僕だけが忘れない君
僕の人生は後悔ばかりだ。
授業中、居眠りをして先生にはよく怒られたし、期間限定のスイーツはいつも食べ損ねる。昔僕に懐いていた野良猫は一度も頭を撫でられずに姿を消した。流行りには乗り遅れるし、花壇に咲いていた名前の知らない花は水分を失って枯らしてしまった。
満足のいく結果を得たことはない。すべてが手遅れだった。あの時ああしていれば良かったとか、こうしていれば良かったとか、そんな気分を害するような言葉が、僕の口癖だ
そんな僕の人生の中でも一番の後悔は、「あの日」だと言い切ることができる。きっと、この先どんな未来が待ち構えていようと、「あの日」ほどやり直したいと願う日は来ないだろう。
「ごめん。僕じゃ君とは釣り合わないよ」
嫌いだったわけない。好みじゃないなんて嘘は言えない。15年間、物心着く前からずっと一緒だった彼女を僕はずっと目で追っていた。大好きだった。彼女は僕の希望そのもので、なくてはならない存在にも近い。
でも、僕は彼女を突き放した。誰が見ても美しくて、可憐な人だった。けれど笑顔は明るくて、冷たいわけじゃない。彼女の人物像を言葉で表すことは難しい。けど、これはあくまで僕個人の意見だけど、彼女は月みたいなんだと思う。見果てるくらい遠くに浮かんで、うっすらと僕を照らしてくれる。いや、僕だけじゃない。誰にでも平等に、分け隔てなく彼女は優しく照らしていた。
だからこそ、そんな彼女を穢すことはしたくなかった。彼女は誰のものにも、もちろん僕のものにもなるべきではない。そう、本心で思っていた。
「……そっかぁ、振られちゃったか。私、結構勇気出したし、本気なんだよ?」
「卒業したら君は県外の高校に行くんだろ。そしたら、僕よりいい人なんてたくさん見つかるはずだ」
「……ううん、そんなことないよ」
何かを堪えるように目を瞑り、いつも通り、彼女は屈託のない顔で笑った。でも、どこか無理をしているようにも見えた。その時気づいたんだ。彼女が僕に見せる笑顔は、教室の中の笑顔とは少し違うものだということに。
「遠くに行っちゃうから、伝えたんだよ」
自然に表情筋が緩むような、こぼれたような笑顔。肩に力の入っていない、自然な喜色を浮かべる。見ているとこちらまで笑ってしまうような、そんな幼さや無邪気さの残ったままの笑顔。
「……君は、そのままでいてよ。満ちて欠けて、月みたいに誰かを優しく照らし続けてあげてくれ」
「なにそれ、意味わかんない」
「君のことを言ってるんだよ。帰りにアイスでも買おうか」
「一番高いの」
「仰せのままに」
こうして、僕たちはいつも通りの帰路についた。いつまでもこのままで、何も変わることなく明日が訪れて、僕たちは生きていく。そんなことを妄想して校舎を出た。わがままな彼女に小さいくせに値段の張ったアイスを買って、食べ歩きながらY字路にたどり着いた。ここまで来たら、もうお別れだ。
「明日は卒業式だから、風邪ひかないようにね。アイス食べたからお腹冷えるでしょ。今日は特に気をつけるように」
「分かってる。明日もちゃんと迎えにきてよね」
「今日みたいに僕の目の前で着替えなんてしたら怒るよ。僕がいるって気づいてただろ」
「見せつけてたんです〜!」
そんなことを話しながら、僕たちの帰り道は引き裂かれる。本心を言えば、まだ話していたかったけれど、彼女の時間を無駄にしてはいけないと思って、俯きながら1人の帰り道を堪能した。家はすぐそこのはずなのに、時の流れが遅くなってしまったみたいで、僕の影はより濃く、より大きく伸びていく。
あの日、僕が彼女の愛を受け入れていれば。振り返って、一緒に寄り道なんてすることができれば、きっと未来は変わっていたのかもしれない。でも、そんなことを考えるだけ虚しくなる。過去に戻ることはできないし、できたとしてもきっと結果は変わらない。もしくは、もっと酷い結末になるかもしれない。だから、僕のこの気持ちはずっと心の奥にしまっておくんだ。
あぁ、そうだ。言い忘れていた。僕が「あの日」からずっと後悔していること。
次の日、彼女は首を吊って自殺した。
そのことに気づいたのは僕が最初だった。朝一番に彼女の家に向かい、インターホンを1度だけ鳴らし、合鍵を使って家に入る。2階、廊下の左の突き当たりが彼女の部屋だ。前日のように、運悪く彼女の裸を見てしまわぬように、ノックしてから部屋に入ろうとした。
「……入るよ?」
何度ノックしても返事をしないから、まだ寝ているのだと思った。大抵の場合、彼女はアラームを止めて寝坊する。だから、僕が毎日家まで迎えに行っていたんだ。あの日も、どうせ2度寝をしているのだろうと思っていた。でも、思い返してみれば、彼女は3年生になってからの1年間、一度も寝坊したことはなかったんだ。
そんな簡単なことにも気づかず、僕はのうのうと扉を開けた。そして目に映ったのは、閉じられたカーテンから漏れる暖かな日差しと、首を吊った彼女の姿だった。
「…………え?」
あまりに突然の事で、僕は何もすることができなかった。脳が現実を受け入れず、「そんなことない」、「これは夢だ」なんて、くだらない妄言を頭の中で何度も繰り返した。これはあとから聞いた話だけど、どうやら異変に気づいた家族が直ぐに駆けつけて救急に電話をしてくれていたらしい。けれど、僕はそんな彼女の家族の言葉すら耳には入らず、彼女の生気のない目だけを見つめ、気絶するようにパタリと意識を途絶えさせた。
その時の記憶はあまり覚えていない。ただ、僕は未だに彼女の部屋の扉を開ける夢を見る。扉の先にいる夢の中の彼女は、いつも通りの笑顔で、「やっときた」なんて似合わない礼服なんて着て、一緒に朝ごはんを食べて、一緒に卒業式に出て涙を流している。僕には、どっちが夢なのか分からない。けど、どうやらそこから先の夢は見れないらしく、やっぱり現実では彼女は死んでしまっているのだと思い知らされる。それと、警察による彼女の家の捜索で遺書が見つかったらしい。家族宛と、僕宛の二通の手紙だ。
彼女が自殺してから2年が経った。僕は「あの日」をきっかけにせっかく合格した彼女と同じ高校を辞退したり、数ヶ月引きこもりにになったり、この2年で色々あったけど、なんやかんや立ち直った。彼女に、「情けないぞ」ってバカにされてる気がしたから、意地でも立ち上がった。
僕は今日、初めて彼女のお墓参りに行く。もう、過去を振り返るつもりは無い
初めて見た彼女の墓は思った以上に丁寧に手入れされていた。供えられている花は造花ではなく本物だった。聞けば、彼女の墓には毎週のように誰かがお参りにきて、その度に手入れをされ、花を添えられているらしい。人気者はやっぱり違うなと、改めて思った。
「手入れはもう……いらないかな」
そんなことを言いつつ、結局僕はバケツと雑巾を取り出して彼女の墓を拭き始めた。枯れ始めている花を退け、彼女が「花言葉が素敵」と言っていた花を添えた。名前は知らないけど、「夢でも貴方を想う」という花言葉だったはずだ。
でも、きっとこれは時間稼ぎだ。こんなことをしに来たんじゃないのに、この期に及んで僕はまだ躊躇っていた。けれど、いざ彼女の墓の前に立つと、不思議と勇気が湧いてくる。意を決して、ようやく僕は口を開いた。
「どうせ、君に僕の言葉なんて届かないだろう。だから、これは全部独り言だ」
改めて声に出してみると、すごくダサいし、イタい。でも、言わなくちゃいけないことがあるんだ。彼女には決して言えなかった、僕の言葉だ。彼女に言ってはならなかった、最悪の言葉だ。言うべきだった、大切な言葉だ。
「僕はまだ君のことを認めてない。あんなこと話した次の日に誰にも何も言わずに死んで、ご丁寧に遺書も遺して、君は何がしたかったんだ。みんなが君の死を悔やんでいた。たくさんの友達に囲まれて、みんなから愛されて死んで、そんな君の姿が本当に気持ち悪かった!」
気に入らなかったんだ。誰もが皆、彼女に感謝していた。僕だけだ。僕だけが「あの日」に取り残されて、僕だけが彼女の死を悔やんでいた。死んではいけない人だった。なのに、なのになんでみんな、彼女の死を当然のように受け入れられていたんだ。わけが分からない。
1年生の頃彼女と同じクラスだったあいつも、3年間彼女と同じ部活で切磋琢磨していたあいつも、委員会で彼女に何度も迷惑をかけたあいつも、みんな悲しそうに微笑んで「今までありがとう」なんて言ってた。
「そんなんじゃないだろう、君は! 僕の知っている君は、だらしなくて、自由人で、気まぐれで! 嫌って思ってしまうくらい面倒くさいやつなんだ!」
どうしても理解できなかった。みんなが語る彼女は、僕の知る彼女とまるで違う別人みたいだった。けど、それも当たり前だ。彼女は特別を欲していたのだから。愛されたくて、愛想を振りまいていたんだ。
そして結果、彼女はたくさんの愛に穢されて、もう見えなくなってしまった。彼女に伝えられる言葉のすべては彼女に向けられたではなかった。どす黒く汚い言葉で、君が塗りつぶされていく様は見るに堪えなかった。
だから今ここで、「あの日」のことを訂正させて欲しい。答えることができなかった「あの日」の君の言葉に、今更だけど返事をさせてもらいたい。もう二度と後悔しないように、僕はようやく彼女に手を伸ばすんだ。
「君は君だろ。なんで、こんなことをしたんだ。君は望んでたのかよ。こんなことを。ありのままの君を受け入れる人は、ずっと傍にいたっていうのに」
全部僕のせいだ。「あの日」、彼女は全て決意したんだろう。一言だっていらなかった。ただ彼女の言葉に頷くだけで、結末は変わっていたかもしれないっていうのに。やっぱり、僕の人生には後悔しかない。
僕が一番望まなかったことが、僕の目の前で起こっている。できることなら、何も見たくなかった。何度この目を潰そうと思ったか分からない。本当の彼女はもうどこにもいなくて、ハリボテの空っぽな抜け殻だけが残っている。みんな、彼女を知らない。僕だけが覚えているんだ。
「だれが君なんかを愛してやるもんか。それは、もうたくさんの人にもらっただろう。もう、満足だろう」
心にもないことを言う。本当は、こんなことを言いたいんじゃないのに、回りくどいことしか出来ない自分が嫌になる。でも、これでいいんだ。嘘つきな君に、僕は嘘で返すよ。偽りだらけの君に贈られる言葉に、相応しい言葉を贈るよ。
「君があの時からずっと同じままなら、僕はまだ君の特別になれているかな。そうなのだとしたら、僕は君を特別にしたいと思うよ」
幾度となく心の中で反復した。いつでも声に出して言えるように、何回も練習した。何度も、何度も、涙が出るほど、僕は言い続けてきた。心が痛くなって、ここへ来るまで時間がかかりすぎたくらいには。
2年の時を経て、ようやく僕はその言葉を口にすることができた。やっと、僕は「あの日」の想いに応えることができた。
「僕は、君が大嫌いだ」
僕だけは、君を忘れない。