第十八話 ――救われなかった一日
18話です。
その日は、
何事もなく始まった。
鐘が鳴り、
市場が開き、
人はいつも通り歩いた。
ただ一つだけ、
足りないものがあった。
◇
「……あれ?」
パン屋の主人が、
眉をひそめる。
「釣り銭が合わねぇ」
昨日まで、
毎朝ぴたりと揃っていた帳簿。
今日は、
銅貨が二枚足りない。
「まさか……」
誰かを疑うには、
金額が小さすぎる。
だが、
違和感は確かに残った。
◇
裏通り。
荷運びの男が、
荷を落とした。
「ちくしょう……」
誰も手を貸さない。
以前なら、
レイが雇った調整役が
必ず一人は声をかけていた。
今日は、
いない。
◇
昼。
市場の端で、
口論が起きた。
「値段が違う!」
「昨日から変わったんだよ!」
「聞いてねぇぞ!」
情報の伝達が、
一拍遅れている。
それだけで、
怒鳴り声が増える。
◇
教会。
司祭は、
穏やかな声で説教する。
「神は、
静かな者を祝福されます」
だが、
礼拝堂の後ろで
小さなざわめきが起きていた。
「……昨日より、
スープ薄くない?」
誰も司祭に言わない。
ただ、
顔を見合わせる。
◇
夕方。
「ミナ、
帰り遅いぞ」
父親が、
不機嫌そうに言う。
「……市場で、
揉め事があって」
ミナは、
言葉を選びながら答えた。
以前なら、
「先生に会ってた」と
言えた。
今日は、
言えない。
◇
隠れ家。
クララが、
不安げに聞く。
「……本当に、
何もしなくていいの?」
「ええ」
レイは、
冷静だった。
「“何もしない”のは、
怠慢ではありません」
「でも……」
「今までが、
異常だっただけです」
クララは、
その言葉の意味を
噛みしめる。
◇
夜。
酒場で、
小さな喧嘩が起きた。
「お前、
順番抜かしただろ」
「してねぇよ!」
拳が、
一瞬だけ握られる。
――殴られなかった。
だが、
その一歩手前が増えている。
◇
翌朝。
市場の掲示板。
新しい紙が貼られた。
最近、
市場内での混乱が増えています。
各自、
自己責任で行動してください。
自己責任。
それは、
誰も責任を取らない
という意味だ。
◇
パン屋の主人が、
ぼそっと言った。
「……前は、
こんなことなかったよな」
隣の商人が、
同意する。
「ああ。
誰かが、
うまく回してた」
「誰だっけ」
「……さあな」
名前は、
まだ出ない。
◇
昼過ぎ。
子どもが、
泣いていた。
転んで、
膝を擦りむいた。
誰も、
すぐには来ない。
少しして、
母親が駆け寄る。
「なんで、
誰も――」
言いかけて、
止まる。
答えを、
知ってしまったからだ。
◇
夕方。
男爵邸。
男爵が、
重く息を吐く。
「……苦情が、
三件来た」
奥様が、
驚く。
「こんなに早く?」
「早くはない」
男爵は、
静かに首を振った。
「遅れていたものが、
表に出ただけだ」
◇
その夜。
レイは、
帳簿に新しい線を引いた。
「今日一日で、
小さな摩擦が
十七件」
「多いの?」
「昨日は、
“ゼロ”でした」
クララは、
言葉を失う。
◇
「街は、
壊れていません」
レイは、
淡々と言った。
「でも、
滑らかさを失いました」
「……それが?」
「人は、
不便には耐えられます」
「でも――」
レイは、
顔を上げる。
「不安には、
耐えられない」
◇
外で、
遠くの鐘が鳴る。
いつもより、
少し遅れて。
それに気づいた者が、
数人いた。
そして、
誰かが言った。
「……前は、
こんなことなかったよな」
その言葉は、
静かに、
確実に広がっていく。
誤字脱字はお許しください。




