枕を濡らす女
ただ一言の「ああうるせえ」と言う言葉と、ほんの数滴の唾液。
それだけで傷つくほどには、人間は弱い。
「民権党ですか?女性党ですか?」
「わかりません…」
「許せませんね」
電話を切った黄川田達子はそう吐き捨てた。
「民権党は町の拡大を怠り、女性党は外部との接触が甘い。ゆえに、我々は正道党を興したのです」
達子が民権党からも女性党からも出馬しなかったのは、両党の政策に不満があったからだ。
有権者が政党に不満がある場合、選択肢は三通りしかない。より自分の望む世界に近い方を選ぶか、どっちもダメだと投票しないか、さもなくば自分で自分の考える理想の世界を作るべく立候補するかだった。
「根拠なき批判など耳を貸すに値しません。しかしそういう政治的意識の低い人間たちの集まりこそ、第一次大戦における最大の敵でした。創始者たちの訴えた窮状に対し、彼らが寄越したのは常に形ある非難ではなく、空っぽの嘲笑でした。
そして先人たちは、怒りに駆られその空っぽの嘲笑に力を与えてしまったのです」
女性たちの心を著しくさいなむ、ありとあらゆる存在に対しての抵抗運動。
そのために幾度も活動を行い、そして跳ね返されてきた。その際に民主主義のルールを持って対抗しようとして幾度も失敗し、その失敗を経ていくばくかの失望とそれ以上の夢を持って創始者たちは女性だけの町を作ろうとした。その際に反対していた人間たちは素直か意地悪かわからないが制止を求め、無関心な人間たちはずっと無関心なままだった。
残念ながらとでも言うべきかその排除対象物への需要が絶える事はなく、その分の供給をどうするかと言う問題を先人たちは解決できなかった。その需要を打ち消すほどのそれを他の形で供給する事が出来ないと言う現実の前に、女性たちは何度もくじけそうになった。無関心な人間たちは急な変化を恐れ、現状維持を選んだ。
それでも一時はあと一歩まで来ていたが、その過程でそのシロモノの作者に物理的に危害を加えた一件が仇となり運動は一気に挫折。無関心層がいっきにアンチに傾いてしまい、夢は夢のままで終わってしまった。
「それ故に先人たちは積極的な戦いをやめ、この形で戦う事にしたのです。自分たちがいかに優れているか、退廃的なシロモノに頼らずとも生きて行けるし発展させる事ができると」
「その思想はこの町に息づいているはずじゃないんですか」
「あなたの言う通りです。私たちが、改めて目覚めさせねばならないのです。
五大政策を七大政策にすべきです」
「七大」
「そう、歴史教育の強化。管制塔職員の待遇改善と合わせて、ね。徹底的に歴史を覚えさせ、世界中に楽園を増やす」
原点回帰。志と誇りを取り戻し、あるべき姿に戻す。
そのためには、五大政策を七大政策に変える事もいとわない。
果断即決だった。
「でもできるんですか、財源は五大政策で」
「もちろんすぐには無理だけど、いずれは成し遂げるつもりよ」
そんな今達子が思いついただけの政策を立案化する時間はもちろんないが、それでもさらなる志の柱としてはかなり力がある。今回の選挙で正道党が飛躍し五大政策の実現が現実化した後求心力を失うようでは、すぐまた民権党や女性党に政権を奪われる、それでは元の木阿弥だ。
「そのためにはこの選挙、まずは勝つしかないわ!文字通りのラストスパート、行ける?」
「行きます!」
二人っきりの共闘宣言。他に誰もいない貴重な時間での宣言。
置き去りにされた弁当箱が音を鳴らすと二人はゆっくりとその中身を口に運び、料理の味をかみしめる。
米も肉も魚も野菜も、何もかもこの町の産物。
男に頼らずとも、これほどの物ができる。
英雄と女性の味が、二人の口を支配した。
「黄川田達子!黄川田達子でございます!皆様の手で、この町を!世界の中心に!どうか皆様、黄川田達子にお力をお貸しください!」
「明日いよいよすべてが決まります!黄川田達子の五大政策をもって、この町を変えます!どうか皆様の清き一票を!」
「皆様のお力を!この黄川田達子と正道党にお貸しください!町長選には黄川田達子、町議選には正道党をどうかよろしくお願いいたします!」
達子と拓海の演説が轟く。あと数時間のラストスパート。民権党も女性党もいない中、正道党の選挙カーは町中を走る。この二週間でタイヤはすり減り、車体もそれなりに傷ついている。別に新車でもなかったがそれなりに愛着のある同志。
その同志にも報いるべく、予定のコースをオーバーしても回る。
時間の許す限り、叫ぶ。
だが反応はない。
構わず、叫ぶ。
「どうか、正道党に一票を!」
達子も、拓海も、その仲間たちも、その時まで支持を訴えた。
町中に、正道党の名前を、叩き込んだ。
そして、午後八時。
全てを終えた立候補者たちは、それぞれの場所へと戻った。
後はすべて、有権者様に委ねるのみ。もちろん当日も自分で投票すると言う仕事が残っているが、それでも被選挙人としての仕事は終わった。
議員となるか町長となるか、はたまたただの人になるか。
背中だけとは言わず四方八方から視線を受けながら、それぞれ体を休める。二十四時間後の午後八時に笑うべく、あるいは泣くべく。
いや、既に泣いている女性もいた。
自分の思いが伝わらない事を嘆き、悲しむ存在が。
彼女は毒島家のクッキーと言う本を抱きかかえながら、涙を枕に吸わせ続ける。
作中にて最後、寵愛して来たはずの娘に縁を切られ細々と泣く女性のように……。