鬼の支店長
入社2日目、今日も固定資産税やら相続税やら、今までの人生で触れた事もないワードに頭を悩ませていた。
基本的に営業サポートをしてくれる立場の高木さんに聞けば何でも教えてくれる。とても頭の良い高木さんは、こちらの質問に対して答えられない事は無い。後で振り返ってみた時にも、この時から既に星夜は、高木さんには絶大な信頼を寄せているのがわかる。
相変わらず時間が経つのは遅いが、マニュアルに向き合っていた。そんな矢先、久藤支店長が支店に戻ってきた。
事務の【猪熊さん】と笑顔で楽しそうに談笑している様子だ。
『鬼の久藤支店長』と恐れられ、対峙すれば支店内の誰もが背筋を伸ばすやり手の女性管理職者。年齢は50代前半だそうだが、仕事も出来るので美意識も高いのだろう。上品で年齢より若く見える。
何だか今は機嫌も良さそうなので星夜は、
「お疲れ様です。」
と久藤支店長に挨拶をした。
「あら成田さん、支店で何してるの?」
口調も表情も穏やかだ。ただの質問だろう。そう思った星夜は、
「新人研修にて、税金の事や会社の概要等を学んでいるところです。」と答えた。
すると、氷の様な冷たい視線に変わり、
「あんた28歳だよね?悠長にしている時間なんて無いわよ!高木さん、今すぐ成田さんを連れて営業してらっしゃい!」と凄んだ。
高木さんはとんだとばっちりだが、何より星夜はこの時、
「とんでもない会社に入社してしまったかもしれない。」と本気で感じたのだった。
上長の指示は絶対だ。直ぐに準備して慌てて高木さんと支店を出た。
車内では、堪えきれなかった様子で高木さんが会話を始めた。
「いやあ、しかし驚きましたね!といっても【急に人間】の久藤支店長なので、よくある事ではありますが。」
高木さんが笑いに変えてくれたので、星夜も思わず苦笑い。
「しかし、中途採用とは言え、新人研修中に、しかもたった二日目で営業に出ろなどと言う無茶ぶりは流石に初めてです。」
と少し首を傾げながら高木さんは言う。
「やっぱり初日の朝の事件から目をつけられてしまったのでしょうか?」
と星夜の表情が曇る。
「あの人の頭の中は、あの人にしか解りません。とりあえず気持ちを切り替えて私のオーナー様のところに行ってみましょう。」
確かに考えても仕方のない事に時間を使っても何も生み出さない。星夜は、高木さんの初契約のオーナー様の自宅を訪問した。
このオーナー様からは、最初は営業をしつこいと感じていた事、他社の営業もひっきりなしに訪問してきていたので、対応するのが億劫になっていた事等、当時の心境を聞く事が出来た。「それなのに何故、弊社でご契約頂けたのでしょうか?」
星夜はオーナー様に尋ねた。
「高木さんは途中から売り込みの営業を一切しなくなってね。それなのに顔は出してくれるからそのうちに親近感が湧いてきたのよ。実は以前から、借家もだいぶ古くなってきたし、相続税対策も考えなければいけないとは思っていたのよ。まぁタイミングが合ったのね。他にも沢山の営業が来てくれていたけど、お願いするなら高木さんにと思っていたわ。」
星夜は、なんだかとても良い話を聞けた様な気がしていた。
最初は『免れざる客』として鬱陶しがられる思いをしながら、契約の際にはありがとうと逆にお礼を言われ、その後はあなたが頼りなのよというスタンスにお客様は変わって行くのだ。これって中々経験できる事ではない。星夜は不思議とこの業界での営業の難しさだけでは無く、同時にやりがいも感じ取っていた。
笑顔で手を振ってくれたオーナー様宅を後にし、実際に高木さんと2人で飛び込み営業を始めた。星夜は、その様子を隣で拝見する事になった。
このご時世、インターフォン付きの家が増えている。既に暗くなってきていて、夕食時で忙しい事もあるのだろう。お客様は中々外に出てきてはくれない。
「中々玄関のドアを開けてくれませんね。」
高木さんが呟く。その後も数件訪問を重ねてみたが、この日は特に成果もなく終わった。
帰りの車中では高木さんと雑談をしながら支店へと向かった。
高木さんは押しが弱く、継続して契約を取る事が出来なくなり、営業サポートのポジションについた事、様々な新人を見てきて、契約を取り、この会社で生き残って行く人と取れずに辞めて行く人の違い等の話をしてくれた。
そうこうしているうちに、支店に到着した。ドアを開けると、久藤支店長が声をかけてきた。「あら、成田さんお帰り。営業はどうだった?」
と聞かれたので、
「オーナー様の経験談もお聞きする事が出来、とてもやりがいを感じました!簡単ではないですが、私も精一杯営業して早くこの支店の一員になれる様精進します!」と星夜は答えた。
久藤支店長は暫くこちらを見つめた後にっこり笑顔で、
「まあ、やる気満々ね。今日はもう帰って良いわ。明日からまた頑張ってね。」
この時の時刻は19時。星夜は言われた通りこの日は帰宅した。こんなに早く帰れるのがこの日で最後になるとは、この時の星夜はまだ知る由もなかった。




