診療中 ユニット3 Case3 ~ 勤務医「朝井先生」の悲劇 ~
院長が朝井先生を引き摺って行った先には、一般診療を中心に行うチェアが4台程あり、そこには全て患者さんが入っておられた。
完全個室ではないので、半個室のチェアの後ろ側は動線になっていて繋がっている。
患者さんは身を乗り出せば後方にいるスタッフの様子を見る事も出来る。
そんな場所へ院長は何を考えたのか、動線になっている少し開けた場所へ朝井先生を引き摺って行った。
私が座っていた場所からはその先は死角になり見えなかったのだが、
「お前!!本当にセンスないなっ!」
「歯科医師なんて辞めちまえっ!!この馬鹿野郎がぁーーーっ!!!」
というけたたましい怒声の後に続いて、
「ボコッ!ドゴッ!ドォーーーン!!」
「ゴロゴロッ!ドンッ!」
と、物凄く鈍い音と何かが転がって壁にぶつかり、跳ね返ったような音がした。
後に6番の個室におられた患者さんやその光景を目撃したスタッフから聞いたのだが、院長が感情に任せてワークテーブルから基本セットを払い除け、6番の個室にて殴る蹴るの暴行を加えた後、廊下へと朝井先生を引き摺り出したそうだ。
そして、私が目撃した場面そのままの引き摺られた状態で、一般診療を行う半個室の動線まで連行された。
その後、少し開けた場所にて、再び殴る蹴るの暴行を受け、最後の右フックでふっとんだ朝井先生は転がりながら壁にぶつかったのだ。
騒々しい音が響き渡った後、その場は一瞬で静まり、クリニック内は静寂に包まれた。
その緊迫した状況に、みなフリーズした。
ほんの数秒ではあったが、誰もが息を呑み目を凝らし、耳を澄ませてその状況を把握しようとしていた。
それを打ち消すかのように、再び院長の怒声が響き渡った。
「いつまでもそこに寝てんなぁぁぁーーーっ!!!」
「俺の視界に二度と入るなっ!」
「この無能なクズめっ!」
と言い放つと、物凄い勢いで院長室へと向かい、思い切りドアを閉める音がした。
私は朝井先生の元へと急いだ。
現場に到着すると、彼は小さく呻き声を上げながら、床でうずくまり力なくスネを摩っていた。
私は瞬時に
「マズイッ!!」
と思い、近くにいた笠原さんに目配せした。
言葉を交わさずとも理解してくれた笠原さんは、患者さんの気を逸す為に患者さんの座っているチェアに近付き、
「ごめんなさいっ!驚きましたよね?」
「いつもの院長の愛の鉄拳制裁みたいでぇ…エへへッ!」
と話し掛けてくれた。
それに続いて他のスタッフも同じような事を患者さんと話し始め、各チェアからは苦笑いが起こり始めた。
徐々にではあるが、診療中の雑音・雑談が溢れる雰囲気に戻って行った。
私は笠原さんに向かい口パクで
「ありがとう!」
と言い、親指を立てる仕草をした。
そして、朝井先生を抱き起して、何とか抱えながら裏の作業スペースへと連れて行った。
とりあえず床に座らせ、
「大丈夫ですか?」
と声を掛けた。
全身が小刻みに震えていた。
まるで何かに怯える子犬のようだった。
今すぐにでも抱きしめてあげないといけないような姿だったが、逆セクハラになりかねないのでグッと堪えた。
本当に不憫だと思った。
私は項垂れる朝井先生の両頬を手で挟み包み込むようにしてそっと持ち上げ、その顔を覗き込んだ。
泣いていたようで、鼻水も垂れていた。
私にその姿を見られたくないのか、右に少しだけ顔を逸らした。
すると、左の口角から出血しているのを確認した。
かなりの量が出て来ており、どうやら院長から右ストレートをくらった際に歯がぶつかり、口腔内のどこかに裂傷があるようだった。
私は両手にすぐグローブをはめ、
「ごめんなさいね。ちょっと診せて下さい。」
「あーーーんです!」
と、いつもの癖で言うと、朝井先生は素直に口を開けてくれた。
診てみると左側下唇の口角付近には、上の犬歯がぶつかったのか幅8㎜程度の深めの裂傷が認められた。
さらにその奥の頬の内側にも小さな裂傷が見つかった。
私は止血する為にガーゼに止血剤を含ませると、その裂傷部に押し当てた。
よく見ると、左側の口角付近や頬には擦過傷が認められた。
一部は痛々しくも一皮剥けた状態だった。
恐らくは転がって壁に激突した際に出来た傷だったのだろう。
そこはオキシドールで消毒し、ついでに止血もした。
止血剤やガーゼなどは診療で使用する物なので、万が一院長に見つかれば怒られる可能性もあった。
だが、何よりも院長が仕出かした事なので「そんなの知ったことか!」という気持ちでいた。
私は歯科医師ではないので縫合は出来ないし、この止血方法が最善策であると考えたのだが、すぐには血は止まらなかった。
朝井先生の傍から離れず、ただただ止血を行う…それが私にできる精一杯の応急処置、介抱だった。
止血を試みてから数分経ち、出血は収まっていた。
左頬の擦過傷には絆創膏を貼った。
項垂れる朝井先生に
「もう大丈夫そうです。」
「痛みは取って差し上げる事は出来ませんが、絆創膏も貼りました。」
「もしかしたら痣や腫れが出てくるかもしれませんので、患者さんの前ではマスクを外さない方が宜しいかと存じます。」
「それと、体調に変化があったら、すぐ私に言って下さいね。」
「遠慮は一切いらないですし、どうしてもお辛い場合には帰られてもいいと私は思います。」
「病院へかかられるのもありかと…。」
「その時は私も一緒に院長の所へお願いに行きますから、心配なさらないで下さいね。」
とお伝えした。
すると、朝井先生は顔を上げ、口にガーゼが入ったままの状態で話し始めた。
「もふ、大丈夫でふ。」
「ありがとうございまふ!」
「僕は業務に戻れるんで、心配しないでくだはい。」
と、口腔内のガーゼの圧と痛みに耐えながら決心を口にした。
そして、ふらつきながらも立ち上がった。
私はその姿を見て
「偉いな…。」
と感心しつつ、朝井先生の肩をぽんっ!と叩いて、
「でしたら、私は朝井先生を応援しますので、行ってらっしゃい!」
「口腔内のガーゼは10分くらい経ったらもう出しても大丈夫かと思いますよ?」
「…って、朝井先生はDr.でしたねwww失礼致しました。」
と言い、お互いに少し笑みを浮かべながら、私は彼を送り出した。
朝井先生が何を仕出かしたのかは、その直後に判明した。
院長がブチギレながら言っていた事を要約すると…
①朝井先生がリムーバーにて仮歯を外す際に支台歯を傷付けた。
②そのことに朝井先生は全く気付いていなかった。= 隠したと思った。
③患者さんの前であるにも拘らず、俺に謝罪をする前に言い訳を始めた。
(④だから暴行を加えたw)
とのことだった。
それを聞き終え
「だからって、患者さんの目の前で殴らなくても…。暴力はいけないでしょ。」
「院長ご自身の品格を問われるし、患者さんからの評価も下がる事になるのに…どうして気付かないんだろう?」
と、私は思った。
院長は私に
「6番の患者さんは任せたから!」
「セットできないわけではないけど、秋山さんから説明しといてくれる?俺ヤダからさ。」
「今日セット希望なら、たぶん調整はほぼ必要ないから早めに報告して!」
と言い、早く行け!という感じで手を動かした。
私は
「ご自分で行きやがれ!です!」
と心の中で呟きながら、院長室から出た。
院長の文句を聞き終えた後、6番の個室に患者様を放置してしまったかもしれないと気付き、私は急いで個室へと向かった。
6番の個室へ入室すると、笠原さんがクリーニングを施してくれていた。
どうやら機転をきかせ、臨機応変に対応してくれていたようだ。
「さすが笠原さん!(泣)」
と、まるで後光が射しているかのような神様が降臨しておられるようなそんな光景に見えた。
私の入室に笠原さんが気付き大袈裟にウィンクした後、患者さんのチェアを起こし、洗口が完了してから、
「担当の歯科衛生士が参りましたので、私はこれにて失礼致します。これより先は秋山と交代致しますね。ありがとうございました。」
と丁寧に頭を下げて、私にバトンタッチして下さった。
私はジェスチャーでペコペコしながら手を合わせ、
「笠原さん、ありがとうございました。」
と伝え、交代した。
患者さんに謝罪と説明を行い、何とかご納得いただけたので、私は早速患者さんの口腔内を確認した。
支台歯を確認すると、支台歯の角に0.1~0.2㎜程度の小さなチッピングを確認した。
また、クラウンリムーバーという器具を使用し仮歯を外すのだが、その尖った先端が強く当たったような僅かな筋状の傷が見つかった。
恐らくは、緊張で力を入れ過ぎ、勢い余って支台歯を傷付けてしまったのだろう。
ただ、この程度の状態であれば、セット自体は当クリニックにおいては及第点と言える。
なぜなら、被せ物などの技工物が不適合な場合、技工物の内面や場合によっては支台歯を僅かに削り調整してからセットする場合もあるからだ。
技工物の作製作業の為に石膏模型の支台歯にはスペーサーという材料を塗布し、技工物との間に隙間や遊びと呼ばれる僅かな空間を設けるのだが、その程度の誤差が出ただけであれば許容範囲内なのだ。
型取り、石膏模型、補綴物作製時等、技工物の作製過程において、いずれかの時点で僅かなエラーが発生する場合もあるが、誤差の範囲内であればその場で微調整を行いセットする事は多々ある。
また、自慢するわけではないのだが、当クリニックにおいては自費を請け負って下さる技工士さんの腕も良く、型取りを行う印象材に関しても自費の場合は必ずシリコン印象材と呼ばれる精度の高い材料を使用している。
保険で使用する寒天印象材やアルジネート印象材と比べ、歪みなどが抑えられる上に、石膏も超硬石膏を使用していたので、エラーのあるような自費の技工物には滅多に出会うことはなかった。
基本的には、実際に装着して合いを確認する試適の段階で適合状態は確認でき、咬合(咬み合わせ)も問題なければ未調整で済んでしまうことも当クリニックにおいてはよくあった。
よって、総合的に考察しても、今回のケースの場合、セットに関しては大きな問題はないとも言える。
院長の口ぶりからすると、恐らくは適合も良く全く問題なかったのだろう。
だが、完璧主義者の院長からしてみれば、ご自分の治療&素晴らしい作品を傷物にされ、憤慨した気持ちを抑えきれずに殴る蹴るの暴行に至ったというわけだ。
気持ちは分からないでもないが、やはり暴力はいけないし、職人気質だとしても時代錯誤だと思った。
私も実際に技工物の適合を確認した。
カタカタと安定しない感じは全くなく、寧ろ試適したその技工物を外すのが困難なくらい適合状態は良好であった。
患者さんに十分な説明を行った後、患者さんからは
「秋山さんが確認してくれたんだから大丈夫でしょう。」
「僕は秋山さんを信じているからね♪(小声で)先生以上にねwww」
「しかし…朝井先生は災難だったな…。僕は心配いらないから、朝井先生に気を落とさないでって事とお大事にして下さいと伝えといてよ。」
と言っていただいた。
その旨を院長にお伝えし、その後技工物のセットを行い、何とかその治療は完了した。
だが、問題はそれからだった。
診療室内に暴行事件の目撃者がいた為、瞬く間に噂が広まったのだ。
そして、朝井先生の暴行を受けた顔は3日後くらいをピークにして腫れ上がり、それから2週間程度経った現在は痣だけが残っていた。
幾分かは良くなったものの、口元には赤黒い痣から黄色っぽい痣に変化した治りかけの状態が残っており、痛々しい状態だった。
当然治るまでには時間が掛かり、無責任にも院長は、
「朝井!お前、絶対に患者の前でマスクを外すなよ!!」
と言っていた。
殴られてから診療中はマスクを外した事などないのに、なぜか事あるごとに注意されていた。
大方、院長はご自分の失態を少しでも隠したかったのだろう。
こうして、ボロボロになりながらも朝井先生は耐えていた。
恐らくは、亡きお母様に立派になった姿を報告したかったのだろうと私は思った。
それを思うといたたまれない気持ちになった。
だが、そんな風にギリギリ限界まで張り詰めていた糸が、ついに切れてしまう瞬間が訪れた。
思い起こせば、その日の朝の彼の顔は、泣き腫らした感じを残しており、けれどどことなく目は窪み死んだ魚の目のようであったと思う。
…申し訳ない。
急遽院長に呼び出されてしまったので、記録はここまでにしたいと思う。
これにて本日の検診は終了とする。
この続きは、次回の診療にて語らせていただこうか。




