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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第四章 盗まれる木曜日
15/28

盗まれる木曜日 1


 学生なら誰でも、授業が終わる五分前ぐらいになると、早く終わんねーかな、と時計を見る頻度が多くなることだと思う。

 かくいうわたしもその部類で、五分前、もしくはそのもう少し早くから、黒板よりも時計に向ける意識のほうが強くなってしまう。

 それぐらいならきっと普通のことなんだろうけど、たまに、授業の初めから終わりまで、ずーっと時計をチラ見し続ける人がいる。五分前とか十分前からじゃない。とにかく、授業が始まった瞬間から時計を見てて、そのあと教科書や黒板に視線を移しても、「心ここにあらず」という言葉を体現するかのように、なにかの拍子にまーた時計に目が行く。


 いまの嶋くんは正にその「心ここにあらず状態」だった。

 からっと晴れた空の下で、普段よりなんとなく雑に素振りをして、ときどき手を止めては、ちらちらと時計に目をやる。現在の時刻は午前八時。個人練習が終わるのは八時十分で、そのあとにノックに移り、朝練が終わるのは八時半。あと三十分はグラウンドにいなきゃいけない。ちょっと残念そうに時計から視線を外し、素振りに戻って、でもすぐにまた時計を見る。


 落ち着かないなあ、嶋くん。

 バックネット裏でほつれたボールを縫っていたわたしは、落としたボールを震える手で拾いながら、変に冷静にそんなことを思った。いつもなら、練習中に時計を見ることなんてほとんどないのに。


 嶋くんの様子がおかしいのは、もちろん理由があった。

 公星高校の校門を出て道路をはさんだ斜め向かいに、『ナカムラスポーツ』というスポーツ店がある。一階が店舗で、二階には店主の中村なかむらさん夫婦が住んでいる小さいスポーツ店だ。立地的に言ってもターゲットは公星高校の運動部だから、サッカーやバスケ、バレーと、幅広いスポーツ用品が置いてあって、もちろん野球用具だってしっかり並んでいる。そんなわけだから、ボールとかバットとかの部の備品はだいたいナカムラスポーツで買っていた。


 つい先週も、わたしたちはナカムラスポーツに新しいキャッチャーミットを注文した。公星高校には代々正捕手用のキャッチャーミットが受け継がれてきたんだけど、そのミットももう寿命だと判断されて、新しいのを注文したのだ。新しいミットは嶋くんが選んだらしく、早く届かないかなあ、なんてはしゃいでるのがたまらなくかわいかった。

 そして、今日の朝。朝練に向かう途中のわたしは、ナカムラスポーツ前の信号でジョギングから帰ってきたばかりの中村さんとばったり出くわした。軽く雑談をしたあと、中村さんは肩にかけたタオルで汗を拭いながら言った。


「そういえば、こないだ注文受けたミットさ、昨日の夜届いたんだよ」

「え、本当ですかッ?」


 思わず声が大きくなってしまった。嶋くんがよろこぶだろうと思うと、わたしまでうれしくなる。

 中村さんは、いい返事だねえ、と白い歯を見せて笑い、


「よかったら、朝練終わったあとにでも取りに来なよ。良次くんも楽しみにしてるだろ? シャッターは開けとくからさ」

「はい、お願いします!」


 中村さんに向かって、わたしは大きく頭を下げた。

 朝練が始まる前に、嶋くんにこのことを話すと、


「ほんとか? 行くよ、ぜったい行く! 朝練終わったら、ミット取りに行こう!」


 と、想像以上の食いつきぶりだった。わたしはまたうれしくなった。

 でも、問題はそのあとだ。朝練が始まり、ランニング中もチラチラ時計を見る嶋くんを微笑ましく眺めていたわたしは、出し抜けに思いだした。


 そういえば、料金はミットを受け取るときに払うってことになってたはずだ。そしてやっかいなことに、部費を使っていいのは監督かマネージャーだけという規則がある。つまり、嶋くんがミットを取りに行くときは、部費の管理を任されているマネージャー――わたしがついて行かないといけない。嶋くんはこういうとき、仲のいい誰かを誘うタイプじゃない。一人で行くのが基本だ。


 つまり、ほぼ確実に、わたしと嶋くんの二人っきりでナカムラスポーツに行くことになる。そういえばさっきの嶋くんの口調にも、一緒に行こう的なニュアンスが含まれてたような気がする。

 あはは。なんだろ、これ? よろこぶべきなのはわかってるんだけど……。

 わたしはまた、手を滑らせて縫っていたボールを落とした。

 さっきから、手の震えと汗が止まんないんだけど。


     *


「ごめん嶋くん。待った?」

「ん、ぜんぜん」


 朝練が終わったあと、待ち合わせ場所である部室棟の前に行くと、嶋くんは既に来て待っていた。わたしの着替えが遅れたせいか、辺りに野球部の姿はない。


「行こう」

「あ、うん」


 校門へ歩きだす嶋くんの背中を追いかける。

 ど、どうしよう。わたし、こんな時間帯に嶋くんと二人で並んで歩いてるよ。しかも学校で。なんていうか、ちょっと目立たない? 野球部の人はいないけど、他の部活の人とかはちょいちょいいるし、校門の辺りにはたぶんもっとたくさん人がいる。大丈夫かな? 悪いことしてるわけじゃないのに、なんか不安になる。


「……やっぱり、いつ見てもカッコいいよな」

「えっ?」


 嶋くんが突然、しみじみとそんなことを言い出した。なにが、と思って隣を見ると、そこには、手に持った野球雑誌に熱視線を注ぐ嶋くんの姿があった。開いているのは、雑誌の一番後ろのほうの懸賞ページ。

 さっきの「いつ見てもカッコいい」発言がなにを指すのかわかったわたしは、少し頬を綻ばせて、隣を歩く野球少年を見上げる。


「嶋くん、本当に保田やすだ選手のことが好きなのね」

「うん。保田選手のおかげで、俺はキャッチャーになろうって決めたんだ」


 普段より大きくはっきりとした声でそう言い、手の甲で雑誌を叩く。

 保田俊一しゅんいち選手は、五年前にプロ入りした倉橋くらはし市出身のキャッチャーだ。同じ倉橋市に在住する嶋くんはこの保田選手の大ファンで、今回選んだキャッチャーミットも、この春に出たばかりの保田選手モデルらしい。

 嶋くんは雑誌の懸賞ページに指を置いて、


「この懸賞、俺も応募したんだけど外れてさ。欲しかったなあって思ってたときに、監督から新しいミット選べって言われて、めちゃくちゃうれしかったんだ」

「じゃあ、ミットは即決だったんだね」

「うん。他のに比べてちょっと高いのが心配だったけど、足りなかったら自腹切ろうと思ってた」


 普段からは考えられないほど饒舌な嶋くんに、わたしは少しおかしくなった。

 懸賞ページには、例の保田選手モデルのミットをはめた保田選手の写真が載っていて、見出しにはこう書いてある。応募してくれた一名様に、保田選手のサイン入りミットをプレゼント!


「でもいいの? サインは入ってないよ?」

「そう、それがちょっと残念なんだよ。いっそ、自分で書いてみようかな」


 思わず噴き出してしまった。


「え、嶋くんのサイン書くの? 意味ある、それ?」

「いや、保田選手のサインを真似るんだよ。キャッチャーミットって代々受け継がれるだろ? そしたらさ、俺が書いたって知らないぐらい歳の離れた後輩たちは、本物の保田選手のサインだって思うんじゃないかって」

「お、思わないよ、それは」


 片手でお腹を押さえながら、もう一方の手を顔の前で振る。想像を絶する嶋くんの発言に、笑い声を抑えるのが大変だった。


「嶋くんが自分でサインを書いたってこともぜったいミットと一緒に受け継がれるよ。そしたら逆に、昔の先輩が保田選手の真似して書いた変なサインってネタにされるって」

「わかってるよ。冗談だから」


 首を振って否定する。声は笑い混じりだし、表情も柔らかだった。

 テンション上がってんなあ、嶋くん。普段わたしと話すとき、冗談なんて言わないのに。よっぽどうれしいんだろうな、と改めて実感する。

 体育館を通り過ぎて中庭に差しかかると、ぐっと人数が増えた。教室棟へ向かう生徒たちの流れに逆らって、わたしたちは校門へ進む。


「保田選手は守備も打撃も上手だけど、それ以上に精神力がすごいんだよ」


 嶋くんの話題はミットから保田選手本人に移った。二人で歩いているところを誰かに見られてやしないかと周囲を気にしていたわたしは、ワンテンポ遅れて相槌を打つ。


「あ、そうなんだ。どこがすごいの?」

「どんなに怪我をしても、必ず復活するんだよ。高校のとき、ボールを投げられなくなるぐらいひどい怪我をしたんだけど、必死にリハビリしてまた野球ができるようになった。プロに入って一年目のときも、肩を痛めてもすぐ復帰したし」


 ぺらぺらと保田選手の経歴について語りだす。わたしが口を挟む余裕はほとんどなく、合間合間に短い相槌を打つだけ。なんか、人目を気にしてる自分がだんだんアホらしくなってきた。

 保田選手の経歴を聞いているうちに、校門を抜けた。学校から出てすぐ左にある横断歩道を渡って、ナカムラスポーツへ。


 中村さんの言ったとおり、シャッターは開けられていた。「CLOSE]の札がかかったガラス戸から店内の様子が見える。まだ薄暗く、明かりはほとんどついていない。ガラス戸をノックすると、奥から中村さんが出てきた。


「お、来たねえ」


 戸を開けるなり、中村さんはそう笑って、わたしたちをカウンターへ招いた。

 レジとちょっとした小物が置かれただけのこざっぱりしたカウンターで、奥の壁にはテレビが備え付けられている。チャンネルは朝のローカルニュースに合わせられていた。


「ちょっと待ってて。いま取ってくるから」


 中村さんはそう言い残すと、長い暖簾で仕切られたスタッフルームへ引っ込んだ。

 することのなくなったわたしたちの視線は、自然とテレビに吸い寄せられる。県内では抜群の知名度を誇るニュースキャスターが、先月の交通事故数は今年最多でした、と痛ましそうに報告していた。

 映像が、先月居眠り運転の車が突っ込んできたという小学校に切り替わると、嶋くんが、あ、と声をあげた。


「これ、俺が通ってた小学校だよ。倉橋小学校」

「え、うそ」


 ってことは、あかりが通ってた小学校でもある。

 テレビには事故当時の映像が映されていた。正門の石垣が盛大に崩れて、フェンスもへこんでいる。キャスターによると、運転手は軽症ですんだものの、登校中だった六年生の児童が巻き込まれて大怪我を負ったらしい。


「かわいそう……」

「うん。……事故があったのは知ってたけど、怪我人が出たのは知らなかった」


 しばらく黙ってニュースを観ている。事故にあった子は命に別状はないものの、いまも入院中らしい。


「やあ、ごめんごめん。遅れて」


 中村さんが戻ってきた。手には黒いグローブ袋を持っている。それを嶋くんに渡すと、


「開けてみな」


 中村さんが言い終わるのとほとんど同時に、嶋くんは袋を開けて、グローブを取り出していた。

 紛れもない、さっきの雑誌に載っていたのと同じキャッチャーミット。色は濃い青。嶋くんはミットを左手にはめ、開いたり閉じたりを何度か繰り返した。そのあと、右手で握りこぶしを作って、ミットの腹を何度か叩く。


「……いい感じです。ありがとうございます」


 満面の笑みを、中村さんに向けた。

 料金を払ったあと、わたしたちはナカムラスポーツをあとにした。


「よかったね、嶋くん」


 信号にひっかかったとき、わたしは嶋くんにそう話しかけた。隣に信号待ちをしている女子生徒がいて、しかも見覚えのある子だったけど、不思議と気にはならなかった。


「今日の練習から使うの?」

「いや、すぐには使わないよ。グローブはまず慣らさないと、まともにキャッチできないんだ。ほら、このままじゃ硬いでしょ?」


 袋からミットを取り出して、わたしに渡してくる。手にはめてみると、言われた意味がよくわかった。


「ほんとだ……。開くのにも閉じるのにも、すごく力が要るのね」

「だろ? 家に持ち帰って、柔らかくしないと練習じゃ使えない」

「そっか。……でも、残念だな。せっかく今日みんなにお披露目できると思ったのに」


 正確には、みんなにミットを見せてよろこぶ嶋くんが見られないのが残念だったんだけど。

 わたしの発言を聞いて、嶋くんは急にうきうきした表情で手を叩いた。


「いいこと考えた! このミット、部室の一番目立つところに置いとくよ。そしたら、部室に入ってきたときみんな驚くだろ? 練習では使えないけど、ちょっとしたサプライズ」

「いいね、それ! ぜったいみんなびっくりするよ。で、嶋くんはあとから来てさらっと説明するってことね」

「うん。だから、今日ミット取ってきたことは部活始まるまで誰にも言わないで」


 わたしは大きく頷いた。サプライズが成功したときの嶋くんは、どんな顔をするんだろう。想像するだけで幸せな気分になってくる。

 信号が青になる。わたしたちは並んで歩きだした。



「げっ。なに、アンタそんなのがお弁当なの?」

「うん。今朝寄ったコンビニに置いてあったから。ヨシノリも貰う?」

「いらんいらん。普通ポテチは食後に食べるもんでしょ。ねえ、ユズちゃん?」

「う、うん……」


 お箸を振り回しながら喋る佐藤さんに圧倒されながら、わたしはそう答えた。

 お昼休み、いつもはあかりと二人でお弁当を食べるんだけど、今日は佐藤さんも一緒だった。なんでも、普段一緒にお弁当を食べている人たちがみんな委員会や部活の集まりに行ってしまい、誰もいないらしい。あかりと二人で過ごす気楽なランチタイムから一変、あまり話したことのないクラスメイトの介入に、わたしは少しどころじゃなく戸惑っていた。

 佐藤さんはあかりを指差して、


「お昼がそんなんだと、栄養偏ってニキビできるよ。もうちょい考えなって」

「だから野菜ジュース飲んでるじゃん」


 ふりふりと手に持った紙パックを振る。

 今日のあかりの昼ごはんは、野菜ジュースと『プロ野球チップス』五袋。佐藤さんは驚いてたけど、あかりは、家からお弁当を持ってこられないときはよくこういうことをする。一限目の休み時間には、同じの持ってるからあげるねー、とか言って、必死に宿題をする藤井に「阿部あべ慎之介しんのすけ」のカードをプレゼントしていた。


「はー、まったく最近の若者はなっとらん。昼はちゃんと米食えっての。ねえ、ユズちゃん?」

「うん……。佐藤さんは、すっごいお米だね」


 佐藤さんの左手には、紙製の大きな丼。今週から発売された売店の新メニュー、特製大盛り牛丼だ。牛肉と玉ねぎと、具はスタンダードだけど、つゆがたっぷり入っているのが特徴らしい。できたてだと熱々で持ちにくいから、買いに行くなら昼休みがいいよ、とさっき佐藤さんは教えてくれた。

 玉ねぎと牛肉とご飯を口に運びながら、佐藤さんは少し不満そうな顔をした。それらを飲み込んでから、言う。


「ユズちゃん、昨日も言ったじゃん。アタシのことはさ、夕子でいいよ。苗字で呼ばれんの苦手なんだ」

「あ、そうだった。ごめんね……夕子ちゃん」

「ん、ぜんぜんオッケー」


 親指と人差し指でマルを作って、佐藤さん改め、夕子ちゃんが笑顔を見せる。なんかほっとした。人を名前で呼ぶのは緊張するけど、笑ってもらうと気が楽になるし、こっちまでうれしくなる。かじった鮭おにぎりも、不思議とさっきより美味しく感じる。

 視線を前に戻すと、目の前に座るあかりがじっとこっちを見てるのに気づいた。


「どした?」

「ご飯食べても平気そうだなって思って。顔、痛くなさそうだし」

「ああ、そういうことね」


 左頬の湿布に手を当てる。食べ物を噛むと傷に響かないかと心配してくれたらしい。

 中村さんや夕子ちゃんもそうだったけど、今朝登校してくるとみんなに驚かれた。どうしたのその顔、大丈夫? と普段あんまり話さない人たちからも詰め寄られて、ちょっとびっくりしてしまった。まあ、家で湿布を貼るときは、クラスの人たちに笑われないかとびくびくしてたから、心配してもらったのはうれしかったんだけど。


「もう大丈夫だから。心配してくれてありがとう」


 最後の一口をしっかり飲み込んでから、笑いかける。あかりも笑顔を返してくれた。


「よかった。昨日はどうなることかと思ったけど、腫れももう引いてるもんね」

「うん、まあね。あ、でも、まだ痣は残ってるから、湿布はがしてなんて言わないでよ」

「それは言わないよー」


 手に付いた塩を落としながら、あかりが笑う。


「アタシも朝にユズちゃん見たときは驚いたけど、平気そうだね。体育も普通にやってたし」


 夕子ちゃんの言葉を聞いて、思いだす。そういえば、二限目の体育のあと、香水をつけてない。いちおうエイトフォーはしたけど、それだけじゃ心配だ。

 おにぎりを飲み込んでから、鞄から取り出した香水を手に立ち上がる。


「ちょっと行ってくるね」


 廊下に出て、手首とうなじに香水を吹きかける。どこにでも売ってるような安物の香水だけど、柑橘系の香りがわたしの好みに合っていた。ちゃんと香りがついたのを確認して、席に戻る。

 香水を机に置くと、夕子ちゃんが急に、あ! と声を出した。


「ね、ユズちゃん。その香水さ、月曜に武広の『ダラーズ』で買ったやつじゃない?」

「え?」


 心臓が大きく跳ねる。汗がさあっと引いていくのがわかった。


「ヨシノリ、『ダラーズ』ってなに?」

「雑貨屋さん。知んない? 武広駅の西口出てすぐの、川崎美容整形クリニックと、あとなんか古い書店とかの近くにあるお店。香水とかシュシュとか、いろんなの置いてんだ」

「そんなお店あるんだー。武広はあんま行かないからわかんないや」

「まあ、あっちはそんな栄えてないから。なんか特別な用がない限り行かないよね」


 隣で繰り広げられる和やかな会話とは裏腹に、わたしは心臓がバクバクだった。それでも、なんとか声を絞りだす。


「夕子ちゃん。なんで知ってるの?」

「あたし、月曜の放課後に武広に住んでる友だちん家に遊びに行ったんだ。で、そいつと駅前で時間潰そうってふらふらしてたら、ユズちゃんっぽい人がダラーズで香水買ってるの見たんだよ。まあ、見たの後ろ姿だけだったからいまいち確信持てなかったし、声もかけらんなかったんだけど。でもやっぱり、ユズちゃんだったんだねえ」


 自分の目が間違いじゃなかったことがうれしいのか、夕子ちゃんは大きく口を開けて、へへ、と笑った。わたしは、見られたのが後ろ姿でよかったと心から思いながら、曖昧に頷く。


「えー。ユズ、そんなところに行ってたの?」


 あかりが、三袋目のプロ野球チップスを開けながら不満そうな表情をする。


「私も誘ってよ。月曜は部活休みだしプロ野球がないから空いてるって言ってるじゃん」

「ああ。ご、ごめん」


 次は誘ってね、と返して、プロ野球チップスを口に運ぶ。なんでそんなところにいたのかは訊かないらしい。良かった。持つべきものは大雑把な友だちだ。


「ユズちゃんって、お家はあの辺りなの?」

「ううん、違うわ。もっと遠いところ」

「そうなんだ。そういえば、中学どこだっけ?」

天野東あまのひがし中」


 わたしの答えに、夕子ちゃんは予想通り、ええっ! と驚いた。


「天野東って、むちゃくちゃ遠いじゃん! 通学大変じゃない?」

「最初は大変だったけど、もう慣れちゃった」

「はあー。すっげえー」

「そんな、感心するようなことじゃないよ。……あ」


 ポケットのケータイが震えた。なんだろう、メールかな?


「…………えっ?」


 ディスプレイを見て、そんな声を上げてしまった。メールじゃなくて着信だった。しかも、表示された名前は『嶋良次』。

 な、なんで嶋くんが電話を? とりあえず、出なきゃ。


「はい、もしもひ」


 やば、ちょっと噛んだ。


「もしもし、川口か?」

「う、うん。そうだけど」


 返事しながら、あれ? と思う。嶋くん、なんだか焦ってるような声だった。


「今日、朝練のあとに部室に行った?」

「行ってないけど」

「そっか……。ありがとう。じゃあ」

「あ、ちょっと待って!」


 電話を切ろうとするのを、慌てて引き止める。明らかにいつもとは様子が違った。


「どうしたの? なんだか焦ってるみたいだけど」

「ああ、実は……。……がなくなったんだ」

「え? ごめん、もう一回お願い」


 電話口の声はかなり小さかった。わたしは必死に耳をすます。嶋くんはもう一度、さっきと同じぐらいの大きさで言った。


「ミットがなくなってるんだ。今朝、ナカムラスポーツから取ってきたあと、部室に置いておいたのに」



 電話を切ったあと、わたしは全力疾走で特別教室棟の玄関前に向かった。コンクリ四階建ての入り口、突き出した二階のベランダのおかげで大きい日陰ができているそこには、約束したとおり嶋くんが立って待っていてくれた。


「どういうことなの、嶋くん」


 息を整えてから、わたしは話しかけた。


「ミットがないって、誰かに盗まれたってこと?」

「いや、まだそうとは言い切れない」


 少し小さめの声。特別教室棟の前には売店があって、通行人が多いからだろう。


「誰かが休み時間に部室に来てミットを発見して、教室に持ち帰ったってこともある」

「ええっ? そんなことする人、いる?」

「……可能性としては、ゼロじゃないよ」


 少しうつむき気味にそう答える。そう考えてるっていうよりは、そうあってほしいと願っているような言い方だった。

 胸が痛くなる。嶋くん、かわいそうに……。せっかく楽しみにしてたキャッチャーミットが手に入ったのに、こんなことになっちゃうなんて。わたしはこの一件が、盗難じゃなくて誰かの間違いであってほしいと心から思った。


「じゃあ、みんなにメールしてみる? 誰か部室からミット持ち出してませんかって」

「いや。それよりは、職員室で鍵の貸し出し名簿を見たほうが早いよ」

「ああ、そっか。だからここで待ち合わせにしたんだ」


 部室の鍵を借りるときは名簿に名前を記入しないといけない。つまり、それを見れば朝練のあとに部室に行った人がいるかどうかわかる。嶋くん、焦ってるように見えたけど冷静だ。

 特別教室棟に入り、階段を上がって二階の職員室へ。入ってすぐ左手の壁に教室の鍵や部室の鍵がかけられている。その下には台があって、鍵の貸し出し名簿が置かれている。


 七時三二分、自習室。七時三十五分、サッカー部部室……っていうふうに、ホームルームが始まる前は、部室の鍵か自習室の鍵が持ち出されていることがほとんどだった。ちなみに、野球部の朝練が始まる午前七時にはまだ特別教室棟が開いておらず、当然、鍵を借りることもできないので、野球部の鍵は夜は返却せず、一年生が管理することになっている。

 それでも、朝練後はきっちりここに返却してるから、そのあと誰かが借りれば記録が残っているはず。視線を落とし、朝練以降の時間帯の記録を追っていく。誰か、野球部の部室の鍵を借りた人はいないか……。


「あっ」


 嶋くんが声をあげた。そのまま、人差し指を名簿の真ん中の辺りに置く。


「見て、これ。部室の鍵が借りられてる」


 十時二六分、野球部部室。借りた人は……


「……藤井ぃ?」


 思わず声に出してしまった。利用者欄に書いてあった名前は、世界一のKYヤロー、藤井一樹。

 嶋くんもこれには苦笑いで、


「……一樹なら、部室に行って新しいミットが置かれてるのを見ると、持ち出すかもな」

「そうね。想像できるわ……」


 おお、なんだこれ、カッコイー! 部活のときに元に戻せば大丈夫だろうし、しばらくおれが持っとこう!

 こんな感じの頭の悪いノリで、ミットを鞄にしまう藤井がはっきり頭に浮かんでくる。どんだけいらんことをすれば気が済むんだ、あいつは……。

 呆れつつ、もう一回名簿を横目で見る。十時二六分、野球部部室、藤井カズキ。

 …………あれ? おかしいぞ、これ。藤井が鍵を借りた時刻は十時二六分。ってことは、一限目の休み時間だ。でも、あのとき藤井は――


「嶋くん、待って」

「ん?」


 職員室から出ようとする嶋くんを引き止める。


「これ、おかしいよ。藤井は一限目の休み時間、教室から外に出てないのに」


 そうなのだ。二限目の世界史の宿題をやってないとかで、必死にプリントを解いていた。あのとき藤井は、ずっと教室にいた。鍵を借りに職員室に行くのは不可能だ。


「じゃあ、これって……」


 信じられない、と言うような表情で、嶋くんが名簿を見る。わたしの唇はほとんど無意識に動いた。


「誰かが藤井の名前を書いて、鍵を借りたってことだよ……」


 声に出して初めて、これはちょっとまずいんじゃないかという意識が芽生えた。

この章に出てくる、「保田俊一」という選手は実在しません。

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