3話 石高の事、お金の事
天文21年(1552年)4月 出雲 杵築大社
「きんぎゅくりみゅじょん!」
お元気ですか?
宇佐じゃなくて、杵築大社で巫女見習いをしている玉です。
知ってましたか? 杵築大社とは、平成の日本でいうところの出雲大社のことです。恥ずかしながら私は知りませんでした。
時が経つのは早いですよね。この前転生したばかりと思っていたら、もう数えで5歳です。実質は3歳とちょっとなんですけどね。
先月から杵築大社で巫女見習いをさせられることになりました。
巫女見習いなんて言い繕ってはいますけど、実質は出雲国造衆への人質みたいなモノなんですけどね。
下手しなくてもまだ寝小便する年頃の幼児を人質に出すだなんて、さすがは末法の世の戦国時代ですね! そこにしびれない、あこがれない!
どうしてこうなった? 解せん……
まあ、普通の人質とは一つ違うところといえば、普通の場合は家と家のやり取りが普通のはずだと思いますけど、私の場合は家と大社とのやり取りということですかね。
この場合の大社とは、国造衆全体への人質という訳です。
杵築大社 権禰宜なんて役職も貰いました。
ところで、権禰宜って偉いんですかね? 大納言や中納言にも定数外の権大納言とかいましたし、権禰宜もそこそこ偉いのかも知れませんね。多分だけど。
「おひいさまは、たまに意味不明な言葉を喋りますね。春には聞き取れません」
「うみゅ、くるちゅうない。よきにはきゃらへ」
まだ舌が上手く回らなくて、絶賛幼児プレイ続行中です……
「はいはい。お散歩に行きますよ」
「はいは、いっかいなのら!」
昨年、今世での私の母親である桃さんが亡くなりました。桃さんは出雲国造衆の一つ北島家の傍流の出で、父である尼子晴久の側室になったのです。
私は今世での保護者を失って、茫然自失からの我を忘れて泣きじゃくるコンボをかまして、周囲の大人を困らせました。
精神年齢は三十路過ぎのオッサンだと思っていたのですが、この3年の間に自分でも知らないうちに幼児退行していたみたいですね。
もとからの精神年齢が低かった訳では断じてない。ないったらない!
ほら、良く言うじゃないですか? 精神は肉体に引きずられるってさ。私の幼児退行もこれなんですよ。
話が逸れた。
母は遺言で、私を杵築大社に預けて欲しいと父に頼んでいたらしい。
それは出雲を支配する尼子家の思惑、国造衆を懐柔して出雲西部での支配力の強化を狙った方針とも合致することでもあったので、私が巫女見習いをやるハメになったのです。
詳しく説明すると小一時間ではすまないので、割愛させていただきますね。
まあ、ぶっちゃけて言うなら尼子家というのは、私の曾爺さんの尼子経久が下剋上して、守護の京極家を出雲から追い出して国を乗っ取ったので、独立勢力である寺社や国人領主たちが尼子の言うことを、あまり聞いてくれないってことなのです。
尼子も京極も佐々木源氏で同族なのにね。曾爺さん凄いわ。
戦国時代パネェっす。
下剋上で国を乗っ取った尼子家ですけど、今度は身内から反乱を起こされたりもして。
この謀反を起こしたのが、曾爺さんの息子ってところが笑えないですけれども。
また、安芸の吉田郡山城の戦いで大内と毛利に負けて、求心力が低下したところで国人衆が離反して「尼子を倒して下さい」と、出雲へ大内を招き入れる。
これが歴史でいうところの、第一次月山富田城の戦いね。
ところが、月山富田城が堅牢すぎて簡単には落ちないとみるや、尼子を離反して大内に寝返っていた国人衆が今度は大内を裏切って、尼子に帰参するなんて素敵すぎるウルトラCをかましたりする始末で。
なんだかんだで、尼子は出雲を支配している地位にはあるのだけれども、その支配は盤石ではないのです。少しでも弱味を見せたのなら国人領主たちに舐められるのが尼子家の現状なのです。
おまけに新宮党は増長甚だしいみたいですし……
おひざ元の出雲がこのザマですから、伯耆、美作等で直接乃至間接支配している他国は、推して知るべしですよね。
幸いにも近いうちに、父の晴久は出雲、隠岐、伯耆の守護職と幕府相伴衆に任じられるのでは? そういった噂があります。
そうなったのならば、この権威付けは、尼子家にとって多少なりとも有効に働くので、国内外の不穏分子の動きも少しは大人しくなると期待したいですね。
まあ、「守護なにそれ?美味しいの?食べれるの?食べちゃえ!ヒャッハー!」こういう輩も出ないとは限りませんけれども。ウチがそうでしたし。
曾爺さんがソレをやっているのを、みんな見て理解してますので、舐められたら喰われる訳です。
月代とモヒカンの違いはありますけど、やっている事といえば、どっちも似たり寄ったりの気がするのは気のせいでしょうか?
うん、気のせいですよね。そうしとこう。
それで、人質として大社に向かうにあたって、父の晴久が私に化粧料をくれたのです。
与えられた土地は杵築大社の東側にある菱根村という場所の50町です。現代でいいますと、50ヘクタールの土地とほぼ同じですね。単純計算で500m×1000mです。
この時代、人一人が一年間に食べるお米の量が約一石でして、一石は約180ℓになります。そして、一石の米が収穫できる田んぼの大きさが約一反なのです。
一反は約20m×50mの広さです。つまり、1町は10反となりまして、私がもらった化粧料は500石となります。
しかし残念ながら、この500石全部が私のモノになる訳ではありません。
当然、田んぼの世話をするお百姓さんも食べて行かなくては、死んでしまいますから。
収穫された米を税として納めてもらって、はじめて私のモノになるのです。
尼子家の税率は、6公4民ですので300石が私の取り分となります。
よく、4公6民などと耳にしますけど、それは統治機構が円滑に機能していて、なおかつ、他の産業で金を生み出せる大名でしか可能ではない気がしますね。
良くて、5公5民ではないでしょうか? 薩摩などでは、8公2民なんて話も聞きますしね。さすがは鬼島津ですね。鬼畜すぎます。
それで、税として納めてもらった米を換金しなければ、お金が手に入りません。
米の値段は豊作だと下がりますし、凶作だと跳ね上がります。また戦が続いても上がりますし、地域によっても多少のバラつきがありますが、ここでは2石で1貫と計算しましょう。
つまり私は米を全部換金すれば、150貫の現金収入を得られることになる訳です。
お米の値段は商人の売値を仕入れ値の倍と計算したら、1石で1貫=1斗で100文=1升で10文となります。
現代のコシヒカリ10kgが6000円と仮定すると、6000×18=108000となり、1貫は約10万円の価値があることが分かりますね。
つまり、永楽銭1文は100円相当だったのだ!
これは適当な計算ですけど、だいたい合っている気がします。もっとも、全てを現代の物価に当て嵌めれる訳ではありませんが。
まあ、当たり前の講釈でしたね。
ちなみに、貫高制を取っていた相模の北条氏を例に挙げてみると、1反につき500文の税を課していますね。5公5民ならばジャスト1反1石だったのですけど、誤差の範囲と許容しましょう。
この時代の米の収穫量がとても分かりやすくて良い例になります。
といいますか、100円以下の単位がない戦国時代って、それってどうなんですかね……