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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第三章 顔に傷つく水曜日
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顔に傷つく水曜日 3


 真弓先生の眼鏡が昼と夜とで変わっていた。

 考えもしなかったことを言われ、わたしは思わず訊き返してしまった。


「え、そうなの?」

「うん。いまは黒縁の眼鏡だけど、お昼は薄いピンク色の縁なし眼鏡だったじゃん」


 お昼の真弓先生を思いだす。あのときかけていたのは…………そうだ。あかりの言うとおり、縁なし眼鏡だった。そして、さっきわたしの顔に湿布を貼ってくれたときは黒縁の眼鏡。ぜんぜん気づかなかった。

 すでに着替え終わっている瑞樹が、ケータイを片手に話に入ってくる。


「偶然ですね。あたし、さっき保健室に来る途中でカウンセラーの原先生に会ったんですけど、薄いピンク色の縁なし眼鏡かけてましたよ」

「うそ?」


 訊き返すあかりに、こんなことで嘘つきませんよ、と瑞樹は答えた。


「でも原先生、お昼に見たときは眼鏡かけてなかったよ」

「え? じゃあもしかして、真弓先生がお昼にかけてた眼鏡って、原先生のだったんですか?」

「だと思う。しかもそれ、伊達眼鏡だったし」


 わたしは驚いて、リボンを結ぶ手を止めてしまった。


「え、伊達だったの?」

「うん。だって真弓先生、お昼は明らかに見づらそうにしてたじゃん。ヨシノリの指を見るときとか、すっごい顔近づけてたし」


 ああ、言われてみればそうだった。夕子ちゃんの傷を見るとき、そこまでしなくていいだろう、ぐらいの距離で観察していたっけ。対して、さっきわたしの顔を見るときは、そんなに近づかなくても見えていた。つまり、昼休みにかけていた眼鏡は伊達で、いまのは本物ということだ。


「原先生、伊達眼鏡だったのね……。でも、なんで真弓先生はわざわざ伊達眼鏡を借りたのかしら?」


 真弓先生は先週まで眼鏡なんてかけていなかった。だから、伊達でもいいからとりあえず眼鏡をかけていないと落ち着かない、なんてことはないと思うんだけど。


「それもわかんないよね。そもそも、本物の眼鏡はどうしたんだろう。壊れちゃったのかな?」

「壊れたって、なんで? あ、瑞樹、エイトフォー借して。……ありがと」

「うっかり割っちゃったとか、壊れる理由はいろいろあると思うよ。で、原先生、お昼に保健室に来たとき、頼まれたもの買ってきたよーって真弓先生に言ってたでしょ? あれって、眼鏡を買ってきたってことじゃないかな?」


 エイトフォーを振りながら、わたしは疑問をぶつける。


「でも眼鏡って、気軽におつかいに頼めるようなものじゃなくない? 普通、かける本人が直接買いに行くものでしょ」

「ああ、そっか。視力検査とかもあるもんね」


 首をひねるあかりの横で、瑞樹がジャージをたたみながら、


「てか、真弓先生、なんで急に眼鏡にしたんでしょう。伊達眼鏡で見づらそうにしてたってことは、先週までコンタクトだったってことですよね」

「そうよね。コンタクトを買い忘れたのかしら?」

「ますます謎が深まるね……」


 あかりが顎に手を当てる。うん、その通りだ。でも、それより。


「あかり。早く着替えないと」


 わたしも瑞樹も、もう着替え終わっている。わたしたちだけならまだしも、嶋くんと藤井に加えて真弓先生まで待たせているのに、悠長にお喋りをしている時間はない。


「あ、ごめん。急ぐね」


 あかりは慌てて、ワイシャツのボタンを閉め始めた。まったく、着替え終わってからゆっくり考えればいいのに。

 上着にエイトフォーを吹きかけているわたしの背中を、とんとんと瑞樹が叩く。振り返ると、そっと耳打ちされた。


「嶋先輩に、ボールから守ってくれてありがとうって言いました?」

「ううん、まだ」


 さっき言おうとしたけど、途中で野村先生が喋ったからタイミングを逃してしまったのだ。


「じゃあ、帰りにちゃんと言ってくださいよ」


 片目をつぶって、こう続けた。


「二人っきりになるチャンスがあると思いますから」

「え?」


 どういうこと?

 瑞樹は意味ありげに笑って、わたしから離れていった。訊いても教えませんよ、と言外に語っている。

 ちらりとカーテンの引かれたベッドを見る。あの向こうで、嶋くんはいま着替えている。いや、たぶんもう着替え終わって、わたしたちからの合図を待っているはずだ。

 二人っきりって、ほんとに、嶋くんと二人っきりになるの? でも、瑞樹の冗談かもしれないし。いや、だけど、瑞樹ってこんな冗談は言わない子だと思うし。……ああ、もう!


 考えれば考えるほど落ち着かなくなってくる。なんとか冷静になろうと椅子に座り、息を吸って吐いてを繰り返す。大丈夫だ。落ち着け、落ち着け。嶋くんのいるベッドを見る。……うん。

 結論。ここで落ち着くのは無理。


「ちょっとトイレ行ってくる」


 鞄から香水を取り出し、保健室内のトイレに入る。ドアを後ろ手に閉めて、はー、と一息。

 瑞樹のやつ、変なこと言って。予告されると余計に緊張するじゃない。いや、突然二人っきりにされても緊張するんだけど。


 ――ってか、普通にいいトイレだな。初めて入った保健室のトイレを見渡して、わたしはそう思った。

 芳香剤はいい香りだし、洋式の便座も綺麗に保たれていて、手洗い場もそこそこ広い。歯ブラシが立てかけてあるのを見るに、真弓先生は食後にここで歯を磨いているんだろう。

 せっかく入ったんだから手ぐらい洗おうかな。そう思って洗面台の前に立ったとき、


「あれ?」


 歯ブラシが立てかけてあるコップの隣にあるものを見て、そんな声を出してしまった。

 そこには、掌サイズの長方形の箱が二つあった。これには見覚えがある。お母さんも、確か同じものを持っていた。

 ……どうしてこれがここに?

 わたしは「右目用」と書かれたほうを手に取って蓋を開ける。

 予想通り、中にはプラスチックケースが収められていた。そのプラスチックケースの中身がなんなのかは見なくてもわかる。コンタクトレンズだ。


 保健室のトイレに、コンタクトレンズの箱。しかも側面には、ご丁寧に『真弓幸恵様』と書かれている。これは間違いなく、真弓先生のコンタクトだ。

 どういうこと? コンタクトがあるんなら、どうしてお昼はあんなに見づらそうにしてたの? なにかの拍子で眼鏡が割れてしまったなら、コンタクトをつければいいのに。

 保健室のトイレの中で、わたしはしばらく立ち尽くしていた。



 着替えを終えたあと、藤井が保健室に戻ってきた真弓先生に日焼けの理由を訊いたのがきっかけで、しばらく雑談をした。内容は主に、先生が姪っ子の一姫ちゃんの野球観戦に行ったときのことで、小学生でも意外と本格的なフォームで投げるとか、汗をかきすぎてペットボトルの水を三本も飲んでしまったとか、そんなことを話した。

 時計の針が七時を過ぎたころ、真弓先生にもう一度頭を下げ、わたしたちは保健室を辞した。


「うわ、もう暗くなってる」 


 外に出るなり、あかりが驚きの声を上げる。言うとおり、もうすっかり日が暮れていた。保健室はずっとカーテンが閉められていたからわからなかったのだ。


「なんか不思議な感覚よね」


 夕方に保健室に入って、出たらもう夜。ちょっとしたタイムスリップをしたような気分になる。


「空気は相変わらず蒸し暑いですけどね」


 隣で瑞樹がぼそっと呟いた。

 わたしたちマネージャーは、基本的に三人揃って帰る。と言っても、電車通学のわたしたちと違って、瑞樹は徒歩通学だからすぐに別れるんだけど、いちおう校門までは一緒だ。嶋くんや藤井は、近くにいる適当な人と並んで帰ることが多い。


 そんなわけだから、保健室を出てすぐ、女子三人男子二人で固まって、二つのグループの間にはなんとなく距離が空いた。いちおう五人並んではいるけど、妙な溝がある。

 ……なによ瑞樹。二人っきりになる気配なんてないじゃない。

 隣を歩くお団子頭を軽く睨む。それに気づいた瑞樹は、わたしに向かって意味ありげな笑み。そんなに心配しないでくださいよ、大丈夫ですから。そう言われているような気がした。


「あ、尾花先生」


 あかりが前方を指差した。見ると、特別教室棟からぽっちゃり体型の男教師が出てくるところだった。


「お疲れ様です。いま帰りですか?」


 嶋くんがそう声をかけると、尾花先生は苦笑して、


「小テストの採点が溜まっててね。って、どうしたの、それ?」


 わたしを見た途端、先生の表情が急変した。今度はわたしが苦笑いを浮かべる番だ。


「ちょっと、ボールが当たって。でもぜんぜん、大した怪我じゃないです」

「そっか……。痕が残らないように、今日はちゃんと冷やして寝るんだよ」


 うわあ、尾花先生、優しい。嶋くんもこれぐらい気の利いたセリフを言ってくれるといいんだけど。


「はい。少しでも痕が残ると大変なので、ちゃんと冷やします」

「少しでもか……。やっぱり、女の子は顔になにかできると相当気を遣うんだね」


 わたしとあかり、瑞樹が揃って首を縦に振る。


「相当遣うよ。ねえ、瑞樹?」

「はい。毎日お手入れしてます」

「目立つところににきびができたら、絆創膏で隠したりね」


 わたしがそう言うと、尾花先生は遠くを見るような視線で、ぽつりと呟いた。


「そんなに必死に隠さなくても、ありのままでいいのに」

「はい?」

「……あ、ごめん、なんでもない!」


 はっとしたような表情で、ぶんぶんと手を振る。


「ごめん。じゃあ、また明日。部活で忙しいのはわかるけど、ちゃんと宿題はやっておいてね」


 尾花先生はそそくさとそう告げて、中庭のほうへ歩いていった。先生が去ったあと、嶋くんは苦々しい顔で呟いた。


「帰ったら、世界史のプリントやらないと……」


 隣で藤井が、おれも、とぼやき、あかりも唇を噛みながら頷く。宿題は早めに終わらせておくものでしょうが、あんたら。

 特別教室棟を過ぎて校門が見えてきたとき、瑞樹が唐突に声を上げた。


「あ! ユズ先輩、そういえばあたし、校門出てすぐのコンビニに親が迎えに来てるんです。すみません、今日はそれで帰りますね」


 明らかに、横を歩く男子二人にも聞こえるように声を大きくしている。まさか……、と思っていると、あかりまでこんなことを言いだした。


「そういえば、瑞樹の家の近くに本屋さんあったよね。私、買いたい雑誌があるんだよねー」

「そうだったんですか? じゃあ、そこまで送りますよ。あかり先輩も乗ってください」

「いいの? やったー。あとさ、藤井君と瑞樹の家、同じ方向じゃなかった?」

「あ、そうでしたね。藤井先輩も乗りますか?」


 な、なんだこの不自然なほどスムーズな話運び。こいつら、わたしがトイレに入ってる間に打ち合わせしてる!


「え、まじで?」


 藤井、うれしさを隠し切れない笑顔でガッツポーズ。お前、ぜったい期待してただろ!

 そして、あかりはどさくさに紛れてこんなことを頼む。


「じゃあ、嶋くん。駅までユズと一緒に行ってくれない? ユズ、けっこう怖がりだからさ。一人じゃ不安なんだって」

「え、ちょっと、あかり……」

「ああ、うん。わかった」


 顔色を伺う間もなく、嶋くんはあっさり了承する。

 なにそれ、ほんとに、駅まで嶋くんと二人っきりなの?

 校門に差し掛かった。ああ、学校から出ちゃうの、なんて思う間もなく、三秒足らずで校門を抜ける。コンビニは右、駅は左だ。

 つまり、ここからわたしと嶋くんは二人っきり……。


「じゃあユズ先輩、そういうことで」

「ちょっと待って」


 離れようとする瑞樹の腕を掴み、顔を寄せる。


「どうしたんですか? いちおう、親を待たせてるのは本当ですから、急がないとまずいんですよ。いまさら怖気づいたなんて言わないでくださいよ」

「違うわよ。あの、瑞樹……」


 正直に言えば、いま、不安でいっぱいだった。緊張もしている。

 でも、嫌だと思う気持ちは微塵もなかった。それどころか、大きすぎる緊張や不安に隠れてはいるけど、うれしいと思ってすらいる。

 そう、やっぱり、なんだかんだで好きな人と一緒に帰れるというのはうれしいことなのだ。わたしはいま、身をもってそれを実感していた。

 だから、気を回してくれた後輩には、ちゃんと言っておかないといけない。


「ありがとね。ほんとに」


 瑞樹は一瞬きょとんとしたけど、すぐに笑って、わたしの肩を叩いた。


「それは、嶋先輩に言ってください。……じゃあ、ユズ先輩、嶋先輩、また明日!」


 元気に手を振って、瑞樹たちはコンビニに歩いていった。しばらく三人の背中を見送ったあと、嶋くんは鞄を肩に掛け直した。


「俺たちも行こうか」

「あ、うん」


 並んで歩きだす。

 うわあ、なんだろう、これ。すっごく緊張する。緊張するんだけど、なんか……楽しい。

 隣を歩く嶋くんを横目で盗み見て、わたしはこっそり気合を入れる。

 こんなの、滅多にない機会だ。どうせなら思いっきり楽しもう。



 学校から駅までは、徒歩でだいたい七、八分。普段はこの近さをありがたいと思うけど、今日ばかりは、もっと遠ければいいのにと思う。


「へえ。嶋くんのお兄さん、社会人野球してるんだ」

「うん。そこまで強いチームじゃないんだけどね」


 嶋くんと歩き出して一分弱。のんびりと続けていたとりとめのない話は、いつのまにか家族の話題に移っていた。


「ポジションは?」

「センター。で、打順は一番。俺と違って足速いから」

「え? 嶋くん、そんなに足遅くないと思うけど」

「ぜんぜん。あっちは比べ物にならないくらい速い」


 ちょっと悔しそうに口をとがらせる。かわいい。

 駅までの道のりは、公星の生徒がちらほら見受けられた。普段なら、嶋くんと二人で歩いてるのを見られるのが少し恥ずかしいと思うかもしれないけど、今日はなぜかぜんぜんそんな気がしない。逆に、見せつけてやろうとすら思う。


「肩も強くてさ。バックホームの練習に付き合うと、すごい球がくるんだよ」

「嶋くんだって、外野守るときいい送球するじゃない。それより速いの?」

「うん。向こうのほうがぜんぜん速い。投げ方とかそんなに変わってる様子はないのに、とにかくいい送球なんだよね」


 なにが違うんだろうというように、何度か腕を振る。すぐに終わってくれればいいんだけど、なにか考えが浮かんだらしく、鞄からボールを取り出して投げマネを始めた。当然、会話は中断される。

 わたしは嶋くんに見えないように足元の小石を蹴った。

 あかりと話していると、ああ、この子は本当に野球が好きなんだなと思う。だけど、嶋くんの場合は違う。この人は本当に野球のことしか頭にないんだなあ、だ。

 本気で甲子園を目指している嶋くんにとって、他のことは二の次なのだと嫌でもわかる。一緒に帰れるのはうれしいけど、もうちょっと、わたしのことにも興味を持ってよ。

 投球フォームに満足したらしく、ボールをしまってから、嶋くんは尋ねてくる。


「そういえば、川口はいる? きょうだい」

「……あ、うん。いちおう、妹が一人」

「妹かあ。似てる?」

「まあ……、似てるとはよく言われるかな。嶋くんは?」

「俺はあんまり兄貴に似てるって言われないんだよな。弟もいるんだけど、そっちともぜんぜんだし」

「あ、知ってる。勇太郎ゆうたろうくんだよね。元気?」


 話題が逸れたことにほっとして、つい勢いで言ってしまった。やば、と思ったときはもう遅い。嶋くんは目を丸くしていた。


「あれ? 俺、勇太郎の話したことあったっけ?」

「あ、ううん。あの……あかりから聞いたの」


 苦しい言い訳にも、特に不審に思った様子はなく、へえ、と軽く頷いた。よかった。

 これ以上この話題が続かないように、わたしは話を変えた。


「そういえば、今日は部活、早めに終わったんだね。いつもはもうちょっと遅くまでやるのに」

「ああ。野村先生が早く川口の様子を見に行きたいから練習は早めに切り上げたんだ。みんなも川口のこと心配してたよ。だけど、大人数で押しかけるのも迷惑だからって、俺たちだけで行くことにしたんだ」

「なんか、申し訳ないな。気を遣ってもらったみたいで」

「まさか。そんなことないって」


 そうかなあ? とか返しながら、わたしは、嶋くんが来てくれたのはキャプテンとしての責任感からか、個人的な感情からなのか、どっちだろうと考えていた。

 隣の美少女がそんなことを考えているとは露とも思っていないだろう嶋くんは、ふと思いだしたように訊いてきた。


「そういえば、川口。なんであんなに湿布を貼ってほしがってたんだ?」

「え?」


 考えに没頭していたわたしは、質問の意味がよくわからなかった。


「保健室に入る前さ、中から川口の声が聞こえてきたんだよ。早く湿布貼ってください、って。あれ、どうしたんだ?」

「え! あ、あれのこと?」


 聞こえてたのかよッ!


「うん。なんであんなに焦ってったのかなって」


 まさか、あんたが来るからだよと言えるはずもなく、わたしは必死に言いわけをする。


「あの、なんとなく、早く貼ったほうがいいなあ、なんて思っちゃって……」

「でも、打撲ってある程度は冷やしてから湿布を貼ったほうがいいんだよ」

「知ってるけど、なんかさっきは、早く湿布を貼らないと大変なことになりそうな気がして……」


 理由になってないような気がするけど、嶋くんは、そうなんだ、の一言で軽く流した。なんかおかしいとは思わないのだろうか。思わないか、この人は。


 ちりんちりん、と後ろからベルが鳴る。自転車だ。わたしと嶋くんは慌てて脇に寄って、自転車の通る道を空けた。けど、この歩道、実はけっこう狭い。自転車が通るスペースを空けるために、わたしたちはお互いの身体が触れそうになるぐらい密着して歩かないといけなかった。

 どうしよう、今日、いつもと違ってゆっくり汗を拭く時間もなかったから、汗臭くないかな? それに、顔に湿布も貼ってるし。いちおう香水はつけたけど、こんなことなら、瑞樹のエイトフォーもっと噴きかけておけばよかった。残り少ないからって変な遠慮とかしないで、ぜんぶ使えばよかった。

 タイヤが回る音を残して、自転車が通り過ぎる。嶋くんはわたしから離れていって、元の距離感に戻った。


 自転車が通り過ぎるのは、換算すれば二、三秒だったはずなのに、緊張のせいで異様に長く感じられた。それなのにいま、嶋くんと離れるときはすごく名残惜しく感じた。こんなに接近する機会なんて滅多にないのに。どうせなら、わたしが嶋くんの汗の臭いを嗅いでやればよかった。

 ちらりと隣の嶋くんを見る。なにごともなかったかのように、涼しい顔で視線を前に向けていた。恥ずかしそうな様子とか、うれしそうな感じはぜんぜんしない。

 ……こんなに可愛い女の子と身体が触れそうなぐらい接近したんだから、もっとよろこんだっていいじゃない。


「いまの人、すごかったね」

「えっ?」


 前を向いたままの嶋くんが唐突に口を開いた。なんのことかわからないわたしは戸惑う。


「自転車に乗ってた人だよ。見なかった?」

「ごめん、見てなかった。なにか変わったことあったの?」

「あの人がかけてた眼鏡、フレームが虹色だった。すっごい派手」


 笑い混じりに言う。虹色のフレームの眼鏡……。確かにそれは、あんまり見ない。


「わたしも見ておけばよかった」

「うん。あれはほんとに、見る価値あったよ」


 その眼鏡が相当ツボだったらしく、嶋くんは声を出して笑いそうになるのを必死にこらえていた。

 無邪気というかなんというか。野球をしてるときは一生懸命声を出してみんなを引っ張ってるのに、いまはそんな面影が微塵もない。

 そんな嶋くんに、すっかり毒気を抜かれてしまった。さっきまで感じていた不満とかどうでもよくなってくる。嶋くんの笑いが納まったころ、わたしは、じゃあもう一つ眼鏡の話をしてやろう、という気になっていた。


「ねえ、嶋くん。眼鏡って言えば、面白い話があるのよ」

「え、どんな話?」

「うん。あのね、さっき保健室で――」


     *



 わたしが一連の真弓先生の眼鏡と視力のことを話し終わると、嶋くんは興味深そうに、へえ、と呟いた。


「原先生は実は伊達眼鏡で、それをわざわざ借りる真弓先生か……。確かに、変な話だな」

「でしょ。しかも、真弓先生がコンタクトをつけないのもおかしいわよね。すっごく見づらそうにしてたのに。なにか理由があるのかな?」


 大通りを歩きながら、わたしたちはそれぞれ頭を悩ませる。駅までの道のりはもう半分を過ぎていた。

 赤信号で立ち止まったとき、嶋くんが訊いてきた。


「先週まで、真弓先生は眼鏡をかけていなかったよな?」

「ああ、うん。そうね。かけてなかったわ」

「そっか……」


 嶋くんは顎に手を当てて、視線を下に向けた。一昨日の昼休み、藤井の頼みで高橋さんのメアドを考えるときも、こんなポーズを取っていた。きっと、考えるときの癖なんだ。

 信号が青になる。並んで歩き出す。


「コンタクトってさ、普通、眼鏡をかけたくない人がやるものだよな?」


 横断歩道を渡り終えたあと、そう訊いてきた。


「うん。眼鏡が似合わないとか、スポーツをする人とかに多いと思う。……あ、でも最近になって、コンタクトの上から伊達眼鏡をかける人も増えてるわよ」

「え、なんで?」

「ファッションの一環でかな。最近のファッション誌とかでも伊達眼鏡をかけた人が多くてね。流行りのオシャレ道具みたいになってるから」

「女子って、眼鏡もおしゃれの道具にするのか。すごいな」


 いや、いまどき、男子でも伊達眼鏡ぐらいかけると思うんだけど。

 大通りに入ったせいで、がぜん人通りが多くなってきた。道行く人にお店の勧誘チラシやポケットティッシュを配る人もいるし、居酒屋の勧誘の声も聞こえる。その中を歩く女子大生を見て、わたしはもう一つ伊達眼鏡の使い道を思い出した。


「あと、すっぴんをごまかすために伊達眼鏡をかける人も多いわよ。ほら、あっちを歩いてる人みたいに」

「すっぴん?」


 不思議そうな顔を向けてくる嶋くん。わたしは説明する。


「ちょっとギャルっぽい人が多い学校とか大学とかだと、普通にみんなお化粧してるでしょ? で、朝起きられなくてお化粧する時間がない日は、すっぴんのままだと恥ずかしいから伊達眼鏡をかけてごまかす人が多いの。ウチの学校はお化粧禁止だからぴんと来ないかもしれないけど」


 すっぴんをごまかす、と嶋くんは小さく繰り返した。


「それって、大学生とかじゃなくて、普通の女の人もやるかな?」

「え、どうだろう? 四十代とかになると、どうなるかわかんないけど……。でも、二十代とか三十代前半なら、やる人もいるんじゃないかな」

「そっか……」


 そう呟いて、嶋くんはまた、顎に手を当てて視線を下に向けた。転ばないかなと心配になったとき、顔を上げてわたしを見た。


「わかったよ。真弓先生の一連の行動の理由が」

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