108話 博多商人
永禄4年(1561年)11月 筑前 那珂郡 博多
「尼子別当様、お久しぶりにございます。神屋でございます。博多へようこそおいで下さいました」
「尼子別当様には、お初に御意を得ます。神屋殿と同じく、博多で商いをさせて頂いております島井茂久と申し上げます。以後、お見知りおきのほどをよろしくお願い致します」
「初めまして島井殿、尼子玉です。神屋殿とは、吉田郡山以来でしたか?」
「左様でございます」
「お二人とも、よしなに」
早速、神屋紹策と島井宗室?に捕まってしまったでござる!
でも、島井宗室は、茂勝だった気がしますので、年頃からしたら、島井宗室の親父さんが正解なのかな? 島井宗室は大阪の陣の年代まで生きていたはずですし、目の前のオッサン以上ジジイ未満の中年オヤジでは、あと50年以上も生きられないもんね。
神屋紹策とは、佐摩の銀山を株式化する時の談合や吉田郡山城で会っているのです。それで、神屋は元から毛利の御用商人だから、挨拶に来るのは分かるけど、島井って大友よりの商人ではなかったっけ? 違ったかな?
大友が博多から追い出されてしまったから、毛利方に鞍替えしたのかも知れませんね。まあ、商人も生き残る為には、なりふり構っていられない時代だから、これはこれでアリなのでしょう。
「たろさ、私が絵を描いた紙を頂戴」
「はっ、どうぞ」
「貴方たち博多の商人には、宗や松浦の水軍衆と協力して、これらのモノを大陸やルソンとかから探し出してきて欲しいのよ」
「拝見させて頂きます。どれどれ……」
「ほう、二種類の芋ですか?」
私が自分で描いたイラスト付きの紙を神屋紹策と島井茂久に見せたのですが、そのイラストとは、ジャガイモとサツマイモの絵です。イラストには芋の特徴とかを注釈付きで書き込んであります。
この時代でも、琉球かルソンぐらいまでは、既にサツマイモは入って来ているはずなのです。琉球に伝わったのは、ルソンから明、それから琉球に伝わったのだったかな? それだったら琉球には、まだ伝わってない気もしますね。
ジャガイモは南米から欧州経由ですから、もしかしたら、もう少し後の時代だったかも知れませんね。でも、ひょっとしたら、南蛮船に積んでいる可能性もあると期待をしているのです。
「この芋は、戦国乱世を終わらせる切り札になるはずの代物だよ」
「この芋がですか?」
「この芋が日の本に広がったら、食えないからといって食料を強奪する目的で他国に攻め入る必要もなくなるのよ」
「姫の申す通り、この乱れた世の原因の一つは飢えだからの。その飢えが無くなるのであれば、戦をする理由が減るのは確かじゃな」
「浦上と後藤が美作に侵攻してきたのを、兄上と一緒に返り討ちにして備前を切り取ってしまったのは、およそ二年前でしたか?」
まあ、最初はジジイに備前を押し付けられて憤慨していたのですけど、今になって振り返ってみると結果オーライだったので、これはこれで良かったのかも知れませんね。でも、ジジイにありがとうだなんて言わないけどさ。
「二年前の飢饉になる前の正月であったな」
「玉姫、某も出陣しました」
「うん、たろさも一緒だったよね。あの時は浦上と後藤も、自分たちの食糧不足を乱捕りで補うのが目的みたいでしたしね」
「この芋は、その飢饉の時にこそ役に立つ代物という事なのじゃな?」
「お告げでは、天穂日命がそう言ってましたね。でも、残念ながら日の本には、まだ無いみたいなのよ」
そう考えると、中南米原産の食べ物には優秀な食べ物が多い気がしますね。ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、トマト、カボチャ、カカオ、唐辛子、タバコなどなど…… タバコは食べられないか。
インカやマヤ文明には、宇宙人が係わっていたと言われても、あー、やっぱりそうだったのかぁ。そう、思わず納得しちゃいそうになりますよね。クスコの地上絵とか謎だらけですし。
あれ? ナスカだったかな? あと、イースター島のモアイ象とかも謎ですよね。
「なるほど。そこで、我々商人が大陸かルソンから探し出してくるという訳でしたか」
「直ぐに見つからなくても根気良く探してくれれば、そのうち見つかるはずだから頼みます」
ジャガイモは、見つかるまで時間が掛かりそうな気がしますしね。
「明の商人や南蛮人にも聞いて、必ずや探し出してみせます」
「あと、うちの坪内さんにも頼んでいるけど、博多でも大陸から取り寄せて欲しいモノがあるのよ」
「坪内殿には、某が取り次ぎました」
たろさ、ちょっとウザイよ。まあ、気持ちは分からんでもないけどさぁ。でも、あとで折檻確定ね。それと、吉川元春もニヤニヤしない!
「なんでございましょうか?」
「羊が欲しいのよ。あと、山羊と驢馬と騾馬。あと、できれば大きくて丈夫な馬も欲しいかな?」
「羊と山羊の名前は知っておりますが、ロバにラバですか?」
ラバはともかく、博多の商人でもロバは知らなかったのか。あまり明でも有名じゃなかったのかな? もしかしたら、大陸に渡る機会がある日本商人も、ロバを馬の一種として纏めて見ていたのかも知れませんね。
「ロバは馬を小さくした感じで、ラバは牡のロバと牝の馬を種付けして産まれたのが、ラバと呼ぶらしいのよ」
「つまり、そのラバとは、犬や猫の雑種みたいなモノですか?」
「うん、ラバは雑種と言えば雑種だね。だから、ロバの牝は少なくても構わないよ」
「牝の馬にロバの仔を産ますのですな?」
「そういうことね。その産まれたラバは、ロバの強靭さと粗食にも耐えれる胃袋と馬の従順さを併せ持っているの。そして、馬よりも頭が賢いみたいなのよ」
まあ、この情報の全部が神様ならぬ、うぃき先生のおかげなんですがね。転生してから、この身体になって脳味噌の容量が増えたみたいで、前世よりも記憶力も良くなっているのには助けられてます。単純に若いからだけなのかも知れませんが。
もっとも、多少あやふやな記憶もあるにはあるのですがね。特に人の名前を覚えるのは、前世と変わらずに苦手なのですよ。しかし、そこは一つ、ご愛嬌ということで……
「なるほどのぉ。ロバと馬の長所を引き継いでおるのか。これは我が毛利でも、そのラバとやらを是が非でも導入したいものじゃな」
「暫くの間は、尼子と毛利でラバは買い占めてしまいましょう」
「ふっ、それが良さそうじゃの」
ふっふっふっ、吉川元春、お主も悪よのぉ。
「牝の馬に種付けをすれば、ラバも増えるからね」
「しかし、我々には美味い話なれど、これらを坪内殿に独占させた方が、別当様は儲かるのではないのですか?」
そりゃ、私が独り占めすれば、ボロ儲け出来るとは思うけどさぁ。でも、それでは意味がないのですよ。人の恨みを買いますしね。恨みは分散させてこそなのですから。儲けも恨みも、みんなで仲良く分かち合おうよ!
それに、船も足らないし、人手も足らないのも事実なんだしね。
「近江か何処か商人に伝わっている言葉で、こんな言葉があります」
「その言葉とは……?」
まあ、この時代には、多分まだ、存在しない言葉だとは思うのですがね。でも、言ったもん勝ちであります!
「陰徳善事と、売り手よし、買い手よし、世間よし、この三方良しの精神だよ」
「なるほど……」
「初めて聞き及びましたな」
「あと、利真於勤なんて言葉もあったわね」
商人に釘を刺しておくのには、これ以上にない言葉だと思いますよね? これを商人自身である近江商人が残した言葉なのだから、近江商人ってスゲーわ。しかし、四字熟語なんて、昔の人は上手い言葉を考えついたものだと思います。
「我々商人には、耳に痛い言葉でございますな」
「利ばかり追ってはならぬという、戒めですかな?」
「規律と道徳を重んじなければ、人は信を失うわ」
「左様でございますな」
これは商人や農民であっても武家や公家であっても、変わらない普遍的なモノだと思います。まあ、行きすぎた道徳教育も、それはそれで、いかがなものかと思うのですが。私自身も儒教的なモノは、あまり好きではありませんしね。
でも、人が社会生活を営む上で、道徳的なモノは大事だと思うのであります。人が道徳的な行動を取らなかったら、それは、無秩序と何ら変わらないのですから。
ん? なんだ、現在進行形で無秩序な戦乱の世が続いていましたか。あー、だからこそ史実では、徳川幕府が成立した後に儒教が重んじられるようになったのでしたか。うん、納得しました。
それはさておき、
「先義後利栄、好富施其徳」
これでは、五字熟語みたいになってしまったではありませんか! まあ、漢文の読み下し文なんだけどね。ちなみに、これも近江商人の西川ナントカさんからのパクリなのですがね!
「ほう? さすがは杵築大社の姫巫女といったところですな。某の記憶が正しければ、荀子の一説でしたかな?」
「私もそこまでは覚えていないわよ」
あれ? 近江商人の西川ナントカさんじゃなかったの? 私の記憶違いだったのかな? 荀子…… 荀彧とか荀攸のご先祖様らしい人でしたっけ? 生涯学習の奨めである、青は藍より出て藍より青しと、孟子の性善説と対になる性悪説しか知らないですよ。
杵築大社でも、あまり荀子は教えてもらった記憶もありませんでしたしね。といいますか、吉川元春も荀子なんかを読んで覚えているのかよ。毛利家の教育って半端ないですわ。
「義を先にして、利を後にすれば栄える。富を好しとしても、其の富でもって徳を施せですかな?」
「それで合っているわね」
博多の商人も、そこら辺に掃いて捨てるほど居る中級以下の武士など、目じゃないぐらいに博識ですよね。まあ、大陸との商いでは漢文が必須ですので、自ずと漢文を身に付けることを迫られたのでしょうけれども。
こうやって、商人の学を見せつけられますと、やはり、教育は必要不可欠だと改めて思い知らされますよね。これからの時代には、無学で人殺ししか出来ない武士など、淘汰されていく運命にあるのですから。
信長も秀吉も家康も、脳味噌が筋肉で出来ている戦馬鹿には大領は与えなかった気がしましたね。たとえ与えたとしても、難癖を付けて改易されてたりもしていましたか。無学であったはずの秀吉も最終的には、かなりの学を身に付けていたはずですしね。
もっとも、秀吉の根っ子の部分は、最後まで下級足軽のままだったような気もしますが。だから、最後には狂ってしまったのかも知れませんね。彼は、豊臣秀吉という役者を演じていて、最後まで演じ続けなければならなかったのだと思います。
そう考えると、人には分相応というモノがあるのだと、改めて考えさせらてしまいます。だからこそ、私は京と畿内には足を踏み入れたくはないのですよ。自分の分を弁えて謙虚に生きながらえたいと、そう、思うのであります。
前世で小市民だった時のクセが、なかなか抜けきらないのも考えものだとは思うのですがね。でも、こればっかりは、ね?