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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第四章 盗まれる木曜日
18/28

盗まれる木曜日 4


「犯人は長谷川さんだよ」


 特別教室棟の玄関前に戻ってくるなり、嶋くんはそう告げた。

 昼休みは残り十分。五限目の教室へ移動する生徒が見受けられる中、わたしたちは小さく、だけど急いで会話を進める。


「消去法でいくと、そうとしか考えられないんだ。まず熊代だけど、犯人は、尾花先生が後ろにいたから氏名以外を素直に名簿に記入した。熊代が犯人だとしたら、まずそれはありえない」


 どうして、と訊くと、嶋くんは即答した。


「熊代が尾花先生の授業を受けているからだよ。先生に顔と名前を覚えられているのに、名簿に一樹の名前は書けない」

「あ、そっか。確かにそうだね」


 尾花先生が気づかないこともあるかもしれないけど、わたしだったらとてもそんな可能性にかける気にはならない。堂々と藤井の名前を名簿に書けるってことは、先生と顔見知りではない証拠だ。


「さっき、嶋くんと熊代くんは世界史で一緒って言ってたもんね。担任、尾花先生だったんだ」


 なにも考えずそう言うと、嶋くんはきょとんとした顔をした。


「あ、ごめん。昨日の帰りに俺と尾花先生が話してるのを見てたから、知ってると思ってた」


 今度はわたしがびっくりする番だった。


「あ、ああ! そういえば、そうだったね。ごめん。で、熊代くんじゃないっていうのはわかったけど、西くんの場合は?」

「教室に行ったとき、西は弁当のツユで汚れた体育着を洗ってただろ。あれ、弁当を食べるときにこぼしたのかなと思ってたんだけど、違ったんだ。西は売店で弁当を買ったあと、リュックに入れたんだよ。そして、授業に後れそうになったから早歩きで教室に帰った。それで汁がこぼれたんだ。特製牛丼はふたと丼の大きさが微妙に合ってないから」


 できるだけ口を挟まないようにしてたけど、これはさすがに無理だった。


「ちょっと待って。なんでリュックにお弁当を入れたの? 普通、手に持って運ぶでしょ」

「普通はね。でも、三限目の休み時間は弁当ができたてでまだ熱いんだ」


 ああ。そういえばさっき、夕子ちゃんがそんなことを言ってたっけ。


「それが嫌だったんだと思う。左手を怪我してる西は、丼を右手で持つしかない。けど、熱い丼をずっと片手で持つのはきついと思ったからリュックに入れたんだよ」

「リュックに入れたって、西くん本人から聞いたの?」

「そんな質問をするのは、さすがに怪しいから無理だった。でも、間違いないと思う。さっき俺、西に化学の教科書を貸してくれって頼んだんだけど……」


 二人連れの女子生徒が近くを通る。声の聞こえない範囲までその子たちが移動してから、嶋くんは続けた。


「西は、教科書も弁当のツユで汚れてるから無理だって断ったんだ。弁当を食べようと蓋を開けたときにツユがこぼれて、それが体育着にかかったっていうのは、まあ、ありえない話じゃない。でも、教科書も一緒となると、話が変わってくる」

「なんで?」

「移動教室から帰ってきたら、鞄に入れてた教科書は机の中に戻すだろ? でも、体育着は机に入れない。つまり、体育着と教科書が二つ一緒にあるのは、鞄の中に入れているときだけなんだよ。だから、ツユがこぼれたとしたら、そのあいだということになる」


 そっか。さすがに、一回教科書にツユをこぼして、そのあとまた体育着にこぼす、なんて馬鹿なことはしないもんね。この二つにツユがかかるってことは、弁当も一緒にリュックに入っていて、そのときにこぼれたということになるわけか。


「リュックにお弁当を入れてたっていうのは、わかった。けど、それがなにか関係あるの?」

「大アリだよ」


 真剣な顔で頷くと、息を一つ吸い込んで、言う。


「さっきも言ったけど、学校指定のリュックはそんなに大きくないから、教科書と筆記用具、体育着が入れば、それだけでもうけっこうきつい。それに更に弁当が入ると、ミットなんて入りようがない」

「……あ、そっか」


 さっき嶋くんは、体育着と教科書、ミットならぎりぎり入る、と言っていた。裏を返せば、それ以上は入らないってことだ。特製牛丼の丼なんて、どう頑張っても無理だろう。


「教科書と体育着がツユで濡れたってことは、お弁当を買ったあと、リュックから出してないってことだもんね」

「そう。部室から持ち出したミットをリュックに入れず、どこかに隠したってことも考えられるけど、そんなことする必要性が感じられない。西は犯人じゃないってことになるよ」


 熊代くんと西くんは犯人じゃない。となると、残るのは一人だけ。


「それで、長谷川さんが犯人ってことね」



 わたしたちは校門前から図書室に場所を移した。移動中、長谷川さんが逃げないかと少し不安だったけど、そんな素振りは一切見せず、わたしたちのあとを付いてきてくれた。

 特別教室棟に自習室が豊富にあるせいか、放課後の図書室はほとんど人が入っていなかった。いるのは、カウンターで受付をする図書委員ぐらい。そのカウンターから一番遠い席にわたしたちは腰を落ち着けた。嶋くんはわたしの隣に、長谷川さんはわたしの正面だ。

 少し遠慮がちに、嶋くんが切り出す。


「あの、訊きたいことっていうのはさ……」

「わかってます」


 話の途中で、長谷川さんが遮った。

 ずっとうつむいていた彼女が、やっと顔を上げる。少し潤んだ、だけどどこか力強さを感じさせる瞳。それをわたしたちに向けて、はっきりと言い切った。


「野球部の部室からグローブを盗んだのは、わたしです」


 嶋くんと顔を見合わせる。素直についてきてくれた時点で、ほとんど自分で認めたようなものだったけど、まさかこうも潔く告白してくるなんて。

 長谷川さんはもう一度顔を伏せて、いまにも泣き出しそうな声で、こう続けた。


「ごめんなさい」


 ……胸が痛くなってきた。長谷川さんの声や、顔や、姿勢を見てると、わたしまで泣きそうになってくる。

 どうしてかはわかっていた。わたしは長谷川さんに同情しているんだ。


「あの、落ち着いて」


 わたしは、できるだけ柔らかい口調で長谷川さんに喋りかけた。


「わたしたち、怒ってるわけじゃないの。ミットを返してもらえれば、それで充分だから。ね、嶋くん?」


 ああ、と嶋くんが返事をする。


「長谷川さんのことはもちろん、ミットが盗まれたことも誰にも言ってないわ。だから、安心して」


 長谷川さんが顔を上げる。表情には、驚きの色がはっきりと見て取れた。


「誰にも言ってないんですか? 先生にも?」

「うん。言ってたら普通、先生が来るはずでしょ?」


 小さく口を開けて、長谷川さんは固まった。言葉を探すようにぱくぱくと何回か口が動く。最終的に出てきたのは、至ってシンプルな問いかけだった。


「……どうして?」

「あんまり大事にしたくなかったの。自分たちで取り戻す方が、わたしたちのためにも……ミットを盗んだ人のためにもなると思ったから」


 ね、と嶋くんと顔を見合わせて頷く。そのまま、嶋くんがあとの言葉を引き取った。


「これからも言うつもりはないよ」


 長谷川さんの視線は、この人たちは本気で言っているんだろうか、というように、しばらくわたしと嶋くんを行ったり来たりした。わたしたちはなにも言わず、その視線を受け止める。

 それで、わたしたちの言葉に嘘がないと確信したようだ。長谷川さんはまたうつむいて、こう言った。


「すみません。……ありがとうございます」


 小さな頬に、涙が伝うのが見えた。


     *


 開いた窓の外に見えるテニスコートでは、女子テニス部が並んでランニングを始めていた。窓際に置かれた扇風機の風と一緒に、いっちに、いっちに、の声が届いてくる。普段野球部の低くて太い声しか聞いていないわたしにとって、高い掛け声はなんだか新鮮だった。言い方も、女の子らしい可愛らしさみたいなものがある。


「すみません。先輩たち、部活ですよね」


 うつむいていた長谷川さんが、はっとしたように顔を上げる。顔はまだ濡れているし、声も鼻声だった。


「大丈夫よ。落ち着いてからで」


 ハンカチが入ってないかと鞄を探るけど、見当たらない。代わりに使いかけのポケットティッシュがみつかった。……まあ、ないよりはいいよね。


「はい、これ。ぜんぶ使っていいから」

「あ、どうも」


 ティッシュで涙を拭くと、頭を軽く横に振った。それですっきりしたようで、長谷川さんは小さく息を吐き、ポケットティッシュを渡してきた。


「ありがとうございます、川口先輩」

「あ、名前……」

「はい、知ってます。嶋先輩も。二人とも有名ですし、瑞樹からもよく話を聞いてます」


 そうだったんだ。わたしたちがなにで有名なのかは知らないけど、瑞樹、長谷川さんに部活の話とかするんだ。

 嶋くんが尋ねる。


「じゃあもしかして、鍵の名簿に一樹の名前を書いたのも、武田から聞かされて知ってたから?」

「あ、はい。名前しか知らないんですけど、あのときは藤井先輩しか思いつかなかったんです」


 藤井しか思いつかなかった? 同じクラスには平野くんや他の野球部員もいるのに。疑問がストレートに顔に出たらしいわたしに、長谷川さんが慌て気味に説明する。


「わたしが名簿を書くとき、後ろで男の先生が順番待ちをしてたんです。だから、あんまり男らしい名前を書くのはまずいって……」


 ああ、なるほど。先生に見られても怪しまれないように、女の子ともとれる名前を書かないといけなかったってことね。となると、平野くんの「淳太郎じゅんたろう」や、嶋くんの「良次」はまず無理だ。


「でも、カズキなんて女の子いるかなあ?」

「いるよ。昨日、真弓先生の姪っ子が『一姫』って名前だって聞いたろ?」

「あー、そっか。そういえば、そうだったね」


 そんな会話をするわたしたちに、長谷川さんがおずおずと声をかける。


「あの、ですから、藤井先輩はまったく関係ないんです。わたしに協力したとか、そんなことはぜんぜんないです」

「うん。それは最初からわかってたから大丈夫よ」

「そうですか。よかった……」


 長谷川さんは、ほっとしたように笑顔を見せた。

 なんだかわたしまでうれしくなってくる。校門で話しかけてから、長谷川さんはずっと張りつめた表情のままだった。それがいま、初めて緩んだ。

 けど、それはほぼ一瞬だった。長谷川さんはすぐに口許を引き締めて、横に置いてあったエナメルバッグを引き寄せた。


「……これは、お返しします。本当にすみませんでした」


 取り出されたのは、見覚えのある青いミットだった。嶋くんが早く届かないかと心待ちにし、そして、わたしたちが昼休みのあいだずっと捜し求めていたもの。

 ――今朝、ナカムラスポーツで買った、保田駿一選手モデルのあのミットだった。

 ミットを受け取った嶋くんは一瞬、表情を綻ばせたけど、すぐに真顔に戻った。


「どうして盗んだのか、訊いてもいいかな?」


 長谷川さんは、嶋くんに向けていた視線を机の上に落とした。そのまま、いままでよりもっと小さい声で話し始める。


「わたし、慶介けいすけっていう弟がいるんです。いま小六で、野球部でキャッチャーをやってます。……その慶介が、先月、学校前で交通事故にあったんです」


 はっとして、わたしは嶋くんと目を合わせる。先月、小学校前で起こった交通事故。わたしたちはそれに心当たりがあった。今朝、ナカムラスポーツで観たニュースだ。


「長谷川さん。もしかしてそれ、倉橋小か?」

「はい。……ああ、そうですね、嶋先輩も倉橋小ですよね。弟は校門前で居眠り運転の車にはねられたんです。命に別状はないんですけど、特に右腕がひどい怪我で。……明日、手術なんです」


 長谷川さんは、一旦そこで言葉を切った。小さく深呼吸して、また話し始める。


「手術が成功するかどうかは、五分五分だそうです。失敗すると、もう野球なんてできなくなるし、うまくいっても、そのあとはリハビリを続けないといけないって言われました。慶介は、手術が怖いって、ご飯も食べられなくて……。それでわたし、言ったんです」


 長谷川さんの瞳が、ちらりと嶋くんのミットへ向けられる。


「お守りに、慶介がずっと欲しがってた保田選手のミットを買ってあげるって。だから怖がらずに手術を受けて、そのあとは保田選手みたいにリハビリを頑張るって、二人でそう約束したんです」


 なんとなく、話の展開が読めてきた。たぶん嶋くんもそうだろう。


「そのためにわたし、先月からバイトを始めたんです。でも、このあいだミスをしてしまって……。お店の商品をいくつか駄目にしてしまったんです。弁償額は、わたしの給料から引かれることになりました。残ったお金では、とてもミットを買えませんでした」


 ……なんだろう、聞いてて、だんだん落ち着かなくなってきた。わたしは腰を上げて椅子を少し前に寄せる。長谷川さんはあくまで下を向いて、わたしたちとは目を合わさず、話を進める。


「約束では、今日ミットを買って持っていくことになっていたんですけど、わたしは、慶介にそのことを言えないままで……。家はもともと裕福じゃないので、お母さんたちにお金を頼むこともできないし、友だちから二万円も借りることはできません」


 長谷川さんの声が、徐々に小さくなっていく。


「学校に行くときも、どうしようって思いながら歩いてました。……そしたら、ナカムラスポーツの前で、先輩たちがいて……」


 そこまで言って、長谷川さんは黙った。わたしたちも、その先は聞かなくて充分だった。


「本当にごめんなさい。嶋先輩がミットを持っているのを見ると……。駄目だってわかってても、止められなかったんです」


 目の前の小さく細い肩が震え始める。わたしはもう一度ポケットティッシュを差し出した。

 窓の外では、耳に馴染んだ蝉の鳴き声と、テニス部のかわいらしい掛け声が響いている。距離にすればすぐ近くのはずなのに、どうしてか、わたしにはその楽しげな空間がすごく遠くに感じられた。

 少しの沈黙のあと、嶋くんが口を開いた。


「じゃあ、この二千円は? お詫びのつもり?」


 ポケットから例の千円札を取り出す。長谷川さんは小さく顎を引いて、ぜんぜん足りてないんですけど、とほとんど消え入りそうな声で言った。

 嶋くんがきつく両目をつむる。五秒ぐらいそうやって、また目を開くと、ティッシュを目に当てる長谷川さんを一瞥して立ち上がった。


「ちょっとお願い」


 小声でそう言い残して、そのまま図書室から出て行く。鞄やミットは置いたままだ。

 長谷川さんが顔を上げる。涙は止まったみたいだけど、目はまだ赤かった。


「嶋先輩は、怒ってるんでしょうか……」

「ううん、それはないよ」


 そうですか、と返事して、長谷川さんはまたうつむく。もう泣いてはいなかったけど、どこかぼんやりした顔をしていた。

 わたしは、目の前の小さな女の子がいまどんな状態なのか想像できた。

 自分のことを改めて説明することで、情けない気持ちとか申し訳ない気持ちが一気に襲ってきて、どうすればいいかわからなくなっている。この表現が正しいのかはわからないけど、たぶん、感情が状況に追いついていない。いまの長谷川さんは、そういう風になっているのだ。

 ……嶋くんと話をしなくちゃいけない。わたしは椅子から立ち上がった。


「ちょっとトイレに行ってくる。また戻ってくるから待ってて」


 彼女がこの隙に逃げてしまうかも、なんて考えは微塵もなかった。

 図書室から出ると、目的の人はすぐに見つかった。

 わたしに背を向ける形で、嶋くんは廊下の奥に立っていた。顔を下にむけて、胸の前に回した掌を覗き込むようにしている。なにをしてるのか気になるけど、いまはそれより大事なことがある。わたしは駆け寄り、嶋くん、と声をかける。


「あのミット、長谷川さんに譲ってあげられないかな?」

「駄目だ……」


 ため息とともに、嶋くんはそう答えた。びっくりして少し後ろで足を止める。そんな、もう否定?


「で、でも、嶋くん。もうちょっと考えられないかな? 難しいってことは、わかってるけど」

「ん? ああ、川口?」


 わたしのほうを振り返り、


「ちょうどよかった。悪いんだけど、一万円貸してくれないか?」

「……え?」


 見ると、嶋くんの右手には黒い二つ折りの財布が。さっきは、手に持った財布の中身を確認してたらしい。


「どう頑張っても一万円足りないんだ」

「ちょ、ちょっと待って。足りないって、なにを買うつもりなの?」

「キャッチャーミットだよ。今日ナカムラスポーツで買ったのと同じやつ」

「えええっ?」


 なにを冷静に言ってるんだ、この人は。さっきの重苦しい「駄目だ……」はなんだったの?

 わたしのリアクションを勘違いしたみたいで、嶋くんは申し訳なさそうに眉を下げる。


「ごめん、驚くよな。でも俺、話を聞いてると長谷川さんが可哀想になって。俺も怪我したことあるから、弟さんの気持ちもわかるし……。だから、いまあるミットは長谷川さんに譲って、べつのところで同じミットを買おうって」


 どうしよう。わたしが言おうとしたこと、ぜんぶ言われちゃったよ。


「お金は、長谷川さんのバイト代が入ったら返してもらうことにするから」

「いや、あの、そういうことじゃなくて。さっき駄目だって言ったのは、なんだったの?」


 きょとんとした顔で、


「お金が足りなかったからだけど」


 つまり、駄目だ、お金が足りない、ってことだったの? なんじゃそりゃ。


「ごめん、なんか変だった?」

「変ではないけど……」


 わたしが言ったことはまったく聞こえてなかったんだ。なんか、一気に力が抜けた。短時間のうちにものすごく驚いて、すぐ安心して、って、もう、なんかのジェットコースターに乗った気分だ。

 わたしは大きく息を吐くと、嶋くんを見上げた。


「うん、わたしも同じこと考えてたんだ。一万円なら、家に帰れば用意できると思う」

「ほんとか? ありがとう」


 緊張した顔から一変、子どもみたいな笑顔。

 ずるいなあ、と思ってしまう。

 そんな顔されたら、ややこしいフェイントかけられたのだって、許す気になっちゃう。


10


「本当にいいんですか?」


 長谷川さんは、何度目になるかわからないセリフを口にした。


「いいよ」


 嶋くんも、何度目かの頷き。


「もともと、今日ミットを受け取ったことは俺たちしか知らないんだ。だから、誰かに不審がられることはない。新しいミット、注文はしてあるんだろ?」

「はい。長谷川って言えば大丈夫です」


 長谷川さんは、事前にスポーツショップでミットを注文してあったらしい。その場所を教えてもらって、後日嶋くんが買いに行くということになった。

 ミットを受け取ると、長谷川さんは机につきそうになるぐらい深く頭を下げた。


「本当に、どうもありがとうございます」


 また涙声になっていたけど、それを笑う気にはぜったいにならない。


「バイト代が入ったら、すぐにお金を返しますから」


 鞄を開け、ミットを入れる。その中にちらっと、寄せ書きがされた野球ボールが見えた。わたしの視線に気づいたんだろう、長谷川さんはそのボールを取り出した。


「これ、慶介の友だちが今朝持ってきてくれたんです。今日は病院に行く時間がないから、慶介に渡してくださいって」

「そうなんだ。……あれ?」


 寄せ書きの中に、見覚えのある丸っこい字があった。『ファイトだ慶介くん!』というメッセージで、その下には予想通り、武田瑞樹の名前が。


「瑞樹も書いたの?」

「ああ、はい。休み時間にこのボールの話をしたら、瑞樹があたしもメッセージ書きたいって言って」


 なんだか瑞樹らしいな。そう思ったわたしが口許を緩めていると、


「じゃあ、俺も書いていい?」

「え、嶋くんも?」

「うん。俺も寄せ書き貰ったことあるんだけど、こういうのって、ぜんぜん知らない人とかからでもうれしいからさ。……もちろん、長谷川さんが迷惑でなければでいいんだけど」

「ぜんぜんオッケーです! ていうか、是非お願いします」


 言いながら、長谷川さんは筆箱からネームペンを取り出して、ボールと一緒に嶋くんに渡す。嶋くんがメッセージと名前を書き終えると、長谷川さんはわたしに顔を向けた。


「川口先輩も、面倒でなければ」

「……うん。わかった」


 嶋くんからペンとボールを受け取って、メッセージを書く。あんまりスペースもないので、『負けるな慶介くん』とだけ。そのしたに川口とだけ記して、ペンとボールを長谷川さんに返す。


「わたしの名前、漢字がごちゃごちゃしてるからネームペンだと上手く書けないの」

「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」


 長谷川さんはボールを大事そうに鞄にしまった。


「本当にありがとうございました。なにからなにまで」

「気にしなくていいよ。慶介くんの手術、成功するといいね」

「たぶん大丈夫です。お守りがあるから」


 鞄の中のミットとボールに手を置く。わたしと嶋くんは顔を見合わせて笑った。


「よし。……じゃあ、そろそろ行くか」


 嶋くんが鞄を持って立ち上がる。テニス部は、準備運動はとっくに終えてラリーを始めていた。

 確かに、そろそろ行かないとまずそうだ。


     *


 理科室棟を出て長谷川さんと別れたあと。二人で部室に向かう途中、わたしはずっと気になっていたことを尋ねた。


「ねえ、嶋くん。訊いてもいい?」

「ん? なに?」

「どうして一回もわたしを疑わなかったの? 嶋くんは最初、犯人はミットが部室にあることを知ってた人だって言ったでしょ。それで長谷川さんたちを挙げたけど、その中にわたしは入ってなかった。わたしもミットのことは知ってたのに」

「ああ、そっか。……気づかなかった」


 前を見ながら、嶋くんはさらりと言ってのけた。


「同じ野球部だってのもあるし、川口はそういうことをしない人だって、無意識に外してたんだと思う」

「そっか……」


 わたしはそういうことをしない人、ね。

 前方にあるハンドボールコートからは、ハンド部の掛け声が聞こえてくる。わたしは、わざと嶋くんに聞こえるかどうかぎりぎりの大きさで、言った。


「もし、わたしが犯人だったらどうしてた?」


 嶋くんがこっちを見る。聞こえたらしい。


「川口が?」

「うん。しかも、長谷川さんみたいな理由じゃなくて、ストレスの発散のために、とか、そんな理由で盗んだとしたら……怒った?」

「怒った……かなあ?」


 腕を組んで、考えるように、うーんと唸る。

 ハンドボールコートの横を通る。部室まであと少ししかない。


「いや、でも、まずなんでそんなにストレスが溜まってたのか訊くと思う」

「それだけ? 見損なって口利かなくなるとか、そういうことはないの?」

「それはないよ。盗難するぐらいストレスが溜まるなんて、なにがあったんだ、って訊くよ」

「そうなんだ。……じゃあ、もしそれで悩みごととか相談したら、乗ってくれてた?」


 わたしは、できるだけ軽く聞こえるようにそう言った。冗談だと受け取ってもらってもかまわないってぐらい、軽く。


「乗る」


 ほとんど考える間もなく、嶋くんはそう答えた。わたしは驚いて、顔を上げて嶋くんを見る。瞳をそらさず、嶋くんはもう一度続けた。


「乗るよ。役に立つかはわからないけど」

「……そっか」


 話、聞いてくれるんだ。わたしのこと、嫌いにならないんだ……。

 わたしはこみ上げてくるものを抑え、精一杯明るい声を作って、答えた。


「ありがとう、嶋くん! ごめんね、変な話して。またあとで」

「ん。いや、大丈夫だよ。……じゃあ」


 手を振って、わたしはマネージャー用の、嶋くんは選手用の部室に別れる。

 たぶん、グラウンドに行くと遅すぎだとあかりと瑞樹に怒られるだろう。でも、そんなことはどうでもいい。

 わたしには、人に言えない秘密がある。だけどそれは、ずっと嶋くんの近くにいたいと思うなら、いずれ言わなくちゃいけないことだ。昨日まで、それを告白したとき、嶋くんはどう思うだろうと不安だったけど……。


 犯人は悪い人じゃないと信じ、先生たちに話すのを嫌った。長谷川さんの話を聞き、すぐにミットを譲る決意をした。そして、いまわたしに言ってくれた言葉。

 今日一日の嶋くんの行動を思い返して、わたしは確信するのだった。

 嶋くんなら大丈夫。こんなわたしでも、きっと受け入れてくれる、と――。

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