診療中 ユニット1 Case1
もう既にみなさんご存知の通り、院長は自分より下の存在からの忠告を一切受け付けない。
故に、私がこちらのクリニックで働き始めた直後、こんな場面に遭遇した。
患者さんは確か60代後半くらいの男性で、院長のお父様の古くからのご友人だった。
入れ歯が古くなり、合わなくなったことを主訴に初めて来院された。
当初は
「お前の親父さんに頼まれたから、来てやったぞ!ガッハッハッ!」
「いや~、あいつの息子がこんなに立派になって凄いことだぞ!」
「お前もさ、こんなに小さかったのにな!俺が送り迎えしてやってたの覚えてるかぁ~?」
と、大声で話しかけてくる陽気な方だった。
ただ、院長は自分を未だに子供扱いし、「院長である自分」に敬意を払わない態度が気に入らないといった様子だった。
その為、時々スタッフに
「あの爺さん、うるさいよな?」
「無駄口多くて、しゃべられると治療が進まない。」
「こっちはボランティアでやってるんじゃないんだから、俺の時間を取らないで欲しい。」
などなど…
きっと、小さい頃には可愛がってもらったであろう相手に対して、氷のように冷たい言葉を吐いていた。
私はその頃入職したてで、院長の本性をよく知らず、
「気恥ずかしいから、そう言っているだけなのかな?」
と単純に思っていた。
だが、その考えが間違いであったとすぐに気付かされる。
院長には、情もなければ血など通っていなかったのだ。
事件はその患者さんの入れ歯が仕上がった時に起きた。
話の途中で急ではあるが、ここでみなさんに想像して欲しい。
「義歯」、俗に言う「入れ歯」は口の中にとっては異物なのだ。
ひかないで聞いて欲しいことがあるw
あれは幼稚園生の時、午後の昼下がり、綺麗に洗われて置かれた大好きな祖母の総入れ歯(全部床義歯)を洗面台に発見したのだ。
私は目を輝かせ、何の躊躇いもなく口に入れ、満面の笑顔で「イィー!」っとし、母の顔を全開に引き攣らせたことがある…。
そんな私にならわかる!
アレは「デカい、厚いピンクのプラスチックの塊」なのだ!
私は至ってまじめに、楽しんで入れ歯を口に入れていたが、口がいっぱいになる感じや、動かすとカチカチ鳴る音や、気を抜くと入れ歯が口から出てしまう感覚は今でも鮮明に覚えている。
歯科で働く上でも貴重な体験であった。
口の中にとっては異物の義歯だが、全く歯のない者、不幸にして歯を失ってしまった者にとっては食べる為の重要な道具であり、救世主、なくてはならない大切な物となる。
だとすれば、その重要なアイテムを上手に作って、気持ち良く噛めるようにして欲しいと願う患者さんの心は、みなさんでも手に取るようにわかるだろう。
安定性が悪くカタカタしたり、どこかに当たって痛かったり、すぐに外れてしまったりで上手く噛めなかったら一大事だ!
逆に、よく吸い付いて外れず、上手く噛めて、前歯でも噛み切れるような義歯があるとすれば、それはその人にとっては超レアアイテムと言っても過言ではない物となる。
義歯は歯のない者にとって、掛け替えのない存在であり、それを自分好みに仕上げてくれる歯科医師や歯科技工士さんは神に等しい存在なのだ。
(フルデンチャーマスターの私の祖母もこう言っていた。「医者様は本当に神様みてぇで、ありがてぇな…(合掌)と。」)
【入れ歯について知ろう♪のコーナー】
義歯…通称、入れ歯。
全部床義歯(フルデンチャー、総入れ歯)
部分床義歯(パーシャルデンチャー、部分入れ歯)
保険と自費では材料・材質が違う。着け心地が軽い金属床や金属のバネがなく義歯が目立たないノンクラスプデンチャーなどがある。
取り扱いはクリニックごとに違う。
それでは、義歯について少し学んだ所で事件に戻ろう。
義歯が仕上がったその日、実際に患者さんの口に入れて適合を確かめていた。
この時には義歯を削ったりして調整をしながら、その方の今の口腔内の状態に合うように微調整を行う。
当たって痛い所はないか、咬み合わせは大丈夫か、気持ち悪さはないかなど、通常の歯科医師は丁寧に作業を行う。
だが、院長にとっては、保険の義歯の治療は儲からないし、老人は文句ばかり言うので、最も嫌いな治療だったのだ。
その上、この患者さんはダイレクトに
「まだ痛えな!」
「前の入れ歯はこんなに大きくなかったぞ!」
「最初からこんなに当たる入れ歯は初めてだ!」
など、色々と伝えてきたのだ。
そして、調整も終わりに差し掛かった頃、我慢していた院長が冷たい口調で不用意にこんな一言を発した。
「まぁ、こんなもんですね。あとは使って大丈夫か確認して下さい。」と。
一瞬の沈黙の後、その患者さんは烈火の如く怒りだした。
「先生!こんなもんってどういうことだい?俺はいい入れ歯を作って欲しくて、お前を信じてここに来たんだよ!」
「歯の良いお前にはわからないかもしれないが、入れ歯を使っている者にとって、ちゃんと噛める入れ歯は本当に大切なもんなんだ!それを、そんなどうでもいいような言い方をして…。先生には入れ歯を使っている人の気持ちがわからないのかい?それじゃあ、ダメだろうさ!」
「あいつの息子なんだから、わかるだろう?患者さんの立場に立って、寄り添ってこその医者じゃないのかい?」と。
叱られて当然だ!!と、私も含めその場にいた誰もがそう思っただろう。
だが、院長には、その言葉は一切響かなかった。
響くはずもなかった。
なぜなら彼は、自己愛の塊だったのだから。
そんな彼の行動を、彼の自己を否定したら終わりだ。
院長は氷のように冷たい目で、相手を見下すように患者さんの傍らに立ち、
「そんなに不満なんですか…。それなら、他で入れ歯を作るなり、元の歯科へ戻られてはどうですか?」
と言い放ち、立ち去っていった。
患者さんはとても悲しい表情を浮かべ、新しい入れ歯を手に取り、口の中へそっと入れて、診療室を後にした。
お会計を済ますと、何も言わずに静かにクリニックを去って行った。
そしてその後、もう二度と来院されることはなかった…。
こんな風に親同然に叱ってくれるような存在の患者さんを、そしてクリニックのファンを一人失った瞬間を私は目にした。
その患者さんが帰った直後、院長は私たちスタッフにこんな衝撃的な言葉を吐いたのだ。
「(受付に)あいつ金払った?大丈夫なんだろうね?」と、お金の事を真っ先に確認し、
「あんなヤツ、最初からウチに来るなよってみんな思うだろ?俺の治療が気に食わないなら、とっとと他へ行けばいいんだよ!二度と来るな!!」
「あぁ、それと、あいつのカルテに予約取らないって書いといて!あんなヤツの治療、もう二度としたくないから。時間の無駄!」
と、不敵な笑みを浮かべ、相手を完全に馬鹿にしているような言い方でスタッフに告げた。
私だったら、自分の親の友人をこんな風に無下に扱うことは絶対にできないし、親の顔に泥を塗ることになるのは誰にだって容易に想像がつくことだと思う。
この「入れ歯事件」にて、院長の本性を垣間見た瞬間があった。
優しそうだと思い込んでいたから、私は余計にショックだった。
だが、普通では考えられない事が、このクリニックでは日常だった。
それでは、Case2へ続く…。