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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第四章 盗まれる木曜日
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盗まれる木曜日 2


「……ああ、わかった。サンキュー、一樹」


 電話を切ると、嶋くんは普通よりも三倍ぐらい濃いブラックコーヒーでも飲んだかのような顔でかぶりを振った。

 職員室で名簿を見たあと、わたしたちは特別教室棟の玄関前に戻った。なにか特別な理由があったのかもしれないと藤井に電話をかけてみたけど、そんなことはなかったらしい。


「川口の言うとおり、一樹は一限目の休み時間は外に出てないし、誰かに自分の名前を名簿に書かせた覚えもないそうだ」

「そっか。じゃあ、キャッチャーミットは……」


 わたしが口ごもると、嶋くんが続く言葉を引き取った。


「盗まれたってことになるな」


 わかってはいたことだけど、はっきり口にされるとずしりと心が重くなる。公星高校で盗難事件が発生。しかも、野球部でだ。わたしはため息をなんとか飲み込み、嶋くんに言う。


「先生に連絡した方がいいよね? 野村先生、職員室にいるかな」

「いや、ちょっと待って」


 歩き出そうとしたところを引き止められた。わたしに見上げられると、嶋くんは少しのあいだ視線を泳がせたけど、すぐに意を決したように口を開いた。


「この昼休みのあいだだけでいいから、俺たちだけで犯人を捜さないか?」


 言葉の意味を理解するのに、少し時間が必要だった。


「えーっと……。それって、先生たちには内緒にするってこと? まずいよ」

「まずいってことは俺だってわかってる。だから昼休みまでなんだ。それ以上先生たちに黙ってるのは、さすがに無理だから」


 嶋くんの意図がわからず、首を傾げてしまう。


「じゃあ、なんで昼休みのあいだは自分たちで捜そうなんて思うの? 連絡するなら早いほうがいいじゃない」

「……考えてみてくれ。わざわざ一樹の名前を騙ったってことは、一限目の休み時間に部室の鍵を借りた人物がミットを盗んだ可能性が高い」

「それは知ってるけど……」

「それで、思いだしてほしいんだけど、あの名簿に書かれた一樹の名前は、書き直された形跡はなかったよな?」


 さっき見た光景をもう一度頭の中で再生する。

 名簿に書かれた名前は『藤井カズキ』。最初見たとき、藤井のやつ自分の名前ぐらい漢字で書けよと思ったけど、いまにして思うと、犯人は『一樹』の字がわからなかったからカタカナにしたんだ。でも、それ以外にはとくに目立つところはなく、一度書いたものを消しゴムで消して、もう一度書き直した様子もなかった。


「確かに、消しゴムを使った跡とかはなかったね」

「だろ? つまり犯人は、部室にミットが置いてあるのを知っていた人物ってことになる」

「はい?」


 思いっきり話を省略された。ごめん、と一言謝って、嶋くんは早口で説明を始める。


「なんとなく部室に行ったら欲しかったミットがあって、つい盗んでしまった、っていうんじゃ、最初に自分の名前を書いて、そのあとに証拠隠滅のために一樹の名前に書き直すだろ? でも、この犯人は最初から一樹の名前を書いている。つまり、これから部室に行ってミットを盗むから、自分の名前を残しておくのはまずいと判断したんだよ」


 ああ、そっか。確かに、名簿に他人の名前を書くなんて、これから後ろめたいことをする人しかしない。つまりこの盗難は、突発的なものじゃなく計画的なものってことになる。だけど、一つだけ疑問があった。


「でも、嶋くん。ミットを盗むのが目的で鍵を借りたとは限らないんじゃない? なんでもいいからとりあえずお金になりそうなものを盗むのが目的だったって考えれば、部室にミットがあるのを知らない人でも犯人になると思うんだけど」

「それはないよ」


 びっくりするぐらいの即答だった。どうして、とわたしが訊くと、嶋くんはポケットから千円札を二枚取り出した。


「これが、ミットのあった場所に置いてあったんだよ。他の部員が落としたのかもって思ってたけど、名簿に名前がない以上、それはない。だからこれは、犯人が置いていったものだ」

「は、犯人がお金を?」


 そんな。盗難しておいて、代わりにお金を置いていく泥棒なんて聞いたことがない。


「お金が目的なら、そんなことはしないだろ?」

「それはそうだけど……」


 言いながら、わたしは嶋くんの手に握られた二枚の千円札に目をやる。毎日のように目にする、野口英世の描かれたお札。

 思わず眉を寄せてしまう。


「……これって、弁償のつもりなのかな?」

「たぶんね」


 ミットを盗んで、代わりに二千円を置いていく泥棒か……。いろいろと考えたいこともあるけど、いまは後回しだ。


「お金が目当てじゃないっていうのは、わかった。でも、キャッチャーミットが部室にあることを知ってた人って、何人ぐらいいるのかな?」

「そう、それなんだけど。川口、誰かに俺のキャッチャーミットのこと話した? 野球部じゃなくてもいいから」

「話してないよ」


 基本的に、わたしが教室でまともに喋るのはあかりだけだ。そのあかりが野球部なんだから、ミットのことは話しようがない。

 嶋くんは安心したように小さく笑い、


「よかった。じゃあ、だいたい三人に絞られる」

「三人?」

「うん。一人目は、今朝、俺と川口と一緒にナカムラスポーツの前で信号待ちをしていた女子生徒。あの距離なら俺たちの会話が聞こえていたはずだ」


 わたしたちの近くで信号待ちをしていた女の子を思いだす。あの子には見覚えがあるから、顔を思いだすのは難しくなかった。


「わたし、あの子のこと知ってる。話したことはないけど、瑞樹の友だちよ」


 一昨日の部活中、渡り廊下で雨宿りをしてるとき、瑞樹は通りかかったあの子に話しかけていた。確か、『ナオ』と呼んでいたはずだ。


「ほんとか? じゃあ、武田に聞けばあの子のクラスとかわかるんだな?」

「うん、そうだと思う」


 けっこう親しそうに話してたし、クラスメイトの可能性も高い。脇を人が通ったから、少し声をひそめて嶋くんに尋ねる。


「で、嶋くん。ミットのことを知ってるあとの二人は誰なの?」

「あとの二人は、俺の友だち。野球部じゃないからいいかなと思って、一限目の体育のとき、つい話しちゃったんだよ」


 嶋くんの友だちね。体育は男女で別れるから、二人とも男子だ。

 ナカムラスポーツの前で信号待ちをしていた女子生徒。嶋くんの友だちの男子生徒が二人。

 わたしは頭の中で、もう一度再確認した。……まあ、嶋くんの理屈で言うと、もう一人疑わないといけない人がいるけど、それはいいや。


「嶋くんの言うとおりだね。可能性が高いのは三人。……でも、どうして?」


 一つだけ、まだわからないことがあった。顔を上げて嶋くんを見る。がっちり視線がぶつかるのは少し恥ずかしかったけど、いまは気になる気持ちのほうが強かった。


「どうしてそれで、犯人を自分たちで捜そうなんて言ったの? 確かに、三人だけなら頑張ればなんとかなりそうとは思うけど……」


 わたしが好きになった人は、自分で犯人を見つけたほうがカッコいいから、なんて理由でこんなことは言わないはずだ。わたしは彼女でもなんでもないけど、それだけはわかる。そんな人だから、わたしはたくさんのリスクを犯してでも公星に来ようと思ったのだ。

 嶋くんは迷うように口ごもったけど、それは一瞬のことだった。なにかを決意したような顔で、はっきりとこう言った。


「俺、この犯人はそんなに悪いやつじゃないと思うんだよ。あの二千円のこともあるし、部室もまったく荒らされてなかったし。だから、できるなら穏便に済ませたいんだ。もし俺の友だちが犯人だった場合は、ちゃんと自分で話がしたいし……。先生にばれるとさ、そいつも、色々と気に病んだまま学校に来なきゃならなくなるだろ。……俺は、そんなのはいやなんだよ」


 声こそ小さいけど、最後の一言には力がこもっていた。


「きっと、ミットを盗んだのはなにか魔が差したからとか、そんな理由だと思うし……あの、川口?」


 こらえられず下を向いたわたしに、嶋くんが戸惑ったような声をかける。こっそり目元を拭ってから、わたしは顔を上げた。


「うん、そうだね……。わたしたちだけで済ませたほうが、きっといいもんね」


 精一杯笑顔を作って答えた。大丈夫かな、と思ったけど、嶋くんもほっとしたように笑ってくれた。


「ありがとな。……笑われたかと思ったよ」

「そんな、笑うわけないじゃん!」


 慌てて首を振る。さっきの嶋くんの言葉を笑うやつがいたら本気で殴ってやりたい。

 嶋くんはケータイを取り出して、時間を確認した。わたしも同じように腕時計を見る。昼休みはあと三十分弱だった。盗難の犯人を見つけるのに平均してどのくらいかかるか知らないけど、決して余裕があるわけじゃないってことはわかる。わたしと嶋くんは、顔を見合わせて頷いた。


「まずは、武田に会いに行こう」

「うん。あの女の子のことを聞かないとね」


 瑞樹のいる一年二組は教室棟の四階。特別教室棟の二階から伸びる渡り廊下を通るのが最短ルートだ。わたしたちはもう一度特別教室棟に入り、階段を上がった。


「でも、体育のときに友達に話すなんて、嶋くんは相当ミットのことが楽しみだったんだね」


 階段の途中、わたしは嶋くんに話しかけた。


「ああ。我慢できなくて、つい。クラスも違うし、そいつらはあんまり言いふらすタイプじゃないから、大丈夫かなって」

「へえ、そうなんだ。その友だち、なんて名前なの?」

「川口も知ってると思うよ。一人は、五組の西にしってやつ。サッカー部でキーパーやってる」


 キーパーの西くん。聞き覚えがあった。シュートを止めきれず、しっかりしろ、と怒鳴られているのを何回か見たことがある。

 わたしは耳たぶのあたりに手を置きながら訊いた。


「もしかして、ちょっと髪が長い人?」

「そう、そいつそいつ」

「嶋くん、あの人と仲いいんだ。なんか意外」


 髪型のせいかもしれないけど、西くんはなんとなくチャラそうな人に見える。嶋くんがそういう人と話すイメージはあんまりない。


「いや、普通にいい奴だし、真面目だよ。いまは腕を怪我してて普段どおりの練習はできないけど、基礎練は欠かさずやってるし、家に帰ると練習試合のDVDばっかり観てるらしいし」

「へえー、めちゃくちゃ意外。でも、だから嶋くんと気が合うんだね」

「……そうかも。会えばだいたい、部活のこと話してるし」

「ふふ、やっぱり。で、もう一人のミットのことを知ってる友だちって誰?」


 声が高くなっているのが自分でもわかった。

 そんな場合じゃないって自覚はあるけど、このときのわたしは、ぶっちゃけ、浮かれていた。さっきの嶋くんの言葉がうれしかったのだ。浮かれすぎて、昼休みに嶋くんと二人で歩くのを恥ずかしいと感じることもなかった。

 だけど――。


「そいつも五組だよ。熊代っていうんだ。……あ、そういえば、川口は中学が一緒だよな?」


 そんな気持ちは、一瞬で吹き飛んだ。



 わたしたちと一緒に信号待ちをしていた女の子は、長谷川はせがわ奈央なおちゃんといった。

 瑞樹を訪ねて一年二組に行くと、思ったとおり彼女もクラスメイトだった。いまは机に突っ伏して眠っている。


「ナオとは気が合うみたいで、同じクラスになってすぐ仲良くなりました」


 先輩二人に廊下に呼び出された瑞樹は、嫌な顔一つせず長谷川さんのことを話してくれた。


「ってか嶋先輩、ナオのこと知らないですか? 小学校も中学校も同じですよ」

「え、そうなのか? ぜんぜん知らなかった」

「まあ、ナオは帰宅部だったらしいから、接点が無かったんでしょうけど」

「たぶんそれだ。ところで、どうして長谷川さんは寝てるんだ? 体調崩して、保健室にでも行ったのか?」

「いえ、行ってないですよ。なんかバイトで疲れてるらしくて、お昼食べたらすぐ寝ちゃいました」


 わたしたちの質問攻めに、さすがにおかしいと思ったのか、瑞樹の眉が少しだけ上がった。


「先輩たち、なんで急にナオのことを?」


 わたしは事前に用意していた言い訳を素早く述べる。


柔阪じゅうさか高校の二年生にね、長谷川さんにそっくりな選手がいるの。もしかしたら兄弟かなあと思って」

「ナオに? いえ、弟はいますけど、お兄さんはいないですよ」

「えー、うそ。一限目の休み時間に化学室から出てくる長谷川さんを見たら、すっごいそっくりだったんだけどなあ。横顔だったからかしら?」


 ちなみにこれ、真っ赤な嘘だ。一限目の休み時間は教室であかりと喋っていた。


「化学室って……。あたしたち、一限目は国語でしたけど」

「あれ、そうなの? おかしいわね。じゃあ一限目の休み時間、長谷川さんはずっと教室にいたの?」

「いませんでしたよ。家に置き忘れたプールセットをお母さんが届けに来るからって言って、鞄持って出て行きました。お母さんが来るのが少し遅れたみたいで、遅刻ぎりぎりに帰ってきましたけど」


 長谷川さんの席に目を向ける。机の横には学校指定のセカンドバッグが置かれていた。確か、朝もこのバッグを肩にかけていたはずだ。プールセットはその中に入っているんだろう。

 もう一つ、気になることを尋ねる。


「お母さん、どんなだった? 長谷川さんに似てた?」

「わかんないです。ナオ、一人でさっさと行っちゃったんで」

「そうなんだ。てか、化学室から出てきたのは長谷川さんじゃなかったみたいね。ごめん瑞樹。あと、恥ずかしいからわたしがこんなことを言ってたのは長谷川さんに内緒にしてね。じゃ、また部活で」


 訊きたいことはぜんぶ訊いたから、早く次へ行こう。そう思って歩き出したわたしのシャツを、瑞樹が掴んだ。

 まずい。いまのやりとり、さすがに不自然すぎた?

 そんな考えが頭をよぎったけど、瑞樹が尋ねてきたのはまったくべつのことだった。


「なんで嶋先輩と一緒なんですか? 普通、昼練してますよね?」

「ああ。なんだ、そのこと」

「なんだ、じゃないですよ! なんで二人一緒なんですか?」


 なにかを期待してるような感じだった。けど、瑞樹が望んでいるような答えを返すことはできない。

 嶋くんが先に階段のほうへ歩いていったのを確認してから、答える。


「たまたま廊下で会ったら、嶋くんも気になるって言うから一緒に来ただけ。今日は疲れてるから昼練は休んだんだって」

「えー、そうなんですか。残念だなあ。昨日の帰りにいい雰囲気になって、そのノリで一緒にお昼でも食べたのかと思いました」

「そこまでは、まだね……」


 実際、いまの状況はそんな甘い雰囲気とは真逆と言ってもいい。


「じゃあ、もう行くね。また部活で」


 時間もないし、いつまでも立ち話をしてるのはまずいと思って、ちょっと強引に話を切る。冷たいとも言える対応だったけど瑞樹は嫌そうな顔はせず、部活のときに昨日のこと聞かせてくださいねー、と言って手を振ってくれた。ほんと、いい後輩で助かる。

 嶋くんは階段の辺りで待っていてくれた。手にはケータイ。なにか文字を打ち込んでいる。


「ごめん、待たせちゃって」

「ううん。けっこう色々聞けたね」

「うん。あんなにうまくいくとは思わなかった」


 長谷川さんがミットを盗んだ可能性があるとはいえ、まさか本人を直接問いただすわけにはいかない。だから、長谷川さんが一限目の休み時間になにをしていたかをさりげなく瑞樹に訊こうと計画していたんだけど、こんなにスムーズにいくとは。


「それから、いま三分の一ぐらいからメールの返事が来たけど、誰も入ってないって」

「そっか……」


 つい、声が暗くなってしまった。

 嶋くんの言うメールとは、さっき野球部に一斉送信したメールのことだ。内容は、「今日の朝練以降に部室に行った人はいないか?」というもの。これで、部室に行くと忘れ物らしいミットがあったので持ち帰りました、面倒なので名簿には記入しませんでした。なんて人が出てくれば一番いいんだけど、そうはいかないみたいだ。


「あと、これ見て」


 嶋くんがケータイを見せてくる。『一、国語 二、数学 三、体育 四、日本史』。


「時間割? もしかして、一年二組の?」

「そう。黒板の隣に時間割表があったから」

「なんでそんなのを?」

「どの休み時間にミットを盗む余裕があったのかを考えるためだよ。部室の鍵が借りられたのは一限目の休み時間だけど、ミットが盗まれたのも一限目の休み時間とは限らないから」

「あ、そっか」


 いまのいままで思いつかなかったけど、一限目の休み時間に鍵を借りて、次の休み時間にミットを盗みに行った可能性もある。貸し出し名簿には鍵を借りるときの時刻を書く必要はあっても、返却したときの時刻を書く必要はない。だから、部室の鍵がいつ返されたのかわからないのだ。

 嶋くんが階段を下りる。わたしもそれについていく。


「ミットが盗まれたのは、一限目の休み時間から昼休みに俺が部室へ行くまでのあいだと考えていいと思う。でも長谷川さんの場合、三限に体育があるから、その前後の休み時間は行動できないんだよな」

「そうね。プールだと着替えるのに時間がかかるし」


 体育着なら頑張れば三十秒もしないうちに着替えられるけど、水着はさすがに無理だ。わざわざ水着を届けてもらって見学したってことはないはずだから、長谷川さんはプールに入ったと考えていいだろう。

 つまり、部室へ行くチャンスがあったのは、一限目の休み時間と昼休みだけってことか……。

 二階に着く。階段の辺りで立ち止まると邪魔になるから、廊下の端に移動して、話を続ける。


「ただ、昼休みに盗んだっていうのはちょっと考えづらいんだよな。俺が部室の鍵を借りに行ったのは、昼休みが始まって四、五分後なんだ。そのときにはもう鍵は返されていた。つまり、昼休みにミットを盗むには、最初の三分ぐらいで部室からミットを持ち出し、そのあと、俺が来る前に鍵を返さないといけない。これはちょっと厳しいんじゃないかってさ」

「……そうね。確かに難しい」


 教室棟から部室棟まで、急いでも二分はかかる。そして、部室から職員室まで行くのはだいたい一分半。移動だけでこれだけかかるのに、勝手の知らない野球部の部室に忍び込み、ミットを盗むのは、かなり難しい。それよりは、一限目の休み時間に鍵を借りてそのまま部室に行ったと考える方が自然だ。


「唯一のチャンスがあった一限目の休み時間に、長谷川さんはアリバイがないのよね。なんか怪しくない? プールセットを忘れたっていうのも本当かわからないし」


 ナカムラスポーツ前で信号待ちをしていたとき、長谷川さんはあのエナメルバッグを肩にかけていた。あれなら教科書と筆箱、それに、プール道具一式も余裕で入る。


「バッグに入ってるプールセットを誰にも見せず、家に忘れたって言っておく。それで、一限目の休み時間にお母さんが届けに来たと嘘をついて部室に行ってミットを盗み、教室に戻る。こうすれば、どうにかできそうじゃない?」


 嶋くんは軽く頷き、


「それだけで確定ってわけじゃないけど、いちおう、チャンスがあったっていうのは覚えておいたほうがいいな。あのバッグなら、事前に教科書を出しておけばミットも入るだろうし。……じゃあ、俺は五組に行ってみるよ」


 ぎくっとした。覚悟はしてたけど、ついにこのときが……。

 嶋くんが五組に行くのは、もちろん、熊代くんに話を聞くためだ。いや、正確には熊代くんと西くんに、だけど、そんな細かいことはどうでもいい。


 嶋くんと熊代くんが話をする。それだけで、わたしはどうしようもなく不安になってしまう。一年二組に向かう途中も、嶋くんはいろいろと話をしてくれたけど、二人は世界史の授業でも一緒で、メアドも交換しているらしい。


「二人で行くのも変だから、川口はここで待っててくれ」

「うん、わかった」


 そのまま、すぐそこにある五組の教室に入っていく。わたしはガラス越しに教室の中を見た。

 教壇に座ってお弁当を食べている三人組がいて、その中に熊代くんも混じっている。教卓の上には、誰のかわからないけど、ふたが開けられた特製大盛り牛丼。嶋くんはまっすぐ教壇に行き、熊代くんと話をする。

 その光景を見てるだけで、わたしは気が気じゃなかった。特に、熊代くんがなにか言うときは唇の動きを懸命に追ってしまう。


 そういえば、野球部のマネージャーに川口っているだろ? 知ってるかもしれないけど、あいつってさ……。

 物事を悪い方に考えるのはわたしの悪い癖だってわかってるけど、熊代くんがそんなことを言ってるんじゃないかという不安が消えない。

 しばらく熊代くんと喋ったあと、嶋くんはその右隣に座っている男の子に話しかけた。その人がベランダを指差す。見てみると、西くんがベランダの手すりに体育着を干していた。腕を怪我していると嶋くんが言ったとおり、左腕にはギプスをしている。


 嶋くんがベランダに行く。西くんは、嶋くんを見ると苦笑いで体育着を指差した。干しているということは、なにかで汚れてしまって、洗っていたのだろう。

 西くんとしばらく言葉を交わして、嶋くんはベランダをあとにした。そのまま教室を横切って、わたしのいる廊下まで戻ってくる。

 また熊代くんと話をしたらどうしようと思っていたわたしは、ほっとして思わず大きく息を吐いてしまった。


「どうした? そんなに大きいため息ついて」

「あ、ううん。なんでもない。ところで、どうだった?」


 嶋くんは周りを見渡して、小さい声で言った。


「ここじゃあれだから、特別教室棟の前で話そう」

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