75話 銭くれ 【地図5】
永禄3年(1560年)10月 出雲 月山富田城
「お玉さんや、銭はまだかいのぉ」
「お爺ちゃん、銭なら春に二千貫あげたでしょ?」
このやり取りは、一体全体なんなんですかね? メシはまだかいのぉ→さっき食べたばっかでしょ? みたいな、この出オチ感は?
「うむ、それは分かっておじゃるが、銭くれ」
「山科卿、毛利の分は師走の予定ですよ?」
私がいま山科卿と言った人物は、従三位であらしゃります、山科内蔵頭言継卿のことです。位階が従三位以上の人のことを公卿と称されますので、山科卿と呼ぶのです。
ぶっちゃけ、このジジイ未満オッサン以上の御仁は、乱世の、戦国時代の生き字引であらしゃいます。このオッサンのなにが凄いって、成人してからは死ぬまでの期間、約五十年もの長きにわたって日記をつけているのですよ。
五十年もの間ずっと日記を書き続けるだなんて、私には到底不可能な偉業ですね。まあ、現段階では、まだ三十数年だとは思いますけど。それでも凄いですよね。
ですので前世では、その日記、山科言継が残してくれた文献である言継卿記が、戦国時代を読み解くうえで、貴重な手掛かりになったみたいなのです。第一級の資料ってヤツですよね。継続は力なりとは、日記にも言えることだったんですね。
国宝だったかどうかまでは知りませんけど、最低でも重要文化財か、それに準じる扱いは受けていたのではないかな?
その上、このオッサンは公家であらしゃりますのに、有能な医者と薬師でもあるのですよ。山科家は衣裳にまつわる家業だったと思っていたのですがね。なぜだか、この御仁は医者であらしゃいます。
言継卿記は日記であるとともに、医者による診療記録でもあるのです。いわゆるカルテですよね。未来ならいざ知らず、このカルテは今を生きる私には、日記の中でも一際重要なのであります。カルテを読めば助かる命が多くなりますしね。
それで、毛利の分は師走というのは、佐摩にある石見銀山で朝廷がしてくれている名義貸しへのお礼、つまり上納金のことです。春に尼子が二千貫で師走に毛利が二千貫の合わせて、年に四千貫が朝廷の取り分となります。
最初は、五千貫か一万貫とか思っていたのですけど、毛利ジジイが渋ったので、じゃあついでに私もってなことで、足並みをそろえて二千貫づつと相成りましたとさ。まあ、ケチったんですけどね。
ちなみに、二千貫といっても、当然ですけど銀ではないですよ? 銀だったら尼子が破産してしまいますから。銅銭、永楽銭で二千貫です。まあ、銀で20貫、75kg分の銀を送るか、割符で送るかなんですがね。
まあ、破産するのは嘘なんですけれども。佐摩の銀は尼子の取り分だけでも年に三千貫、11トンと少しありますしね。つまり、三十万貫。使い道に困ってしまいますよね。富田のお城にも銀がうなっております。
さすがは、この時代でも既に遠く海の向こうのヨーロッパにも聞こえる、世界に冠たるソーマの銀山であります!
「うむ、それも分かっておじゃるのだが、銭くれ」
「は~…… 理由は聞かないでおきましょう」
朝廷が貧乏とは分かっていたつもりでしたが、師走に貰える二千貫を待てなくて、わざわざ出雲くんだりまで銭の無心に来るとは。朝廷はそれほどまでに困窮しているということですか。といいますか、祭事や神事とかに銭が掛かりすぎるんじゃね?
そういや、このオッサンは内蔵頭の肩書きを存分に発揮して、朝廷への諸大名の献金をお願いするために、全国を行脚していましたね。内蔵頭とは、内蔵寮の長官です。内蔵は"うちくら"じゃなくて"くら"と読みます。メンドクセー。
朝廷の内向きの管財人みたいな漢字の役職ですね。その内向きの役職の人物が、外向きの仕事をしているのも変な気もしますがね。まあ、大蔵省や民部省の公家がだらしないのか、山科卿の朝廷を思う気持ちがより強いのか、そのどっちかでしょう。
それで、尼子と毛利がちょっと朝廷に甘い顔をしたから、これならもっと貰えるとか思って、出雲まで足を運んだのかも知れませんね。まあ、手ぶらで帰すのは可哀想ですからあげるけどさ。せっかく遠くまで来てくれたんだしね。
「うむ、ちと要りようでおじゃる」
「わかりました。師走にある毛利からの銀山への名義貸しのお礼以外に、尼子から朝廷へ銅銭で千貫分を献上いたしましょう」
「相済まぬの」
千貫もの大金を献上されて、相済まぬのひと言で済ますのも如何なものかと思いますがね。私もこれが山科卿でなければ、拒否して蹴とばして追い出していたかも知れませんね。一応は頭も下げてくれたのだから、これで良しとしますか。
「それで、銀のままがよろしいですか? それとも割符で?」
「割符でお願いするでおじゃる」
「わかりました。二十貫分上乗せしたのを認めさせて頂きます」
銀のまま持って帰るのも重たいし、道中も野盗の類いとかが危険だから、まあ、割符は当然の選択でしたか。
割符。証文とも小切手とも手形とも言える紙切れのことですね。この時代では最先端の金融システムなのです。まあ、鎌倉の時代には既にあったみたいですので、目新しいモノではないのですけれども。
母屋が潰れたら文字通りに紙切れになりますけど、それはいつの時代でも同じですしね。つまり、現物が最強ってことです。それで、二十貫の上乗せとは、京の都で換金する時の手数料を私が持ちますということです。私はなんて優しいんでしょうか!
「済まんの、感謝する。いや、本当に助かったでおじゃるよ」
「頼みにきたのが、山科卿でなければ叩き返してましたよ」
「それは、麻呂の人徳でおじゃるか?」
このオッサン自分で人徳って言っちゃったよ。スゲー自信だわ。
「まあ、そんなところですね。卿は民に人気がありますから、邪険に追い返すわけにも参りませんので」
「日々の研鑽と善行の積み重ねでおじゃるな」
まあ、確かに山科卿は日々の善行はしていると思うよ。でも、それを自分で言うのは、それってどうよ? と、思わなくもない。
「それで、献金のお礼と言ってはなんでおじゃるが、」
「あら、べつに見返りが欲しくて、千貫文を献上するわけではありませんよ」
嘘です。見返りを求めない投資なんて存在しないはずですし、見返りを求めないソレを投資とのたまう人がいるのなら、その人はドブにお金を捨てているのだと思いますね。無償の愛などは、母親が自分の子供へと向ける愛だけだと思いますから。
でも、様式美といいますか、社交辞令とか建前って大事だと思うのですよ。
「殊勝な心掛けでおじゃる。しかしそれでは、麻呂も心苦しいのでおじゃるよ」
「拝聴いたしましょう」
「うむ、玉殿は出雲や伯耆、美作など山陰山陽の八ヶ国と隠岐を合わせて九ヶ国を差配しておじゃる」
「石見と備後は半分も差配しておりませんが」
そう言われてみると、確かに山陰山陽の九ヶ国にまたがって尼子の旗がひらめいていますね。うむ、尼子も大きくなったものです。まあ、父上や曾爺ちゃんの最大版図には、少し及ばないとは思いますがね。
ちゃんと支配していたかどうかは、べつにしても二人は備後の瀬戸内側や播磨まで進出していたのですから。そう考えると、やっぱ父上と曾爺ちゃんって凄い人たちだったんですね。
「それは、毛利との約定でおじゃるから、気にすることはあらしゃりません」
「は、はぁ、山科卿が仰りたいことが、イマイチ飲み込めないのですが……」
「ほほほっ、玉殿はせっかちでおじゃる」
「お恥ずかしい限りです」
巧遅は拙速に如かずっていうじゃありませんか。だから、多少せっかちのほうが良いのでおじゃる! はっ!? おじゃるが伝染してしまったでおじゃる。
「うむ、九ヶ国もの領地を差配する尼子は大国でおじゃるが、その尼子家の当主が無位無官というのが、朝廷でも問題になっているのでおじゃるよ」
「それは、つまり……?」
もしかして……?
「うむ、玉殿は無位無官であらしゃりますので、ここは一つ官位でも如何でおじゃるか?」
官位キターーーっ!!




