。


「お前もドジだよなあ」


 森野先輩の肩を、隣に座る三年生が小突く。

 この先輩、名前は小宮山こみやまというらしい。スラリとした手足に短い髪と、シルエットにすれば森野先輩と見分けがつかなさそうな体格だけど、顔、特に大きい鼻が残念だ。あと歯並びも悪い。


 小宮山先輩は、講演会の途中で気分が悪くなって保健室に来たらしい。森野先輩はそれを心配し、迎えに来たところだったのだそうだ。

 二人は同じ三年十組。ということは、明日香先輩とも同じクラス。わたしが講演の途中で見た、三年十組の列から離れてどこかへ行った人は、小宮山先輩だったのだ。

 森野先輩は時計を一瞥すると、椅子から立ち上がった。


「小宮山、そろそろ教室に戻ろう」

「おう。じゃ、真弓先生、ありがとうございまーす」


 退室しようとする先輩たちを、真弓先生が呼び止めた。


「待って、小宮山君。今日、秋山先生は休みよね? 利用証明書、これに入れて」


 机に置いてあった封筒をかざす。さっき明日香先輩が持っていたのと同じやつだ。

 小宮山先輩は封筒に利用証明書を入れると、改めて頭を下げ、保健室をあとにした。

 ドアが閉まったあと、真弓先生は哀れみと苦笑いが交じり合った表情でわたしを見た。


「それにしても、川口さんは災難続きね。……ぶつかられたとき、顔痛くなかった?」


 わたしは湿布に手を添えて、


「ええ、まあ。少しは」

「やっぱり。傷はどうなってる?」

「腫れはだいぶ引いたんですけど、痣がまだ消えなくて」

「ちょっと見せてくれる?」


 湿布を半分ほどはがす。今朝、登校する前に治り具合はチェックしてある。悪くはなっていないけど良くもなっていなくて、朝からげんなりしてしまった。


「もうちょっとかかりそうね」

「そうですか……」


 その『もうちょっと』は具体的に何日ぐらいなんだろう? それがわからないと、どうも落ち着かない。

 そんな不安が顔に出てしまったみたいだ。


「川口さん」


 顔を上げると、力強く握りこぶしを作った真弓先生がいた。


「そんなに気に病むことはないのよ。ずっと湿布を貼ってるっていうのは、確かにちょっとは気になるかもしれないけど、だからって、あなたを嫌いになる人なんていないわ」


 言葉を選ぶ感じはなく、妙にスムーズに言い切る。まるで、誰かに言われたことをそのままわたしに伝えたような物言いだった。

 いったい、誰から言われたことなんでしょうねー、先生。

 含みのある笑みを浮かべるあかりの横で、わたしは何気なく、


「ありがとうございます。……ところで、さっきから気になってたんですけど、真弓先生、眼鏡焼けしてますよね?」


 ばれた? と、裸眼状態の真弓先生は笑った。


「姪っ子の試合を観に行ったときにね。こないだまで眼鏡で隠してたんだけど、そんなに気にしなくていいかなって思って。だから川口さんも、湿布をはがしたままでいなさいとは言わないけど、あんまり気にしなくていいのよ」

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