32話 伊勢と海老と鮑と春姉と 【玉姫漫遊記地図3】
永禄元年(1558年)9月 伊勢 度会郡 大湊
「ひゃっほい! とうちゃーく!」
「ここが伊勢ですか」
お元気ですか?
信長の魔の手?から無事に逃れて伊勢にやってきた玉です。
熱田神宮に参拝した後で、『もう行くのか? もう少しゆっくりと逗留していも良いのだぞ』とかなんとか言って、潤んだチワワのような瞳で懇願してくる信長を華麗にスルーして、私たち一行は熱田の港から船に乗り込んで知多半島の野間へ。
そこで一泊してから、翌日に伊勢湾を横断して大湊に到着したのです。信長もロリコンだったみたいでしたね…… 信長って年増好みが定説じゃなかったっけ? 母親から愛情を貰えなかったから、マザコンになったとかなんとかって話のはずなのに。
生駒の吉乃さんなんて、年上で後家さんだったみたいだしね。お鍋の方とか言われている女性も後家でしたか。それと、信忠の乳母も食べちゃってるしね。うん、完全にマザコン確定ですね! それなのに、なぜ私を引き留めようとするのだ……
解せぬ…… まあ、それはともかく、
「春姉、伊勢といえば!」
「伊勢といえば?」
「海老でしょう! あと、鮑にサザエにじゅるっ」
伊勢海老や車海老に鮑とかの貝類と、伊勢志摩の海は海産物の宝庫なのであります!
「おひいさま、涎が垂れてますよ!」
「おっと、いかんいかん」
私としたことが、はしたなかったですね。神に仕える巫女には淑女の品格が求められるのですから、慎まねばなりませんでしたね。でも、人間の三大欲求が煩悩を刺激するんだよぉぉぉ!
煩悩の犬は追えども去らず。そう、お釈迦様も説いているしね。つまり、煩悩とは自然の摂理なのです。その摂理を捻じ曲げることなど、人間に出来るであろうか?
否。断じて否! 煩悩万歳であります!
「春姉、鮑といえば!」
「鮑といえば、なんでしょう?」
「じっくりとよーく見てくださいな。なにかに似ていると思わないかい?」
そう、なにかに似ているのです鮑は。あえて、ナニとは申し上げませんが。
「なんでしょうかね? 私には美味しそうにしか見えませんけど?」
美味しそうなんて言っちゃったから、男たちが興奮し始めてしまったではないですか。
「例えば、そこに居る鉢屋衆の男連中たちの欲望にギラついた眼を! その眼を見て思い当たる節は!」
「はて? ギラついた眼ですか……?」
むむっ? ここまで暗喩しても分からないとは、春姉のニブチンめ!
「姫様、中身が俺たちと同じオッサンになってますぜ」
「ぐへへへへ、よいではないか、よいでは。ほれっ」
まあ、元の中身は君たちと同じオッサンですしねー。 こうなれば、直接攻撃あるのみであります! 行くのだ鮑姫よ!
「なぜ、鮑を私の股にくっつけるのですか?」
「お姫様、春さんが困っているではありませんか、お戯れがすぎますよ。御屋形様に言い付けますよ」
「よいではないか、よいでは」
言い付けようにも、肝心の父上は遥か遠くの出雲なのだ。素晴らしきかな、このモラトリアム。ビバ諸国漫遊!
「おおお、おひいさまっ!」
「お? 春姉も気がついたみたいだね」
「私のは、こんなに黒くありません! 私はまだ生娘ですってば! こういうのは、姉さん連中のアソコです!」
あ、まだ生娘だったのね。まあ、春姉は四六時中私と一緒にいるのだから当たり前といえば当たり前でしたね。というよりも、後ろ指をビシっと指しちゃいけません。春姉の更に後ろから黒いオーラがゴゴゴゴゴーっと見えるのは気のせいですよね?
うん、気のせいだと思いたいけど、巫女の私には見えてしまうのです。歩き巫女のお姉さんたちの黒いオーラが……
「は、春姉……」
「なんですか! 私のは、あんなに卑猥でもありません!」
「春姉、うしろ、うしろ……」
「春さんや、いくら尼子重臣の多胡家の娘とはいえ、言ってはならない言葉を言ってしまいましたね?」
うん、その振り向き様は、まるで春姉の首から油の切れた機械のようにギギギッって音が聞こえてくるようですね。これが走馬灯なのかも知れませんね。私の生涯ではなくて、春姉の命の灯が尽きる寸前の走馬灯ですがね……
「え? いや、その……?」
「アンタだって、そのうちああなるんだからね!」
「えー! なんで私が怒られるのですかー! 悪いのは全部おひいさまですってば!」
ちょっ!? そこで、なぜ私に振りますかね!
「そう言われてみれば、諸悪の根源はお姫様でしたね」
「わ、私は、黒いとか卑猥とか言ってないもん!」
「春さんを焚き付けたのは、お姫様でしょ!」
焚き付けてないもん! ちょっとセクハラしてみただけだもん!
「そもそも、お姫様は出雲守護職であらせられる尼子修理大夫様のご息女であられますのに、その自覚が……うんたらかんたら……etc……」
「はい。はい。仰せごもっともであります……」
「巫女とは、そもそも杵築大社の神様に仕える……うんたらかんたら……etc……」
誰か助けてー!
「あー、おほんっ! 姫様と女衆がじゃれているところ悪いのだが、」
「じゃれてません! お姫様とお話しをしているのです!」
ありがとう座長! 助かったよ! これで、お姉さん連中のお説教タイムから脱出できます。
「いまさっき繋ぎから連絡が入った。毛利に石見東部へ侵攻の動きあり、と」
「ブーーーッ!!」
和議が成立してから、まだ三ヶ月しか経ってないじゃないのよ! 毛利は一体全体なにを考えているのよ! まあ、尼子から石見銀山という飴が貰えないなら、力づくで奪うしかないということですかね……
「おひいさまは、汚いですってば!」
「粕渕も川本も因原も尼子が押さえているのに、毛利はどこから江川を渡るつもりなのよ!」
そう、邑智郡で江の川を渡れる渡河地点は尼子が押さえているのだから、毛利は邑智郡からは江の川は渡れないはずなのです。となれば、
「今回は市木から和田を通って、川戸か川平で江川を渡るつもりのようです」
尼子の勢力範囲を大きく迂回して、江の川の下流から渡るということか。まあ、それぐらいしか方法はありませんからね。石見吉川か福屋の勢力範囲に渡るのか。この毛利方の国人領主たちは尼子にとって邪魔ですね。
今後、この二人を懐柔できなければ、江の川の西側に追い出すことも考えなければなりませんよね。
「繋ぎが石見か安芸を発ったのは何日前なの?」
「繋ぎは出雲からで、7日前にございまする」
あれ? わざわざ出雲に寄っていたらタイムロスが発生するのだけど、どういうことでしょうかね? それでも、出雲から伊勢まで7日は早いですね。
「ずいぶん早く連絡が届くのね」
「隠岐水軍の早船を使いますと出雲から若狭の小浜まで3日ですので。それと、姫様に御屋形様から書状が届いてます」
そっちを早く言ってよね! なるほど、一旦父上に報告してから父上の書状と一緒に、こっちに向かったという訳でしたか。
「どれどれ……」
『父は危篤である。玉よ大至急帰ってこい。父より』
「えーと……」
これは、なんと言えばいいのでしょうかね……? 危篤の人間が書状を書けるはずがないのですが。でも、字はモロ父上の筆跡ですね。
『追伸 旅の僧に聞いたが、伊勢には赤福なるしょっぱい餅があるという。その餅を土産に頼んだ』
え? 赤福って、もう既にこの時代でもあったの? まあ、江戸時代初期にはあったみたいだから、戦国時代に赤福があったとしてもおかしくはない気もするけど、なんか釈然としませんね。なにその旅の僧とかいう胡散臭い人物は?
あー、釈然としないのは、『しょっぱい』これが理由でしたか…… 塩味の赤福ってなんですか? 塩味って…… もしかして、まだ砂糖が庶民には高根の花だから、砂糖の代わりに塩なんですかね?
この時代では、なんでもかんでも、塩、塩、塩ですしねー。高血圧で卒中待ったなしですね!
といいますか、出雲まで最短でも7日か8日は掛かりますが、その間、赤福って日持ちするんですかね? 冬なら持ちそうな気もしますけれども……
「おひいさま御屋形様は、なんと書き送ってきましたか?」
「この通りよ。帰ってこいってさ」
「危篤……?」
「危篤は嘘よ。危篤の人間が自分で筆を持って書けるとでも思う? おまけに、土産を買ってこいなどと大した危篤者だこと」
まあ、お土産を買って帰るのは吝かではありませんがね。父上も、いい歳こいて遊び心があるというのかなんというのか。毛利が石見銀山を奪おうとしているのに、余裕かましている暇があるとは。
「御屋形様の茶目っ気ですね。でも、御屋形様の命令ですから早く帰国しましょう」
「えー、まだ、お伊勢さんにお参りしてないよ」
「でも、書状を見てしまいましたから、それに従いませんと私が叱られます!」
「姫様、伊勢神宮の参拝は某どもが代わりに行っておきますので。それに、小浜では隠岐水軍が姫様の到着を待っておりますれば、ここは明日一番にでも伊勢を発つべきかと。桑名までの船も直ぐに手配いたしますので」
むぅ、小浜で隠岐水軍が待機しているだなんて、用意周到ですね。私が出雲に帰っても戦では大して役に立たないはずなんだけどなぁ。でも、仕方ないか…… 今回の旅はここまでということですね。私のモラトリアムは終了したみたいです。
「はぁ…… それじゃあ、旅の一行を分けるわよ。7、8人は私と一緒に出雲に帰るよ。残りのみんなは、そのまま勧進を続けて正月前までには出雲に帰ってきてちょうだい」
「「「「「ははっ!」」」」」
「あ、船の手配のついでに赤福とかいう餅があったら買ってきてね。父上が買ってこいだってさ」
まだ、お伊勢さんに参拝もしてないのに! 伊勢海老も車海老も食べてないのに! ぐぬぬぬ、毛利ジジイめ! 伊勢海老を食べられなかった、この恨みはいつか晴らさでおくべきか!
食い物の恨みは恐ろしいんだぞ!




