星夜、首都東京へ
非常にタイトなスケジュールだった為、娘を母に預け、翌日には妻と東京・神奈川へ部屋探しに向かった。自社で建てられた物件であればかなりの家賃負担がある。事前に仲介部へお部屋のリサーチを行っていたが、いかんせん東京に自社物件が無いのだ。
会社として首都圏に力を入れていくという事ではあったが、まだまだ課題は山積みなのが何となくわかった。それと、東京はとにかく部屋が狭い。ある程度想定していた家賃内で探すとなると、ファミリー物件はほぼ皆無。これから子供も大きくなっていく事も考えれば、ある程度の広さは欲しい。
妻からして見れば見知らぬ土地で家で子供と過ごす時間が長い事もあり、妥協出来る限度もあるだろう。何しろ直接部屋を見れる機会はこの週末の2日間しかない。自社物件は早々に諦めて、多少の家賃の出費も受け入れ他社物件に絞った。しかし新築はもちろん、築10〜15年程の物件になると中々空きが無い。この部屋探しは本当に困ったし大変だった。星夜は自分の通勤距離はあまり考えない事にした。少し営業所から遠くなっても妻が納得出来る物件を探す事にした。
最終的に決まったのは、神奈川県川崎市の登戸という地域だ。築5年程で、ファミリーで住める自社物件が唯一ここにあったのだ。最寄り駅は中野島という駅だったが、もう少し先に小田急線の登戸駅がある。この駅はとても利便性が良く、新宿迄も15〜20分程で着く。スーパー等の買い物施設もあり、とても住みやすそうなところだ。
公共交通機関の利便性は良いのだが、通勤は車でしなければならない。何故なのかはよくわからないが、会社がそう言うので仕方ない。星夜からすると、片道約1時間半かけて営業所迄通う事となる。夜は比較的車が進むので40分前後で着くが、朝の東京は尋常じゃ無いほど車が混む。今回は妻の要望優先と決めていたので、住居はここに決める事にした。
この日の夕方、妻とは新横浜駅で一旦別れた。と言うのも、決めた新居に住み始める事が出来るのは7月の頭から。
星夜は6月1日付の人事異動で世田谷勤務の為、1ヶ月間は新宿でホテル住まいなのだ。世田谷区と言っても隣の渋谷区との境に世田谷の営業所がある。新宿駅から笹塚駅迄が約5分。笹塚駅から徒歩5分程で営業所に着く。最初の1ヶ月限定の公共交通機関での通勤となる。
異動初日は、千葉県で行われたブロック会議からスタート。
ブロック会議とは、『首都圏ブロック』に在籍している全営業社員が3ヶ月に1回、一堂に会する。人事異動の紹介や各支店の成績発表、個人の受注者発表等もある。何百人と集まるホールの壇上に上がり、拍手喝采を浴びる機会なので、これをモチベーションにしている営業社員は結構いるようだ。
この会議で星夜は、久々の再会を果たす。
以前、お世話になった神島さんと挨拶を交わした。神島さんは、今はこの首都圏ブロックで支社長を務めている。
この首都圏ブロックは、まだ立ち上げたばかりの事務所が多く存在する。したがって基本的に建築や設計、仲介管理部の人員が圧倒的に少ない。仲介管理部・建築部・事務がいるのが『支店』で、営業部のみのところが『営業所』となる。各支店長・営業所長の上に支社長が2人いて、その上にブロック全てを統括する『ブロック長』がいる。簡単に説明すると、その様な組織となっている。
神島さんは、元々東京出身の人だ。東京へは支店長として異動し、結果を出して今の地位に登り詰めた。相変わらず数字を作っている。流石だ。
「世田谷とはまた大変なところに来たね。」
神島さんはそう言った。
星夜にはまだ、この言葉の意味がわからなかった。
世田谷の営業所のメンバーとも初めて顔を合わせた。星夜が所長としてここに来るまで営業所長であった【松下さん】が、そのまま営業課長として残り、後は皆、契約経験の無い営業社員達の集まりだ。
実はこの世田谷営業所は、開所以来1件も契約があがっていないらしい。部屋探しでも大苦戦をしたこの世田谷区。確かに自社物件がほとんど無い。松下課長とこれまでの経緯や営業社員の能力や人となり等を打ち合わせたが、それ以上に問題なのは、ここには仲介管理部や建築、設計部は勿論のこと、事務員もいないという事だ。星夜のいた東海ブロックではまずあり得ない環境だ。
この世田谷の母店となるのが川崎支店。
川崎?そこまでいかないと母店が無いの?
星夜はそう思った。そう言えばここに来る前から『胸騒ぎ』というか『嫌な予感』はしていた。星夜は、正直東京だろうがどこであろうが、『営業力』が通じないとは思っていなかった。この業界の営業は、都市部や田舎の地域によって営業手法が変わる事はある。
星夜がいた愛知県の支店は、その両方のエリアが混在する地域だった事もあり、そこで鍛えられてきた自負も自信もある。そもそも、契約というのは営業だけの力でとれるものでは無い。仲介部や建築・設計部、事務の皆さんのお力添えがあって成立する。あくまで営業とはきっかけを作ってくる役目があり、永くお客様に寄り添う事が仕事だ。
星夜はこの世田谷の環境を見て、
「お客様を馬鹿にしている。」
率直にそう思ったのだ。ただし、文句を言っていても何も始まらない。星夜はまず、母店である川崎支店に挨拶に行く事にした。
川崎支店は、時間帯にもよるが片道30分前後かかる。
「遠いな。」星夜はそう感じた。
川崎支店の支店長や建築部・仲介部の管理責任者に挨拶し、その後に事務員の【三谷さん】と少し話をした。三谷さんは長くこの支店を事務員として支えてきた女性だ。これから散々お世話になる存在なのだが、星夜は第一印象で、
「この三谷さんは優秀だ。」そう思っていた。以後、この首都圏ブロックで星夜が最も信頼する女性社員となる。こうして異動初日はあっという間に終わった。
その日の夜、新宿でホテル住まい生活がスタートしている星夜は、新宿駅からホテルまでの道中にある飲食店街で夕食を済ませる事にした。何気なく入った魚を中心とした定食屋で、1杯だけ飲んでササっと夕食を済ませた後、近くのスターバックスへ。今日は火曜日だが、先ずは明日からの1週間をどう過ごすか考えていた。
星夜は、元々何かを始める際には必ず自分の目で確かめたい性格だ。世田谷区エリアを知る為にも、営業社員と一緒に歩いてまわってみようと思った。時代が変わりつつあるという事もあるが、この首都圏ブロックでも、営業は週休2日、日曜日と月曜日はお休みだ。
星夜は、世田谷営業所の社員達に休日出勤をさせる考えは全く無い。お客様都合で仕方なくという事は営業なので勿論あるのだが、必ず振替休日をとらせる事で週休2日は確保してもらう考えだ。星夜は仕事が終わった後もどうせ1人の為、このホテル住まいの1ヶ月は、火曜から日曜日迄密かに出勤するつもりでいた。日曜日だけは唯一自分だけで営業が出来る貴重な時間だ。




