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君のてのひらを重ねて

作者:

 俺は顔の高さを合わせるために少し屈み、そっと手を伸ばす。

彼女は小さくて白い、シロツメクサを思わせる手をその上に重ねる。

俺はゆっくりと腕を引き上げ、彼女を立たせた。

彼女は目を細め、消え入りそうなほど淡く微笑んだ。

そのまま握るでもなく、触れ合うように手をつなぎ、清潔さと空虚さを内包した白い部屋を出て行く。

ゆっくりと、彼女の歩幅に合わせるように、引っ張るのではなく、支えるようにして歩く。

部屋を出ても病的な白色が絶えることはなく、この建物自体が病にかかっているような気がしてくる。

聞こえてくるのは微かな物音と、密やかな話し声。彼女には感じることの出来ない音の波。

何かを遠慮するように神聖さと硬質さを兼ね備えた廊下を歩く。

そのまま突き当たりまで進み、屋上へ向かう階段の前で足を止める。

彼女が不安そうにこちらを見上げる。

俺は出来るだけ優しく微笑み、力強く頷いた。

彼女はほぅっと息を吐くと、勢いよく顔を上げ、力を込めるように俺と繋いでいない方の手をぐっと握りこんだ。

彼女の気合を苦笑交じりで見届け、さっきより少し強く手を握った。

そろそろと、階段を上りだす。

一歩一歩確実に上っていく。たまに休憩を挟みながらも、俺にとってなんてことはない、しかし彼女にとっては山登りにも匹敵する階段を上っていく。

じっと見上げる瞳の中は、恐れと期待をマーブル上に混ぜ合わせている。

俺は急かすことはせず、しかし決して手伝ったりもせず、じっと彼女を見ている。

これはリハビリを兼ねており、俺の役目はただ支えることだけである。

階段の中程に到着する頃には、握っていた手に汗がにじみ、あれほど白かった肌はほんのり赤みを帯びている。

本人は歯を食いしばっているつもりなのか、ぷくっと膨らんだ頬に決意を込め、さっきよりも数段遅くなった速さで階段を上る。

一瞬彼女がふらついた。

俺はあわてて手を伸ばし、傾きかけていた体を支える。

彼女は一瞬虚ろな目を浮かべた。

俺は後ろを指差し、今日は帰ったほうが良いと伝えた。

彼女ははっとなり、つややかにしなる綺麗な黒髪とともにぷるぷると首を振り、頑なにそれを拒んだ。

俺はため息を吐き、人差し指を彼女の眼前に立てた。あと一回倒れかけたら強制的につれて帰る、という意味だ。

彼女はほっと安堵して、息を整えた。

ぐっと顔を上げて再び上りだす。

はぁはぁと空気を求めて喘ぐ。

おぼつかない足を、懸命に前に伸ばす。

歩くというより倒れこむようにして進む。

俺はその様子をじっと見守る。

どのくらい経ったのだろう。二十分、いや三十分は過ぎたはずだ。

たった二十数段の階段。

俺が上れば30秒も掛からない階段。

そんな階段を三十分掛かりで上りきった彼女は、疲労に息喘ぎ、足元をふらつかせて俺に寄り掛かっていなければ立てない彼女は、しかし満足そうに、すっかり上気して椿のような薄紅色になった顔を煌かせていた。

俺達は少し休むと、屋上へ続く扉を押し開け、外に出た。

空は巨大な積乱雲が覆っており、とても陰気な雰囲気を醸し出している。

普通なら歓迎することのできないそれは、しかし今だけは、太陽という彼女にとっては強すぎる輝きを阻む、盾となってくれる。

俺達は辺りを見回し、適当なベンチを見つけると、そこに並んで座った。

そのまま何をするでもなく時を過ごす。

彼女はずっと笑顔のまま佇んでいる。

風が吹くたびに、柔らかな黒髪が波打つ。

俺は寒くないか、と上着を引っ張って伝える。

彼女は大丈夫、と首を小さく振る。

俺はそうか、と頷きベンチに体重を預けた。

どんよりと、鉛筆でこすったような灰色の空。

一年前なら顔をしかめつつ、晴れることを祈ったであろう空。

プレゼンを間近に控え、うまくいくように願ったであろう空。

今なら、俺はそんな空に何を望むのだろうか。

少なくとも、失った声を切望することはないだろう。

たとえ言葉が戻ってきたとしても、彼女にそれを伝えることは出来ないのだから。

やはり、俺と彼女が元気に街中を歩くことだろうか。いや、それは望みではなく夢でしかない。それに、俺達にとってはまぶしすぎる。

なんだかんだで、願うのはずっとこのままで在りたいということだろう。求めすぎては失うことが恐ろしくなる。

もちろん、願ったところで何が変わるわけでもない。それはただの人任せだからだ。

でも、願うこと自体は罪ではない。それは決意に他ならないからだ。

願っても、望んでも、祈っても、夢見ても、叶わないことの方が多いから、皆それらを止めるのだろうか。

腕時計を見る。

そろそろ診察の時間だ。

俺は彼女に腕時計を見せ、部屋に帰る時間だと伝える。

彼女は残念そうにため息を吐くと、わかりやすく落ち込んだ。

相変わらず空は陰り、空気は澱んでいる。ときおり聞こえる雀の鳴き声も、寂しさを伝えることしか出来ない。

雲は太陽の光のことごとくを遮断するほど厚く、しかしけっして雨が降ることはない。

そんな、けっして気持ちが良いとは言えない日。

大勢の人にとっては憂鬱な、しかしある一部の人間にとっては心より望む日。

こんな日が来るのは、あと何日後だろうか。

俺は立ち上がり、不満そうな顔をする彼女に手を差し伸べる。

彼女は渋々と手を乗せる。

 触れ合うと、彼女は微かにはにかんだ。

彼女の手は小さく、指だけで触れ合うと零れ落ちてしまいそうになる。

それが不安なのか、彼女は俺の指の中に、てのひらを入れるようにして重ねた。

おそらく、それだけで満足なのだ。

願いは暗く陰る空に。

望みははにかむ君に。

祈りは名も知らぬ神に。

夢は未だ見ぬ先に。

ずっとこのままでありたいと

君のてのひらを重ねて


読了ありがとうございました。

少しでも和んでもらえれば幸いです。

ご意見、ご感想をいただければ作者はとても喜びます。


作品解説

今回は、直接的な表現を使わず情景を浮かび上がらせることを目標として書きました。

伝わりましたでしょうか。

伝わったのならひとまず安堵の吐息を。

伝わらなかったのなら力量不足ゆえ謝罪を。


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