第六話 ――正式な婚約と、奥様の覚悟
第六話です。
婚約の話は、
朝の食卓で切り出された。
「本日中に、
正式に話を進める」
男爵の声は、
いつもより低く、重い。
クララは、
一瞬だけ箸を止めた。
「……今日?」
「遅らせる理由がない」
奥様は、
何も言わずに紅茶を口に運ぶ。
(……奥様主導だな)
レイは、
二人の様子を静かに観察する。
「レイ」
男爵が視線を向ける。
「異論はあるか」
「ありません」
即答。
それが、
この場での最適解だ。
「……そうか」
男爵は、
どこか安心したように息を吐いた。
クララは、
小さく手を握りしめる。
不安と、
期待と、
理解しきれない現実。
すべてが混ざった表情。
「お嬢様」
レイは、
あえて彼女を見て言った。
「不安でしたら、
今ここで仰ってください」
男爵が、
わずかに眉をひそめる。
奥様は、
黙ったままだ。
「……不安だよ」
クララは、
正直に言った。
「でも」
彼女は、
レイを見上げる。
「このまま、
何も決まらないままよりは、
いい気もする」
その言葉は、
幼いが、
逃げてはいなかった。
(……強い)
「十分です」
レイは、
静かに頷く。
「午後、
教会で正式な書類を整える」
男爵が言った。
「その前に」
奥様が、
初めて口を開いた。
「少し、
レイと話をさせてください」
男爵は、
一瞬だけ驚いたが、
何も言わずに席を立った。
クララも、
気配を察して立ち上がる。
二人きりになる。
奥様の部屋。
扉が閉まると、
空気が変わった。
「……あなた」
奥様は、
ゆっくりと言う。
「本当に、
この家に縛られる覚悟はある?」
「縛られる?」
「そうよ」
奥様は、
窓の外を見る。
「この婚約は、
逃げ道を塞ぐ」
「裏も、
表も」
「あなたは、
この家の“顔”になる」
「敵も、
憎しみも、
全部受けることになる」
レイは、
即答しなかった。
だが、
答えは決まっている。
「覚悟は、
昨日の夜に済ませました」
「……そう」
奥様は、
静かに頷く。
「私はね」
彼女は、
声を落とした。
「この家を、
愛しているわけじゃない」
「でも、
守ってきた」
「守るしか、
なかったから」
レイは、
黙って聞く。
「あなたが来て、
初めて思ったの」
奥様は、
レイを見る。
「……この家は、
“変わっていい”って」
沈黙。
そして――
「条件がある」
「なんでしょう」
「クララを、
“盾”にしないこと」
「……当然です」
「裏のことも、
彼女からは遠ざける」
「承知しました」
奥様は、
深く息を吐いた。
「なら」
机の引き出しから、
封書を取り出す。
「これは、
正式な後見委任状」
「……奥様」
「あなたが、
この家を動かすためのもの」
レイは、
一瞬だけ迷い、
受け取った。
(……もう、
半分じゃない)
(完全に、
任されている)
教会。
午後の光が、
石の床に落ちる。
司祭が、
形式的な言葉を読み上げる。
「――よって、
この婚約は」
署名。
封蝋。
すべてが、
淡々と進む。
クララの指が、
ほんの少し震えている。
レイは、
それを見て、
そっと声をかけた。
「大丈夫です」
「……うん」
「何があっても、
逃げ場は用意します」
それは、
約束だった。
儀式が終わり、
人々が散る。
残ったのは、
四人だけ。
男爵は、
レイに向かって言った。
「これで、
お前は家族だ」
レイは、
深く頭を下げた。
「お役に立てるよう、
尽力いたします」
その言葉は、
半分は嘘で、
半分は本音だった。
夜。
屋敷に戻る。
廊下で、
クララが立ち止まる。
「レイさん」
「はい」
「……なんか、
現実になっちゃったね」
「そうですね」
「怖い?」
「少しだけ」
「……私も」
二人は、
それ以上踏み込まない。
距離は、
まだ保たれている。
だが――
確実に、
後戻りはできなくなった。
部屋に戻り、
レイは一人、
机に向かう。
白紙に、
新しい線を引く。
ここから先は、
家を守る話ではない。
――この家を使って、
街を動かす話だ。
この作品は習作です。




