生きられなかった人生
生まれた家は、貧しかった。
いや、「貧しい」という言葉ですら、どこか温度がある。
僕の家には、余裕がなかった。
金も、時間も、そして――祈る余地すら。
父の顔は、ほとんど覚えていない。
記憶にあるのは、畳に伏せた背中と、濁った咳の音だけだ。
母は強かった。強いふりをしていただけかもしれないが、少なくとも泣き言を言う人ではなかった。
「生きてるだけで、偉いんだよ」
何度もそう言われた。
けれど、その言葉は、次第に僕を縛る呪いになっていった。
――生きているだけ。
それ以上を望んではいけないのだと。
幼い頃から、身体は弱かった。
熱は下がらず、咳は止まらず、少し走れば視界が白くなる。
病院に行けば、医者は申し訳なさそうな顔をして言う。
「体質ですね」
その“体質”は、治らなかった。
治療は長く、薬は高く、通院は家計を削った。
学校では、机に伏せている時間が多かった。
体育は見学、遠足は欠席、修学旅行は「万が一」を理由に不参加。
皆が思い出を作っていく横で、僕は白い天井を眺めていた。
友達は、いなかったわけじゃない。
ただ、彼らは「同じ場所」にいなかった。
僕が寝込んでいる間に、彼らは前に進む。
部活を始め、恋をして、夢を語る。
気づけば、会話についていけなくなっていた。
「無理しないでいいよ」
その優しさは、時に残酷だった。
“君はこっち側じゃない”と、静かに線を引かれている気がした。
高校には進学できなかった。
通学が難しい、学費が厳しい、何より将来性がない。
母は謝った。
何度も、何度も。
「ごめんね……本当は、行かせてあげたかった」
違う。
謝るべきは、僕の身体だ。
僕は働いた。
と言っても、できることは限られている。
在宅の単純作業。
短時間の軽作業。
体調が悪ければ、すぐに切られる。
社会は優しいが、同時に冷たい。
役に立たないものを、長く抱えてはくれない。
母が倒れたのは、僕が二十歳の頃だった。
無理が祟ったのだと思う。
病室で、母は僕の手を握った。
「……生きて」
それだけを言って、目を閉じた。
葬儀は、質素だった。
参列者は少なく、香典もほとんどなかった。
帰り道、ひとりで空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
――ああ。
こんな日に、僕は独りなんだ。
それからの記憶は、曖昧だ。
働いて、倒れて、また働いて。
生きるためだけに、生きていた。
夢はなかった。
希望も、目標も。
ただ、痛みだけがあった。
身体の痛み。
将来への不安。
生きていることそのものの重さ。
そして、ある冬の日。
いつもより、少し寒かった。
部屋の暖房は壊れていた。
修理する金は、なかった。
毛布にくるまり、息を整える。
胸が、苦しい。
――ああ、これで終わりか。
不思議と、恐怖はなかった。
悔しさも、怒りも。
ただ、一つだけ、強く思った。
もっと、生きたかった。
痛くない身体で。
飢えない体で。
終わりを気にせず、生きてみたかった。
それだけだった。
意識が、暗闇に沈んでいく。
誰にも看取られず。
誰にも惜しまれず。
――人生を、謳歌することなく。
僕は、死んだ。
――目を開けると、そこは白かった。
いや、正確には「何もなかった」。
床も、壁も、天井も、あるようでない。
空間そのものが、白い概念になったような場所。
「……ここは?」
声を出すと、ちゃんと響いた。
喉が痛くない。
息が苦しくない。
それだけで、胸がいっぱいになりかけた。
「あー、聞こえてる? よかったよかった」
間延びした声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは――
だらしなく椅子に座り、片手で頬杖をついた人物だった。
白衣のようなものを着ているが、襟はヨレヨレ。
足は投げ出され、机の上には空の紙コップ。
目の下には、しっかりと隈。
「えーっと……君、死亡者番号……あー、もういいや」
その人は、手元の端末をちらっと見て、すぐに興味を失ったように画面を伏せた。
「君、人生かなり不憫だったね」
軽い。
あまりにも軽い口調だった。
「貧困、病弱、家族喪失、社会的孤立……うん、フルコンボ。
ポイント高いよ。救済案件」
「……あなたは?」
「あ? あー……」
その人は大きく伸びをして、椅子を軋ませた。
「一応、神。転生管理担当。
正式名称は色々あるけど、まあ“神様”でいいよ」
神。
想像していた存在とは、だいぶ違った。
もっと荘厳で、威厳があって、光り輝いているものだと思っていた。
目の前の神は、今にも机に突っ伏して寝そうだった。
「今日はね、忙しくてさ」
「忙しい……?」
「明日から長期休暇なんだよ」
神は言った。
とても嬉しそうに。
「いやー、溜まりに溜まった有給。
数百年分まとめて消化しないと、上から怒られてさ」
数百年。
スケールが合わない。
「だから今日は、全部前倒し処理。
簡略、簡略、超簡略」
嫌な予感がした。
「で、君の転生なんだけど」
神は端末を操作し、半分閉じた目で言う。
「希望、ある?」
僕は、考えた。
前世で、叶わなかったもの。
贅沢はいらない。
名誉も、力も。
ただ――
「……永遠の命が欲しいです」
「うんうん」
「飢えない体で」
「はいはい」
「痛みを、感じない体がいい」
「オッケー」
あまりにも即答だった。
「それだけでいいの?」
「……それだけで」
神は、満足そうに頷いた。
「いやー、助かる。
変な能力とか言われると検索大変なんだよね」
検索。
「じゃ、条件一致で行くね」
神は、端末を数回タップした。
「不死、無痛、無飢餓……っと」
画面が、ピコンと光る。
「はい、出た」
「……人間、ですよね?」
「え?」
神は一瞬だけ、画面を見返した。
「……あー」
その間。
ほんの、数秒。
でも、その沈黙が、やけに長く感じられた。
「まあ、条件は満たしてるから」
「え?」
「じゃ、転生開始ね。
次!」
次。
「え、ちょっと待っ――」
床が、消えた。
白い世界が裏返り、僕の身体は落ちていく。
遠くで、神の声が聞こえた。
「いやー、終わった終わった。
これで明日から休みだ」
その声は、どこまでも気楽で。
「えーっと……君の転生先?」
一拍。
「ゾンビだけど、まあ大丈夫でしょ」
――軽すぎる音で。
僕の、新しい人生は、始まった。
目を開けた――いや、目を開けたことすら、正確にはわからなかった。
視界はぼんやりと暗く、湿った空気が肺を満たす。
匂いは……生臭い。鉄と腐敗の混ざった匂い。
痛みは、……感じない。
それは最初、安心のようにも思えた。だがすぐに、ぞっとした。
手を上げてみる。指先は、……動く。
けれど感触が、正しくない。皮膚は乾き、冷たく、柔軟さが欠けている。
骨と筋肉の感覚はあっても、それは自分のものではないように思えた。
――僕は、死んだはずだ。
なのに、動いている。
そして、生きている実感は――まるでない。
口を開けて息を吸うと、空気は鼻腔を通り抜け、喉を撫でた。
違和感はない。だが、空腹という感覚もない。
痛みもない。永遠の命も……実感としてはまだ、理解できない。
ぼんやりとした思考の中、視界の端に影が動いた。
暗闇の中、ゴツゴツとした石壁が迫る。
あたりは狭い通路で、天井は低く、壁は湿っている。
かすかな滴る音。風はなく、空気は淀んでいる。
まるで、生きることを拒むかのような場所だった。
足を動かしてみる。
異様に重い。動きが鈍く、ぎこちない。
けれど、転倒はしない。
そして――自分が歩くたび、壁や床が微かに振動する。
その時、声がした――いや、音、というべきか。
遠くで、低いうめき声。
それは生きている者の声ではなかった。
嗅覚が勝手に反応し、身体がその方向へ引かれる。
その瞬間、記憶の欠片が浮かんだ。
――僕は、死んだ。
でも、何かが間違った。
条件通りに転生されたはずなのに、僕は――
人間ではない。
理解が、脳をもたげる前に、嗅覚が告げる。
前方に小さな影、もがく者がいる。
意識はまだぼんやりしている。けれど、本能だけが反応した。
何かを“口に入れろ”と。
捕食せよ、と。
思考が定まらないまま、足は勝手に影に向かう。
手が伸び、口が開き、そして――
――歯が肉に触れた瞬間、異様な感覚が走った。
歓喜でも、恐怖でもない。
ただ、身体の一部が“反応”している。
捕食によって、力が湧く。
それが、存在の根底を揺さぶる。
――僕は、強くなる。
それが、理解できないほどの本能だった。
後ろで、どこかで聞こえる声。
「……条件一致、完了……休暇、開始」
思考がまだ追いつかない中、僕は前に進む。
ダンジョン――いや、自分の新しい世界は、ここだった。
闇は深く、湿った空気は冷たい。
足元には骨や、割れた鎧の欠片。
呻き声、囁き声、捕食の気配――
すべてが混ざり合う迷宮。
けれど僕は、恐怖を感じない。
痛みも飢えもない。
ただ、前に進む。
捕食し、力を得る。
存在を進化させるために。
意識が戻る前に、世界はすでに地獄だった。




