くちりこ事件(性的描写注意)
今回は前回以上にダイレクトです。
「ごめん、なさい……」
草むらにて我慢の限界を解放してしまった少女をまるでケダモノにでも襲われたかのように探し回った達子の涙は、まだ止まらなかった。
「私怖かったの、この前のロリコン、いやくちりこ誘拐事件」
「くちりこ……?」
「あああの、南の都市部であった事件。でもそれって半年も前の事でしょ」
「私はあの時、この町ではそんな事件は起きないと思っていました、まさかあんな恐ろしい事が起きるだなんて…!」
この町でも誘拐略取事件は起きている。そのほとんどが身代金目的だが、中にはそうでない場合もあった。
大半は誘拐殺人だが、まれにあったのが他人の子どもをうらやみそのまま自分のそれとして育てようとしたと言うパターンだった。
だが、達子の心を揺るがした誘拐事件の犯人は、そのどれでもなかった。
「その少女を裸にして体中を揉ませるだなんて、どうしてそんな人間がいるのか…………」
新聞やテレビのトップニュースになったとは言え小学生に聞かせる内容でもなかったが、震える達子の唇は止まらない。
今でも解放された少女はPTSDに陥りまともに登下校もできず、中学生なのに夜尿を始め幼児退行がひどく将来の管制塔職員候補として育てて来たはずの親たちを日々嘆かせてしまっている。
「私は、あのくちりこのような人間に対する罰則をより重くする事も考えております……」
犯人はくちりこと言う名前を付けられ牢屋に入っているが、刑期はわずか八年だった。女性特有の症状に対しては警察が管理し「自己逮捕」と言うルールまで作ったのに、そのルールを破った人間への処罰としては軽すぎた。
これは元より女性同士ではそのような事は起きないだろうと言う創始者たちの高潔さから来るある種の油断と自己逮捕の有効性からその点が見落とされており、法定刑の最高が八年だった事に起因する。また誘拐や監禁で取ってもむしろこれより軽くなるばかりであり、とても被害者家族にとって納得のいく刑罰ではなかった。
「おばさん……」
「今度、からね、間に合わないと思ったら近所の人に恥ずかしがらずに、ね……?」
「うん……っていいの?」
「いいの」
達子は湿ったハンカチを少女に渡す。そのハンカチの行く先がどこかわかっているのに、渡す。
実を言えば、こんな事態に達子が出くわしたのは初めてではない。どうしても農漁業地区と言うのは性的におおらかになってしまうのは人類の宿痾であり、多産であると同時にその点でも奔放だった。もっともその時は還暦を通り越した古希の女性がしていたのである意味平和で自由な光景だと穏やかな気持ちで居られたが、この時ばかりはダメだった。
「こわいよ、おばさん、こわいよ……もう、二度と、こんな事、しないから……」
「ごめんね、私もまだ外の世界の癖が抜けてなくて……あ、ああ……!」
誰より真剣に泣く達子を前にして、集まった人間たちは何も言えない。
「相当、傷ついて来たんだね……」
七年経ってもまだぶり返す程度には重たい傷。
いつ何時破裂するかわからないもろくて弱々しい姿。
五十二歳と言うより八十二歳のような背筋。
そして、誰よりもこの町の人を心配している。
達子が真っ先に声をかけた女性とようやく立ち上がった少女に慰められる程度には、今の黄川田達子は弱っていた。
そして空気が落ち着いた事を悟った女性たちは二手に分かれ、片方は少女を、もう片方は達子をそれぞれの家まで送った。
「達子さん……」
「すみ、ません、本当に取り乱してしまって……大変ご迷惑をおかけいたしまして……!」
肩を抱えられながら歩く達子の目が、かつての配偶者に対して転職を思いとどまる時にしたそれとあまり違わない事を、この場にいる誰も知らない。
その時の彼女は、夫が間違った道を歩むことを恐れていた。夫の進むべき道を作るだろう会社が真っ当な道をたどり、社会のために尽くしてくれる企業である事を願った時の目。
彼女自身、ここに来てからの元夫の動向を知らない訳でもない。
今ではその夫は専務を通り越して代表取締役社長にまでなり、あんな商品を世界中に売りさばこうとしている。性的搾取の権化のような厚みのない物体に皆が群がり、貴重な時間と金銭を注ぎ込もうとしている。
(男と女は共存して来た。でもあまりにも増長した男に対し、女はその度に制裁を加えて来たつもりだった。でもまた、裏切られた。その絶望が、この町にはあるはず……)
絶望ゆえに作られたはずの町に生まれて生きる住民たちに、悲しみは少ない。
農漁業地区もそうだが、都会も工場もみな笑顔が絶えない。
それが、今の黄川田達子を取り巻く環境だった。




