追い詰められて
才川奈美恵にとって、池田仁美と言う名前は禁忌に近かった。
それこそ、宿敵。いや、仇敵。
彼女の両親は片や建築会社の現場監督、片や管制塔勤務。文字通りの富裕層であり、それ以上に成績が問題だった。
そう、彼女こそこの四年間ずっと奈美恵を二番手に貶めていた存在だった。
「おはようございます」
仁美は美少女ではない。顔の程度で比べれば、奈美恵の方が勝っていたかもしれない。だが彼女は常日頃から三原則を欠かさず守り、奈美恵にも積極的に声をかけた。生返事をすると心証が悪くなるので目一杯気を入れていたが、それでも隙のない仁美が嫌いで嫌いでしょうがなかった。
(何よ!あの上から目線!)
さらに言えば、仁美は長身ではないし体育の成績も良くない。有り体に言えば中肉中背の優等生であり、良くも悪くもいい子ちゃんでしかなかった。だがその素質は会社の内部で働く駒としては大変重要なそれであり、このまま行けばエリートコースは確定かもしれない。そんな奴の鼻っ柱をへし折るために、奈美恵は目を光らせている。
「昔この町は、私たち女性を食い物にする男性から逃げるためにこの町を作ったのです」
社会科の授業だ。四年生ともなると、町の成り立ちを覚え、知らねばならなくなる。なぜこの町ができたのかと言う教育は一年生の段階から行われていたが、詳しい歴史に踏み込んで来るのは四年生からである。もっとも公立校では五年生からであり、この私学では少し早かった。
「かつて男たちは皆さんを始めとした幼き子供たちを手込めにし尊厳を奪い、さらに女性だからと言って地位を与えないような真似をして来たのです。その恐怖に対し、女性たちは必死に立ち向かいました。しかし男たちはその言葉に耳を貸さなかったのです」
若き教師は心を籠めながら教科書を読む。児童たちに真実を伝えるために、力を込めて読む。その言葉を奈美恵は必死に聞き取り、ノートに書き写す。とにかく一言一句を吸収し、一分一秒を惜しむまいとする。
そんな風に授業を受けているから、一時間が終わるだけでひどく奈美恵は疲れる。その結果休み時間はほぼトイレに行くかぐったりしているかのどちらかで、どっちでもない時は教科書をじっと読んでいる。小柄な奈美恵が机にへばりついているとほとんど一体化しており、教室内の日常風景になっていた。
「でもさ、才川さんって」
「もう十分頭いいのに」
その最中にも、奈美恵に対する批評が振って来る。いや、人はみな生きているだけで誰かの批評の対象であり、批評家にもなれる。無論素人の批評は素人の批評でしかないが、それでも距離と数からして重みはあるし、素人の奈美恵には批評を正確に把握する能力もない。
要するに「もう十分頭いいのにさらに上を目指してえらいね」と「もう十分頭いいのにまだやるの……」の区別を付けられるほどまでには頭が良くないし、さらに「もう十分頭いいのにさらに上を目指してえらいね」とわかった上でそれが素直な称賛か皮肉かもわからない。
もっとも、地頭が良かったとしても今の彼女には、そんな思いを巡らす余裕など微塵もなかった。今の彼女の頭にあるのは詰まる所雑音を流すのをやめてくれでしかなく、目の前の敵だけが重要だった。
そんな彼女に声をかけるのは、なかなかに勇気が要る。いくら仲間外れはダメとか言われた所で、常に敵を求めているような彼女は下手に触れれば怪我をする地雷のような存在になっていた。若い教師だけは声をかけるが、むしろそれが孤立の度を増している。彼女はクラスを持ったのが初めてと言う若い教師であり、昔から教師と言う仕事に憧れていた夢の体現者だった。そんな教師と奈美恵の相性は良かったが、それが余計に奈美恵と他の児童たちとの距離を広げていた。
「才川さん」
そんな彼女に声をかけるのは、担任を除けばひとりだけだった。だがその一人こと池田仁美の存在ほど、奈美恵の神経を逆なでする物はない。
何だと言うのだ、余裕ぶって。
「ああ池田さん、ちょっとスカートのたけずれてない?」
「ごめんなさい、直します」
まったく見もしないでいじわるな事を言ってやったが、仁美が動揺する事はまったくない。素直にその言葉を聞き入れ、真摯にまったくずれてもいない制服を直す。その結果首尾よく離れてくれたが、それでもすぐに奈美恵の心は冷たく燃える。
—————何なのよ。自分が優秀だって示したいの?こんな誰にも声をかけられないような女を相手にして、仲間外れは絶対ダメってルールを守ってる私カッコイイって言いたいわけ?
奈美恵は親にも、この感情を幾度もぶつけて来た。
とにかく、仁美と言う存在が憎たらしい。
なんとかして泣かしてやりたい、傷つけてやりたい。
参ったと言わせたい。
その度にそんな男性的な本能に駆られてはいけない、あくまでも自分が上がるために頑張るのが正しいやり方だと母親たちは言い聞かせてきたが、その分だけ彼女は勉強と言う名の合法的喧嘩に力を注ぐようになり、その敗北の打撃が幼心をむしばんでいた。
「ねえ……池田さん……」
そして、自分の放った一撃にまったく動揺しなかった敵の振る舞いに、ついに才川奈美恵の心が破裂した。
「はい?」
奈美恵なりの宣戦布告に対しまったく素直な返事をした相手に対し、奈美恵はゆっくりと椅子から下りた。
「あなた……私の事、嫌いなの?」
「どうして?」
「じゃあ……」
「仲良くしよう、これからもずっと」
「なんで毎回一番を取っちゃうのよ!」
教室中どころか校内に響き渡るほどの声。
本当ならたった一人に聞かせたいはずの声が四方八方に広がり、二十四どころではない瞳をかき集める。
「どんなに頑張っても、頑張っても!私はいっつも二番!それなのに池田さんは毎回毎回普通にやってるだけなのに私より上!なんで、どうして!何とか言って!」
「それはたまたま」
「たまたまがどうして何度も続くの!そうやって私の事見下してるんでしょ、背も勝ってるからって!そんな大きな制服着ちゃって!」
「……」
「何黙ってるの!私の言葉なんか聞く意味もないっての!こーたーえーなーさーい!!」
両手の拳を握り、眼球からは液体をこぼしまくる。
そんな存在を前にして、池田仁美と言う存在はこれ以上何も言えなさそうに虚空を見つめる事しかできなかった。
「何よ、そんなに澄ました顔しちゃって!あーわかったわかった!私をバカだって思ってるんでしょ!次こそは絶対に勝ってやるんだから!」
そしてぬかに釘である事を悟った才川奈美恵が机に伏して湿度を上げるまで、誰も何もできなかった。