カラー掌編#FAC7C1『半歩、その先の10秒』
「大樹、残り30!残り30だぞ!」
セコンドからの声は、まだはっきりと聞こえる。試合開始早々から、執拗に狙われ続けた右膝は、かなり前から感覚を失っていた。それでも古田は、ステップを取り続けた。
ついにベルトには手が届かないまま、古田大樹のリング生活は、残り30秒で終わりを迎える。色々な思いが錯綜するわけでもなく、古田の意識は目の前の相手だけに向けられていた。
距離を測るだけの打撃に、意味はもうない。古田は左足で相手の内腿を蹴り、体を少しずらして、相手の左ボディーに拳を打ち込んだ。
「へへ」
揶揄うような呟きが、古田には確かに聞こえた。しかし、血が上るには、古田の脳は疲れきっていた。”ファイターズハイ”とも言える状態で、古田は一歩一歩前に出て、一打一打に全力をこめた。
「もう残り20だぞ!全部出せ!」
会場には30,000人が詰めかけ、古田の引退試合に大きな声援を注いでいる。にもかかわらず、やはりセコンドの声は息遣いまで耳に届く。リングにあがるということは、激しくせり立つ崖の淵に立つようなものかも知れない。体を傾けぎりぎりのところまで、その身を晒す。セコンドからの声は、そんな男の腰に巻かれた唯一の命綱なのだ。
古田は、相手のみぞおち辺りに前蹴りを入れ、相手が少しステップバックする気配を感じると、追いかけるように半歩だけ前に出た。
「残り10!!」
テイクダウンを狙う古田の体が相手に届く前に、竜巻のような膝蹴りが古田の顎にめり込んだ。
古田に残されていた最後のダウンだった。テンカウントを聞く前に、試合終了のゴングを聞く前に、格闘家古田大樹は終わった。
瞼の上から流れていた血が、汗に溶け、瞳の中で唐棣色に輝いた。仰向けに倒れ、駆け寄る人たちの顔を交互に眺めながら、古田の心は清々しく揺蕩っていた。それは脳が揺れたからだけではないことを、古田自身はよく分かっていた。