出産の意味
話を戻そう。
「出産」を決めてから一か月後、薫と静香は意を新たにした顔をして産婦人科へと向かった。
この前と違い薫は生の自分で行くぞとTシャツジーンズであり、静香もスーツではなくゆったりとしたワンピースを着ていた。
「お待ちしておりました」
薫を少し嫌そうな顔で睨む受付の女性であったが、産婦人科にドレスコードなどない。産婦人科医である以上病院であり、一刻一秒を争うような患者が来てもおかしくはないのだ。それでも産婦人科は他の病院とは違うという特権階級意識を持つ存在がいなかった訳でもないが、アポイントメントを取ったお客様であり招かない訳には行かない。
「お名前の方は既にお決まりで」
「ええ、薫子と名付ける事にしました」
「そうですかではしばらくお待ちください」
静香は素直に答えたが、実は別に名前を聞かれる理由はない。赤子の名前を決めるタイミングはかなり自由であり、一週間以内に産婦人科医に出せば良い。もちろん出産を決める前にあらかじめ申請する婦婦もいたが、別に「出産日」のタイミングで名前を決める婦婦は全く珍しくない。
そんなまったく珍しくない婦婦に対しほんのわずか早口になってしまった受付の女性はバランスを崩して倒れそうになり、荒い呼吸を病院内に吐き出した。ここから徒歩十五分の所にある総合病院の患者のようになってしまった受付の女性に声をかけようとした薫だったが、女性は余計に恥ずかしくなったのか背筋を強引に伸ばしていた。それが、薫の知る産婦人科に関する噂について説得力を持たせていた。
—————曰く、産婦人科の職員は産婦人科医志望者たちのなれの果てだと。
給料袋はなれの果てと言う言葉ほど軽くないし世間的に言って勝ち組だったが、正直な話モテない。生涯独身は多くないとしても婦婦の相手は生活力のない女性が多く、そうでないとしても同業者しかいない。薫と静香が知り合ったのはたまたま同じ居酒屋で行われた飲み会であり、産婦人科医や職員たちが立ち入らないような店だった。
もう少し笑顔ぐらい見せてくれてもいいのにとか言う不満を抑え込みながら今度は前回と逆側の椅子に座り、じっと順番を待つ。二人とも別に客商売ではないが、その二人からしてもどうにもぎこちないほどのコミュニケーション能力の低さと言うか、メンタルのもろさが際立っていた。機械的と言うより、大時代的。少しでもマニュアルから外れるとたちまち不安に駆られるような不安定さ。
子どもを作るにはそこまで徹底しなければいけないのだろう。だがそれが叶わず挫折した人間の中で、一体何人がこの役職を得られるのか。実際薫には産婦人科医にも産婦人科職員にもなれなかった同僚がいたが、彼女はかなり真面目に仕事をこなしていた。誰よりも仕事熱心で、誰よりも早く来て遅く上がろうとした。しかし決して自分たちの輪に混ざろうとせず、仕事が終わるといつも一人で帰宅した。残業はしても楽しもうとせず、家と職場以外で会う事は未だにない。技術や知力、体力もさることながら誘惑に屈しない精神力を鍛えて来た、それが彼女たち。当然就活でも武器となったが、同時に諸刃の剣にもなった。
そんなコミュ障集団の正確なだけが取り柄の処置により、二人は正しい順番で呼ばれる。前回は幾度も曲がった道をまっすぐに進み、虹の描かれた部屋へと入る。ちなみにこの道は天使の道と呼ばれているが、誰もその名では呼ばない。
「病める時も健やかなる時も。富める時も貧しき時も、子を守り育て慈しみ、他者への恨み憎しみ妬みを抱かず、抱いたとしてもしまい込み封じる人間に育てる事を誓いますか?」
ドアを開けた先にて、挙式で述べたのと近似した文句を唱える産婦人科医に対し、二人は深々と頭を下げた。
そして産婦人科医はスイッチを押し、二人の子を見せた。
透明なカプセルの中に入った、ひとりの赤ん坊。
オムツを履き、ベビー靴と靴下を履き、タオルの上で眠る赤ん坊。
「名前は考えていますか」
「薫子です」
「では二人とも、薫子さんを頼みますよ」
ようやく笑顔になった産婦人科医の手により、カプセルが開けられる。
そして静香は、薫子を細腕で抱きかかえた。
その顔はこの世で最も幸せな人間のそれであり、静香と薫は今世界で一番美しい生き物だった。
その美しい二人には、数多の道具が渡された。オムツ、哺乳瓶、おしりふき、あとはベビーベッドなどなどが町から家に贈られる。
そして。
「恵みの薬か」
後は、恵みの薬。いわゆる母乳を出す薬である。この時のため以外に必要のない、だがこの時には最大限に必要とされるそれを引き出すための薬。もちろんそれとは別に粉ミルクを買う女性もいるが、それでも一定の時期までは母乳による育児が推奨される。
「ねえ薫、この薫子にどんな子になって欲しいと思う?」
「そりゃさ、決して相手をねたんだりしないで仲間外れにしない子だよ」
そして母乳のような栄養的な事とは違う、理論的な育児の方針の基本。
それは、決して人の子に嫉妬してはいけない。そして、他人を仲間外れにしてはいけない。
—————その嫉妬と仲間外れ。それこそが真に憎むべき連中の下衆の勘繰りであり、それを否定する事。
この町の大義、と言うか真の敵が誰かと言う事は、平凡な婦婦である薫と静香にもわかっていた。
そしてこれからは自分たちも、他の婦婦の子どもとの嫉妬に溺れてはならない。
「これからもよろしくお願いします!」
二人は右手を握り合い、激しく振った。