第十九話 ――名前が出る
19話です。
朝。
市場の空気が、
昨日より重い。
理由は、
誰にもはっきり言えない。
だが、
誰もが感じている。
◇
魚屋の前。
「おい、
この値段、聞いてねぇぞ」
「昨日、
掲示出しただろ」
「見てねぇ!」
言い合いは、
すぐ収まった。
だが、
視線だけが険しい。
◇
香辛料屋の女主人が、
ため息をついた。
「……前なら、
間に誰か入ったのにね」
隣の商人が、
何気なく聞く。
「誰だっけ」
女主人は、
一瞬だけ口を閉ざす。
そして、
ぽつりと漏らした。
「……あの、
男爵家の若いの」
◇
その言葉は、
風に乗って広がる。
「男爵家?」
「そう。
クララ様のところ」
「……ああ」
誰かが、
思い出したように言う。
「あの、
目つき悪いけど
頭の回る男だろ」
◇
別の通り。
「名前、
なんて言ったっけ」
「……レイ」
その瞬間、
空気がわずかに動いた。
◇
教会。
シスターが、
配膳の手を止める。
「……今日は、
苦情が多いですね」
若い修道女が、
不安そうに言う。
「皆さん、
落ち着きがなくて」
「人は、
静かでいられなくなると
理由を探すのです」
シスターは、
言葉を選びながら続けた。
「そして――
理由が見つかると、
今度は
“戻ってほしい存在”を
探し始めます」
◇
昼。
裏通り。
数人の男が、
立ち話をしていた。
「……最近さ」
「ああ」
「誰も、
“調整”してくれねぇ」
「前は、
揉める前に
止まってたよな」
「……あいつだ」
「レイか」
名前が、
はっきり出た。
◇
沈黙。
それは、
否定ではなかった。
◇
男の一人が、
吐き捨てるように言う。
「気に食わねぇ奴だったけどな」
「同感」
「でもよ」
誰かが、
言葉を継ぐ。
「いないと困る」
◇
男爵邸。
男爵は、
報告書を見ていた。
奥様が、
不安そうに尋ねる。
「……街で、
レイの名前が?」
「ああ」
男爵は、
目を伏せた。
「予想より、
早い」
「呼び戻す?」
「……いや」
彼は、
ゆっくり首を振る。
「まだだ」
「今は、
“不在の価値”を
理解させる段階だ」
◇
その夜。
クララが、
レイのもとへ来る。
「……今日、
市場で名前を聞いたわ」
「ええ」
「悪く言われてた?」
「半分は」
クララは、
胸に手を当てる。
「怖くない?」
レイは、
少し考えた。
「怖いですよ」
「……それでも?」
「必要とされるのと、
好かれるのは、
別ですから」
◇
帳簿。
新しい項目が
追加された。
・口論未然防止:0
・摩擦発生:23
・名前言及回数:7
クララは、
その数字を見つめる。
「……名前が出ると、
次は?」
「次は――」
レイは、
静かに答えた。
「責任を押しつけるか、
戻ってこいと言うか」
◇
窓の外。
夜の街。
遠くで、
誰かが怒鳴る声。
すぐ止む。
だが、
止んだ理由は
“納得”ではない。
“疲れ”だ。
◇
その夜、
街のあちこちで
同じ言葉が囁かれた。
「……レイがいりゃな」
その言葉は、
懐かしさではない。
不便への恐怖から
生まれていた。
誤字脱字はお許しください。




