「男は決して悪魔ではない。ただし天使でもない」
——————————さて、女性だけの町で生まれ育った女性が男性に触れたら。
そんな疑問は、誰もが抱く物らしい。その事を素直に話したら、笑うでも泣くでもなくじっとため息を吐かれた。
「……そうか」
今私が暮らしている男とは、こんな関係になってもう三年になる。俳優にならんとしていた私を受け入れてくれた男ではなく、彼の身内でも元俳優仲間でもない。居酒屋の客で、私がエッセイストになる前からの常連だった。
その日人不足でやむなく配膳をしていた私に声をかけて来たのがこの男であり、言うまでもなく最初は怖かった。だが不思議なことに何度も来るたびにじょじょに会話できるようになり、男と言う存在に慣らされて行った。
「ご注文は…」
初めて出会ってからこんな風に積極的に声をかけるまで一年、プライベートに踏み込んだ話題に二年、同居するのに四年もかかってしまった。ついでに言えば俳優と言う道を完全に諦めてからは十三年、あの町を出てからは十五年になる。
もうそろそろ、こっちで過ごした時間の名が長くなるはずなのに。
「やっぱり、父親っていないのか?」
そんな質問をされたのは、同居を始めるほんの少し前。
父親と言う概念さえも全く分からないまま育った私にとって、その言葉は本当に新鮮で、同時にやはり怖かった。私がその質問に対して外に出てお金を稼いで来る人かなって答えられたのは、三日も後だった。自分がどれだけ恥ずかしい存在か、そんな事はもうわかっていたのに。
男は、自分の求める回答のために暴力を振るう。真実ではなく、自分の欲しい答えのために。そう聞かされて来た身からすれば、決して強引ではなく極めてゆっくりと話を進めてくる彼の存在はとても奇異だった。
「父親のいない子どもを馬鹿にする風潮は、残念だけど消える事はない。でもそれって、自分がそうなる事はないって思い込んでるって事で、とっても不幸な事だと思う。ああ意味が違ったね、ごめんごめん」
彼は過ちを認めすぐに謝ったつもりだったのだろうが、その時の私はその意味さえも分からなかった。
改めて恥ずかしい事に、私は生き物のオスと言うのを全く見ていない。生まれた時からずっと都市部のマンションで生まれ育ち、農業地区など小学校の時の遠足に一度行ったきりで内容など覚えていない。同級生の中にはその時雄鶏や牡牛を見て驚いた人間もいたらしいが、私の記憶には残っていない。人間と言うのは鶏や牛のように幼体の頃から第一次性徴と言う物があり、オスの個体にはオスの個体の証が付いている事をなんとなく知ったのはこの町に来て十日後の事であり、完全に知ったのはたった三年前だった。すでに三十歳近いと言うのにだ。
「よく言うんだよね、男はそれで女の尊厳を破壊するって。僕だって同じ物はある。怖いかい?」
まったく素直に聞いて来た事もある。私が怖いと言うと、男は深くうなずいた。決して回答を求める訳ではなく、あくまでもこちらの思うがままでいさせようとする。
「それならそれで一向に構わない。すぐさま僕を放り出しても別にいい。理由なんかあの人や出版社にでも頼めばいくらでも作れるよ」
別に怖いと思うならば怖いままで一向に構わない、それもまた個性に過ぎない。
その言葉は、正しく立派な人間の物だった。相手の個性を認め、困っている人間に救いの手を差し伸べる。それこそ、私が知っている理想の人間だった。
ましてやあの第三次大戦のせいで、男が女より暴力的であると言うのはあまりにも説得力のない話になった。もちろんこっちの世界にも相当なテロ事件はあったが、数千人単位の被害者をいっぺんに出すような事件はそれこそ大事件でしかなかった。
もちろん私を拾ってくれた男や同居人の彼だけでなく、他にもそれなりの数の男と接した。老人、中年、少年、いろんな男と。
言うまでもなく「少年」なんて言葉は私の町にはなく、その小さな男子はとても新鮮だった。時には少女に見えるような少年もいた。彼らはその多くが少女たちにように純粋で、少女たちより闊達で、時に少女たちとやや違う形で悪辣だった。
ある時、少年が別の少年を殴っているのを見た。私がついひっと悲鳴を上げた所少年は私の事をにらみ、そして知った事かとばかりすぐ別の少年の胸倉をつかんだ。
「そういう事しちゃダメでしょ」
「うるせえよおばさん」
私が注意しても聞こうとせず、他の多数の少年や少女たちも不安そうに二人を取り囲んでいた。
「お巡りさんが見てるから」
「お巡りさん関係ないだろ」
「あるわ、私、知ってるから。だって小学校の時……」
私は、彼らに私の体験を聞かせた。
あまり激しく人を殴ると、刑務所に入れられて手足を縛られ、薬で強引に眠らされると。ご飯も自分で食べられず、トイレにもまともに行けない。それを何ヶ月か繰り返されて二度とそんなことしないと反省するまで、牢屋から出してもらえないと。
実際小学校時代私の同級生だった彼女は同級生の鉛筆欲しさに七発も相手を殴りつけ、それからうらほしと言う名前を付けられ三ヶ月間も刑務所に入れられた。出所して来た後はすっかりやせたと言うかやつれてしまい、二度と暴力を振るう事はなくなったしみんな優しくしてくれるようになった—————。
その体験談を子どもたちに話し切ると、みんな顔が青くなった。胸倉をつかんでいたその子から嘘つけと言われたのでこっちではそうしないのと聞いた後はみんな腰が抜けたようになり、ものすごい勢いで謝り出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
ただお話をしただけなのになーと不思議に思っていた私が首を傾げた後はもう、どうにもならなかった。後でその少年の母親にどういう事かと問い詰められて同じような反応をしたらすぐさまため息を吐かれて帰ったのはなぜなのか、その理由を先輩の店員さんから聞かされて知ったのはその事件から三日後の事だった。




