罰と師匠の話
師匠は帰宅途中は私の話を聞くばかりで、自分の話を全くしてくれなかった。師匠の離れでなら教えてくれるとのことで、私は早く家に着きたいと願っていた。そしてとうとう家に着いた時、私は半年前の日常をようやく思い出したのである。
「ぼうっとするな!」
がくん、と視界が揺れる。そのまま地面に顔から突っ込んで、うつ伏せになってしまう。
(いけない、早く、元に戻らないと)
「誰が寝てもいいと言った!」
空気を切る重い音が聞こえる。背中に強い衝撃があり、今度は前方にそれを逃すこともできずに全身が痺れた。
「すみま、せん。すぐに」
軋む身体を動かして正座に戻ろうとするが、途中でもう一度背を打たれて地面に伏せてしまい、上手くできない自分に腹が立つ。
「お前は役に立たないどころか、厄介ごとばかり呼び寄せて!」
今度は倒れないように膝の上に置いた手から肩まで力を込める。
どうやら、慶透と朋泉になってしまったこと、麗家から呼び出しがかかったことが厄介であったらしい。
普通は五家の子息は同等の人と朋泉になるし、泉弟の子、それも入門していな家の子が招待の手紙を送るはずがない。話を持ち掛けた日に手紙が届いているのは流石五家としかいいようがない。
「申し訳ありません!」
「お前は謝るが、口だけだ!」
父は持っていた泉器を放し、私の髪を掴んで顔を引き上げた。
「忌々しい!この髪も、手入れをする費用が嵩むだけだ」
手近にあった鋏を持ち、私の髪に近づけた。
(それだけは、駄目だ!大して長くもないのに髪を切るなんて、泉族としてあり得ない!)
以前は人前に出ず、言い訳も作れたからよかったが、これでまた短くして学校に行ったら、なんと説明すればいいかわからない。
「おやめください!父う――」
「その言葉を使うな!」
彼は手に鋏を持ったまま、私の頬を打った。流れる泉力と、切れた箇所がびりびりと痺れる。
「申し訳ありません!当主!」
髪が掴まれたままで、勢いで倒れることもできない。
「まただ!言葉が何の意味を持つ!」
彼は掴んでいた髪を引っ張って、今度は私の顔面を地面にたたきつけた。鼻の下の皮膚がぬるりとした気がして、鼻血が出たのかも知れないと思う。
その時、戸が開いた。
「あなた、もうよいでしょう。手が疲れますよ」
見上げれば、美しい女性が立っている。雪のように白い肌、柳のような眉に、大きく潤んだ瞳、赤く色づいた艶やかな唇。
(母上……)
「後は私が片付けておきますから」
「だが……」
「鼻血が出ています。これ以上は床が汚れてしまいます」
「そうだな」
父は鋏だけを元の場所に戻すと、母の横を通って出て行った。
母は父を見送ってから中に入り、放置された鞭の泉器を戻した。それからまだ倒れ込んでいる私に近づき、
「きちんと座りなさい」
と言った。
肘をつきながら起き上がろうとすると、ぽたり、と鼻から血が落ちる。
「あ」
思わず舌を出すと、首後ろの衿を引かれた。ぐっと体が起きたので、そのまま正座をした。
「母上、血が――」
「私がします。余計な動きをしないで」
大人しく口を噤むと、彼女は懐から黒い布を取り出して、私の鼻の下を拭った。布がそのまま鼻の下で血を受け止めていると、鼻血が止まり、しばらくしたところで彼女は手を離した。反対の面で床の血も拭うと、別の黒い布に包んでまた懐にしまう。
「日が昇るまでそうしてなさい」
これはお決まりの流れだった。罰を受けた後は正座して飲食もせず、じっと朝を待つのだ。夏はまだいいが、もう日は短い、つまり日の出が遅く、夜が寒い。
(いつかのように気を失っては大変だ)
「返事は?」
「はい」
慌てて声を出すと、母は頷いて、自分の羽織を脱ぎ、座ったままの私に掛けてくれた。
「汚れたので、お前にあげます。きちんと反省するのですよ」
そう言って母は出て行った。
いつからか、母は少し優しくなった。まだ小さい頃は父よりも母の方が私に厳しかった。それでも、今こうして気遣ってくれることがたまらなく嬉しい。
(母上が物をくださったということは、師匠が迎えに来てくれるのか)
それでも姿勢を崩すわけにはいかない。むしろ、母の気遣いに報いるためにもきっちりと罰を受けなければならない。
*
翌朝、予想通り師匠が私を迎えに来てくれた。
「妖、すまない、遅くなった!」
ちょうど朝日が昇り始めた頃で、何なら一番早いくらいなのに。
師匠は私を見るなり顔を歪めた。
「また、酷い傷だ……」
師匠は一度羽織を取ると、下着の袖に腕を通してくれた。罰を受ける時は衣が破れる上に汚れてしまうので、袖を抜いておくのだ。
「ようやく、治り始めていたのに」
泉師学校に入学する前は、少なくとも三日に一度はこの場所に来た。たいていは目隠しをされるのだが、ごく稀に顔を見ることができたので、そういう日はどんなに厳しい罰にも耐えることができたのである。
「妖、聞こえているかい?――ああ、いい、無理に話さなくていい。もう眠りなさい」
師匠の声がどんどん遠くなり、最終的には視界が真っ暗になった。
次に目を開けた時には師匠の離れだった。
「師匠……」
「ああ、起きたかい」
陽の光具合と鼻腔をくすぐるいい匂いで昼くらいだと判断する。
寝起きは悪い方ではないので、直ぐに寝かせてもらっていた布団を畳み、押し入れに入れる。泉師学校とそう変わらない質素な布団はこの部屋に二組ある。
「さあ、昼にしよう」
師匠は温めていた鍋の中身を椀によそって渡してくれた。温かい。
「手当はしておいたけれど、まだ痛むかい?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
実は痛みはあまり感じないのだ。ある時を境に、痛い、と感じることが少なくなった。ただ刺激は受け取っているから感覚は鈍っていないし、痛みとして感じているから咄嗟に「痛い」と口にすることはできる。けれど、そこまで痛くなくなってしまったのだ。
「そうか」
「師匠、そんなことより、話してくださいますよね?」
家に帰るなり父に連行されてしまって、師匠の話を聞けていないままなのだ。
師匠は苦しそうに眉を寄せてから、諦めたように微笑んだ。
「そう、だね。
さて、何から話そうか。君は何を知りたい?」
「うーん、と。師匠は以前は銀家の本家の人間だったんですよね?」
「そうだよ。今の銀家当主代理、銀杏叡の弟だね」
「名前は、杏澪」
「うん」
「師匠は、どうして私の師匠になってくれたのですか?いつから雪家にいらっしゃるのです?」
師匠は一度考えてから、口を開いた。
「まず、いつから、については私自身正確には思い出せない。君が生まれて一年は経っていたかな?
用があって雪家を訪れた時にね、君を一目見てとても愛らしい子だと思ったんだ。それなりの家だからどこの家に師事するのか訊ねてみたら決まっていないと言う。今は違うけれど、雪家は銀家の門派だったから、私が師になろうと言ったんだ」
「師匠は、私が女だったのに、変だとは思わなかったんですか?」
「赤子は男女の区別がつきにくいんだ。女の子と言われて驚いたよ。私は確かに、君から泉力を感じた。普通は男からしか感知できないはずのね。
その時に、君の特異性についても話してもらって、余計に師となりたいと思ったんだよ」
女で泉力が使えるとなれば、珍しさはあったのかもしれない。
「どうして家に残らなかったのですか?」
「色々理由はあるけれど、元々はある人を追って家を出たんだ。それで、その人は結局見つからなかったんだけれど、君に会えたから、それでよくなったんだ。
それに、君から目を離せばどうなるかわからなかったからね」
師匠は私の気持ちを汲んで口に出して非難しないが、両親に関しては悪い印象しか持っていない。幼かった頃の私は、あの罰に耐えきれず死んでしまっていただろうから、師匠がここに留まってくれて命拾いした。けれど、それでいいのだろうか?
「妖が責任を感じる必要はないよ。元々、私は旅に出たかったんだ。家を継ぐ予定もなかったし、君が立派に泉族として認められれば、一緒に旅をしてくれるだろう?仲間も見つけられて良かったと思ってるんだよ」
無事に泉師学校を卒業すれば、私は師匠と任務をこなしながら旅をするのだ。
「もし本当にそうなら、嬉しいです」
「本当だよ。私は私の意志でここにいるんだから、妖は銀家に負い目を感じなくていい。むしろ、君によって銀家はまた私と繋がりができたのだから、感謝しているくらいだと思うよ」
おそらく、全てを話してくれてはいなのだろうが、やっと師匠のことを知れた気がして、私は嬉しくなった。
「今後も師匠は雪家に留まるのですか?」
「そうだね。泉師学校から帰ってくる君を、こうして迎えたい気持ちもあるし、あと一年半後にはどうせ旅に出るだろう?」
「そうですね……。
私、師匠と旅に出るのが本当に楽しみなのです」
修行で雪家の持つ山に向かうことはあったが、基本的には家の敷地内での生活だった。外の広い世界を見るのはきっと楽しいだろうと思う。
「ちゃんと卒業できるように、頑張ります」
「うん、応援しているよ」
師匠は卒業が楽しみだね、とまだまだ先のことを言って笑った。
続きます。




