烏鷺の争い
真四角の盤を挟んで、正座する。対局前の、ぴんと張りつめた空気感。それから、ほんのりと漂う畳の匂い。僕は、この瞬間が堪らなく好きだ。
「お願いします」
「お願いします」
互いに目を合わせ、礼をする。おじいちゃんは碁笥から白石を取り出すと、綺麗に伸びた2本の指に挟む。
黒石4つを置いた状態から始める、四子局。おじいちゃんは僕より強いが、はじめのハンデを守りきれば僕の勝ちだ。
パシリと響く、一着目。右上隅、小ゲイマガカリ。
早く打ちたい気持ちを抑えて一呼吸置き、僕も石を取り出した。黒石の吸い付くような冷たさを味わいながら、同じように音を鳴らして、二手目を着手する。
おじいちゃんは、左上隅も同じようにケイマにかかってから、上辺星に構えた。俗に言う富士山型だ。
「中学の囲碁部は、どうだ? 入部してみた感想は」
おじいちゃんと碁を打つときは、だいたい世間話をしながら打つ。ほんとはマナー違反なんだけどね。
「どうもこうも、ね。こないだなんて、あいつら五目並べやってたよ」
思い出しただけでも腹が立ってきて、石を打つ手に力がこもる。
左下は二間高バサミから両ガカリの進行。この定石は形が綺麗だから、結構気に入ってる。
「目の前に碁盤と碁石があるのに、五目並べやってるんだよ。むかついたから、お前らいつまでそんな下らないゲームやってるんだよって言ってやったんだ。そしたらあいつら、怒って帰っちゃった」
「そんなことがあったのか」
おじいちゃんは目を合わせ、頷きながら話を聞いてくれる。
「五目並べは、下らないと思うのか?」
「そりゃあね。囲碁の方が面白いよ」
苛立ちをぶつけるように、打ち込んできた白をコスミツケから攻め立てる。ざまあ見ろ。
「五目並べなんて、単純すぎてつまらない」
「なるほど。じゃあ、囲碁はどんなところが面白い?」
おじいちゃんは馬の顔を作りながら僕に尋ねる。あ、「馬の顔」って言うのは、囲碁用語。おじいちゃんの顔のことじゃない。おじいちゃんの顔はどちらかといえば山羊に近い。
「相手が何を考えてるか分からないと打てないとこ。あと、今は強く出られるとか、今は下手に出ようとか、周りの形勢も見ながら打たないといけないとこ」
おじいちゃんが三々に打ち込んできた。周りをみると、圧倒的に黒の勢力圏だ。こういうときは、毅然と応じなければいけない。いくらハンデがあるとは言え、妥協してばかりで勝てるほど、甘くはない。
おじいちゃんみたいに、しっかり指を伸ばして、パシリ、と感触を確かめるように石を置く。
「良く分かってるな。お前の言うとおり、碁は優れたゲームだ。けどだからって、他が劣っているわけじゃない」
隅の白はあっさりと生きてしまうが、それは計算通り。代わりに弱くなった右辺の白を攻めにいく。あえて一部で損をして、他所でもっと大きな得を回収するのが囲碁の醍醐味。その楽しみが、五目並べとの、一番の差。囲碁が勝っていると断言する所以だ。
「碁石も碁盤も、囲碁のためにあるんだ。五目並べなんて、邪道だ」
「正道も邪道もあるか。碁盤なんて所詮ただの木だし、碁石だって石と貝殻だ。どっちも『何か』のために在るもんじゃない。ただそれを人間が遊びに使ってるだけだ」
僕の必死の主張は、あえなく切り捨てられた。おじいちゃんだって碁打ちじゃないか。どうしてそんなに彼らを擁護するようなことを言うんだ。
パシリ、パシリ、と無言で応酬が続く。数手のやりとりの後には、右辺の白もあっさりと生きていた。だが、それもどうだっていい。それより、中央に黒の壁を作るのが、元からの狙い。これで、上辺に打ち込みやすくなった。
「あいつら馬鹿だから、囲碁の楽しさが理解出来ないんだ」
狙い澄ました、富士山内部への打ち込み。会心の一手だ。さすがの白も困るだろう、と内心で快哉を叫ぶ。
「お前はどうして囲碁をやっている? 正道だからか? 高等だからか?」
「そんなの楽しいからに決まってんじゃん」
容赦なく白の模様を食い荒らす。こうやって、強い勢力を背景に、敵の勢力圏を蹂躙するのが、一番楽しい。勢いに乗って着手のペースが、知らず知らずに上がっていく。
「彼らだって同じだろう。その子たちも、五目並べが楽しかったはずだ。なら、それで良いじゃないか。彼らは五目並べが好きで、囲碁は好きじゃない。お前は囲碁が好きで、五目並べが好きじゃない。同じことだ」
「同じじゃない。馬鹿なやつは、馬鹿な遊びしかできないんだ」
一緒にするな。高らかな音とともに石を叩きつけ、黒地を精一杯囲いにいく。
ああ、足が痺れてきた。一言断って、足を崩す。
「だから、囲碁が分かる自分は頭が良いと、そう言いたいのか?」
「そうじゃない。そんなこと言ってるわけじゃない」
おじいちゃんがあちらこちらを矢継ぎ早に打ち回す。それに応手しているうち、段々と相手のペースに乗せられて、気づけば中央に幾ばくかの白地ができていた。それに気づいて一呼吸入れると、姿勢が前のめりになっていて、視野が狭まっていたことに気づく。
もう一度きちんと正座し直して、背筋を伸ばして深呼吸する。地合いを数えて自分を落ち着かせる。大丈夫、まだ大幅にリードしてる。
「彼らは彼らで楽しんでいただけだ。周りに迷惑をかけた訳じゃない。彼らに文句を言えるほど、お前は偉い人間なのか?」
おじいちゃんは、怒らない。どこまでも静かな声で、淡々と語りかけてくる。あまりに感情がこもってなくて、かえって恐ろしい。言うつもりのなかった言い訳が、口をついて出てきてしまう。
「僕は、楽しむためだけど、真剣に、誠実にやってる。あいつらみたいにへらへらしてない」
「だから、石を投げつける権利があると」
おじいちゃんが一瞬、考え込むように目を瞑る。それから、右上隅、黒の勢力圏内に打ち込んできた。
でも、いくらおじいちゃんでもこれは無理だ。地合いが足りなくて焦ったおじいちゃんが、無理を承知で賭けに出たんだ。落ち着いて、冷静に対処すれば、何てことはない。
案の定、白は散々あがいたものの、生きることは敵わない。これはもう、黒優勢を通り越して、勝ちは動かないだろう。序盤から堅実に打って、ハンデをきちんと守りきった。今度からはハンデを減らしてもらおうか。
ふと、おじいちゃんの手が止まった。顔を上げると、おじいちゃんが僕をじっと見ていた。
何かある。そんな気がして、盤面を良く見てみる。そして、愕然とした。
やめてくれ、待ってくれ。そんな願いは聞き届けられない。一度打った手は、決して取り下げることができないのだから。
「碁打ちは、石を楽しむために使うもんだ」
呟くように言いながら、おじいちゃんは上辺に打ち込む。ピシリと響いたのは、僕の自信が粉砕される音。高揚していた気分が、奈落の底へ、墜落する音。
「他人様に投げつける奴は、どんだけ強くてもヘボなんだよ」
今にして気づく。さっきの打ち込みは、隅で生きるためのあがきなんかじゃなかった。あれは、どさくさ紛れにサガリを打つための陽動、上辺の黒を殺す下準備だったんだ。
――右を打ちたければ左から打て――
おじいちゃんの座右の銘を、今更のように思い出す。ちらりとおじいちゃんの顔を見れば、僅かに口元が歪んでいた。
こういうとき、平静を失えば間違いなく負ける。だから、切り替えが大切だ。
落ち着いて、地合いを目算しよう。右上の黒地が30目、右下は15目……。うん、大分詰め寄られたけど、まだ少しリードを保ってる。
落ち着け。また前のめりになってるぞ。背筋を伸ばして、深呼吸。ミスなく打てば、まだ勝てるんだ。集中、集中……
結局、整地したら、2目負けだった。丸どられした時点では、黒がまだ10目以上良かったはず。終盤でもかなり損をしたようだ。
「人のすることにケチをつける暇があるなら、1局でも多く打つんだな」
おじいちゃんの言葉に返す言葉もなく、礼をしたあと、畳にごろんと寝転がる。
「今回の敗因は?」
あくまで淡々とした声が、癪に障る。あのミスがなければ、僕が勝っていた。
「打たれた場所に集中しすぎた。あと、勝ったと思って油断して、先を読まなかった」
むしゃくしゃしたから、つっけんどんに返す。八つ当たりなのは分かってるけど。
「そうだな。碁打ちは常に謙虚であるべきだ。自分が一流だなんて思うやつは、その時点で三流だ」
おじいちゃんは、背を向けて寝転がったままの僕に、言い聞かせるように語りかける。
「臆病になりなさい。常に先を読みなさい。それが、碁と誠実に向き合うということだ」
それだけ言うと、おじいちゃんは立ち上がって、和室を後にした。
ごろんと、大の字で仰向けになる。大好きな、畳の匂いを堪能するように、大きく息を吸い込む。
「くっそ!」
おじいちゃんは毎度毎度説教くさいし、むかつく。ちょっと人より5,6倍長く生きてるからって、偉そうにして、分かったふうな口をきく。
「あぁ、くそ!」
もう一度息を吸いこむ。ああ、むかつく。次はおじいちゃんに勝つ。最後まで、絶対気を抜いてやるもんか。謙虚に臆病に、勝ちきってやる。
「はぁぁ……」
いつまでもふて腐れてても、仕方がない。のっそりと体を起こして立ち上がる。
分かってるさ。まずはあいつらに謝らないと。
げんなりして溜め息が出た。
囲碁の小説、書いてみたくなって書いちゃいました。
一人称って、思ったよりも書きづらいものですね……