第十話 ――味方の顔をした敵と、守る順番
10話です
朝の鐘が鳴る前に、
街はもうざわついていた。
「男爵令嬢が消えた」
「婿殿が連れ去ったらしい」
「いや、攫われたのを見た者がいる」
噂は、
互いに食い合いながら膨らむ。
真実は一つでも、
物語は無数に生まれる。
◇
男爵邸の応接間。
奥様は、
湯気の立たない茶を前に座っていた。
「……帰ってこない」
それだけを、
何度も繰り返す。
「落ち着いてください、奥様」
家令代理――
つまりレイの部下になった若い書記が言う。
「“見回り”には当たらせています」
「そんなもの……」
奥様は、
唇を噛んだ。
「レイは?」
「……消息不明です」
空気が、
冷えた。
◇
同じ頃。
臨時の隠れ家。
「――屋敷には戻れません」
レイは、
はっきり言った。
「どうして?」
「戻った瞬間、
“犯人”になります」
クララは、
ゆっくり息を吸う。
「……私が消えたことで?」
「はい。
“被害者”は、
戻ると疑われません」
「でも、あなたは?」
「私は、
“外から来た男”です」
それ以上、
説明はいらなかった。
◇
「じゃあ、
どうするの?」
クララの声は、
落ち着いていた。
レイは、
少しだけ驚く。
「怖くないのですか」
「怖いわよ」
即答。
「でも……
今は、
考えたほうがいい気がする」
その言葉に、
レイは小さく笑った。
「……教育の成果ですね」
「嫌な成果ね」
◇
レイは、
地図を広げる。
倉庫街。
港。
教会。
裁判所。
男爵邸。
「敵は、
一つじゃありません」
「知ってる」
「ですが、
優先順位は決められます」
指が、
二点を叩く。
「――教会」
「――貴族」
「どっちが、
先?」
「世論です」
クララは、
眉をひそめた。
「そんなもの、
見えないじゃない」
「だからこそ、
操作されます」
◇
そのとき。
控えめなノック。
「……入れ」
扉が開き、
見覚えのある男が現れた。
「久しぶりだな、先生」
街の顔役――
いや、
元・顔役。
「生きていましたか」
「お前のせいで、
半分死んだ気分だ」
男は笑う。
だが、
目は笑っていない。
「取引だ」
「聞きましょう」
「教会が、
動き出した」
クララの指が、
わずかに強張る。
「司祭が、
“令嬢誘拐事件”として、
説教する」
「なるほど」
「しかも――
お前の名前付きだ」
◇
沈黙。
クララが、
小さく言う。
「……私のせい?」
「違います」
レイは、
即答した。
「これは、
私の仕事の結果です」
顔役が、
鼻で笑う。
「いい男だな」
「で、
取引とは?」
「教会の裏帳簿」
レイの目が、
細くなる。
「それを、
表に出せば?」
「説教は、
一夜で沈む」
「代償は?」
「――俺の“居場所”だ」
顔役は、
正面から見据える。
「裏も表も、
もう居られねぇ」
◇
クララは、
その会話を聞きながら、
一つの事実に気づく。
(……レイは、
人を“使う”けど、
捨てない)
それは、
優しさか。
計算か。
両方だろう。
◇
「条件を飲みます」
レイは言った。
「ただし、
一つ追加します」
「何だ?」
「あなたの代わりに、
“座る人間”を、
こちらで決める」
顔役が、
一瞬だけ黙る。
「……好きにしろ」
「では、
成立です」
◇
取引が終わった後。
クララが、
ぽつりと言う。
「……あなた、
どこまで行くつもり?」
レイは、
少し考えてから答えた。
「守るべき順番が、
変わるまで」
「何が一番?」
「――今は、
あなたです」
クララは、
何も言えなかった。
◇
その頃。
教会の奥。
司祭は、
新しい説教文を書き直していた。
「沈黙は美徳――
だが、
真実は光の中にある」
書き終えた手が、
止まる。
「……面倒な男だ」
司祭は、
そう呟いた。
誤字脱字はお許しください。




