イブン・ルシュドの弁明
12世紀スペインのイスラムの哲学者イブン・ルシュドは、行き過ぎた合理主義のために異端の疑いをかけられて宮廷を追われ、モロッコにやって来た。
その彼を、モロッコの資産家の長老が自分の屋敷に迎え入れてくれた。シェイフは言った。
「モロッコへようこそ。あなたは、異端の疑いをかけられてここへ追放されてきたそうだね」
「そうです。しかしそれは、私に偏見をもっている連中の言いがかりのためなのです。確かに、私にも慢心が過ぎる面はあったでしょうが、今でも、私の基本的な立場は変わりません」
「そうかね。ところであなたは、一部ではアヴェロエスと呼ばれているようだが、それは筆名か何かかね?」
「いえ、アヴェロエスとは私の名前をラテン語で言っただけのものです。スペインのキリスト教徒の間では、ラテン語が広く使われていて、私達の間でのアラビア語のような役割を果たしています。
私は長いことスペインに住んでいたので、かの地のキリスト教徒の中には私をそう呼ぶ者がいたのです」
「そうかね。私は、キリスト教徒はギリシャ語を使うものだと思っていたが」
「一般に、キリスト教徒の間ではそれぞれの民族の古典語が使われています。エジプトのキリスト教徒の間ではコプト語が、シリアではアラム語が、ローマ(東ローマ)ではギリシャ語が使われています。
スペインを含めて、一般にフランク人(西欧人)の間ではラテン語が使われています。もっとも、これは必ずしも彼ら自身の古典語というわけではなく、彼らを統括している総主教の古典語です。フランク人の中には、この事を不満に思っている者もいるようですが…」
「なるほどね、そのようにして、言語が統一されていないのは、彼らの分裂に一役買っているのかもな」
「そういう面もあるでしょうが、そうとは言い切れません。言葉が別でも統一されているところもありますし、言葉は同じでも分裂しているところもあります。
しかし結局、言葉はいろいろあっても、それで表されるものは同じ「一つ」のものなのです。たとえ、違った言葉を話しているうちに、それが別々のものであるように思われてきたとしても、です」
イブン・ルシュドは意味ありげに言った。
「君は、神について考えているのだね?」
「そうです。神もコーランの中で言っておられます。汝らがどんな名で呼ぼうと、最も美しき名はみな神のものである、と」
「神と言えば…」
とシェイフは言った。
「君が異端の疑いで宮廷を追われたということは、この地でもすでに知られている。そして、この地にもやはり、君のことを良く思わない人達がいる。
彼らはこう言っているのだ。人は本来神にのみ従うべきであるのに、君はアリストテレスを神のごとくあがめてその教えになら何でも従い、このようにして神に背いている。君はイスラムに反する、異端者で不信心者だと言うのだ。
実を言えば、私自身、それについては多少疑いを持っている。
それで君は、この告発に対して、どう弁明するつもりかね」
イブン・ルシュドは言った。
「人が神にのみ従うべきであるということに、私は全面的に同意します。
しかし、そもそもどうすることが神に従うことであるのか、それを人はどのようにして知るのでしょうか。
イスラム教において、礼拝や断食を守るべきこと、酒を飲んではならないことなどは、何によって知られるのでしょうか。それは、コーランの中でそう言われているからではありませんか?」
「確かに、そうだ」
「では、コーランの中で言われていることが神の意志であることは何によって知られるのでしょうか?それは、それを伝えた預言者ムハンマドが、神の使徒だからではありませんか?」
「確かに、そうだ」
「では、ムハンマドが神の使徒であることは何によって知られるのでしょうか?」
「それは…彼以前の予言によってだ」
「では、その予言の正しさは何によって知られるのでしょうか?」
「信仰によってだ」
「では、その信仰の正しさは?」
「しかし君、そうしたことを問いつめるのは罪になりはしないかね?私は、信仰は神から来ると思う。それを疑うことは罪になりはしないかと私は思うのだ」
「しかし、疑うことなしに、信じることができるのでしょうか?問うことなしに、正しい答えを得られるのでしょうか?
コーランの中で述べられているところによれば、「純正な」一神教徒であったイブラーヒーム(アブラハム)でさえも、かつては、星や月や太陽をあがめる者でした。しかしイブラーヒームは、それらがあがめるに足らぬということを見いだしたので、それで、より正しい道を行くことができたのです。
もし彼が、問うことも疑うこともしなかったとすれば、彼は一生を、星をあがめる者として終えていたでしょう。しかし私達は、それは正しいことではないと信じています。そうではないですか?」
「もちろん、そうだ」
「それならやはり、問わないわけにはいきません。
実際、もしこうした事を万事問うことも疑うこともせずに受け入れるとしたら、私達は、誰かが、これは神の意志なのだと言って何か主張するたびに、その人に従っていく事になるでしょう。しかし、もしそうするなら、それはその人に従っているのであって、神に従っているのではないのです。
ところであなたは、ロシアのウラジーミル大公が、初めてキリスト教徒になった時の話を知っていますか?」
「いや、知らない。どういう話かね?」
「それはこういう話です。
初めてロシアを統一したウラジーミル大公は、先祖伝来の多神教に替えて、自分と自分の国のために、もっと国際的な宗教を導入しようと考えました。
それで彼は人々を遣わして、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教ではカトリックと、東方正教会を調べに行かせました。
さて彼らは、ユダヤ教もイスラム教も気に入りませんでした。また、カトリックには良いところもあるように思えましたが、「しかしそこには、何の美しさも見いだせない」というので、これもやはり気に入りませんでした。
しかし、その帰りに立ち寄ったコンスタンティノープルで、東方正教会の奉神礼を見た時には、その儀式がたいへん美しくかつおごそかで、「天上にいるのか、地上にいるのかわからないほどだった」というので、彼らはそれがいたく気に入り、ウラジーミル大公にもそう報告しました。それで彼も改宗して正教徒になり、それ以来ロシアでは正教会が主流だということです。
美しさによって判断するというのは、ともすれば不真面目なように見えるかもしれませんが、通常の理性を超えるような問題に対しては、美的センスで判断するのも、あながち間違いではないかもしれません。
直感的な判断には、その時にははっきりなぜとわからなくても、後になって、やはりあれは正しかったんだと思うようなことが、時にはあるものですからね。
カリフ・ウマルが、コーランの言葉の響きの美しさに心打たれて、イスラム教徒になったのも、これと同じだと言えるでしょう。
サーリプッタは、仏教の明快な論理にひかれて仏教徒になり、アブー・バクルは、預言者ムハンマドに対する個人的な信頼のためにイスラム教徒になりました。アブー・バクル以下、最初にイスラム教徒になった人々もまた、それぞれの理由によって…
彼らはそれぞれ、自分の判断基準を持っていて、それによって、ことを判断していたのです。そしてその判断基準は、彼らが、あらかじめ持っていた、ものであるはずなのです。
さらに言えば、預言者ムハンマド御自身でさえそうだったのです。それというのも、彼は最初に啓示を受けた時、はじめからそれを信じるようなことはせず、ハディージャとワラカ・イブン・ナウファルの助けを借りて、それが本物の啓示かどうか確かめたということですからね。もっとも、私の意見では、彼は最後には自分の心に確かめたと思いますが。
もしこうしたことが罪であるとしたら、最初にイスラム教徒になった人々も、預言者ムハンマドも、罪ありとせねばならないのであって、その次の世代から、初めて汚れなき信心を持っているということにもなるでしょう。だが、これはあり得ないことです。そうではないですか?」
「もちろん、あり得ないことだ。私達は、預言者ムハンマドにならっているのだからな」
「そうであれば、やはり判断しないわけにはいきません。
ある種の動物は、触覚だけを持っているので、触覚でものごとを判断します。目を持つものは目を使い、耳を持つものは耳を使います。人間はそのうえ理性を持っているので、理性でものごとを判断します。私も同じです。私の判断基準は理性です。「ことわり」です。ものごとをどこまでも割っていき、「分かって」いき、もうこれ以上分けられない、「分からない」というところまできて、そこで初めて「信仰」が成り立つのです。
人は私がアリストテレスを神のごとくあがめて、彼の言うことなら何でも受け入れていると言うかもしれませんが、決してそんなことはありません。私はアリストテレスの思想の中から、自分の理性に確かめてそうだと思うものだけを受け入れているのです。
そういうわけですから、たとえアリストテレスが実在の人物でなかったとしても、それは私にとって大した問題ではありません。ガザーリーが言っているように、大事なのは、誰が言ったかではなく、何を言ったか、だからです」
「しかし、ガザーリーと言えば、彼は、啓示は理性によっては計り知れないものであって、ある種の神秘的な直観によってのみ理解できる、と言っている。もしそうだとしたら、それは理性によっては判断できないのではないかね?」
「確かに、人間の理性には限界がありますから、啓示やそれに類するものに対しても、常に開かれた心を持っていなければならないでしょう。
しかしそれでも、私にとっては、この理性が一番確かなものであることには変わりありません。たとえ、ガザーリーが主張しているように、彼には私には見えないような神秘的な領域が見えるのだとしても、です」
「しかし、もし君が理性の限界を認めているのなら、ガザーリーの言うような神秘的な直観をも受け入れるべきではないのかね?それが君の判断基準にならないのは、なぜなのかね?」
「なぜなら、それは人々の間で共有されないか、あるいはされたとしても、それを確かめる術がないからです。いかにも、それはガザーリーにとっては何より確かなものでしょうが、万人にとって同じように確かなものであることはできないし、私にとってもまたそうです。
これに対して、理性はもっと共通なものです。つまり、4足す3が7であることや、三角形の内角の和が180度であることなどは、万人にとって同じように明らかなことですからね。しかし、神秘的な直観の方はそうはいきません」
「人に共通かどうかが、正しさの基準になるのかね?たとえ一人しか知らなくても、正しいものは正しいのではないかね?」
「そうですが、私が言うのはこういうことです。つまり、もし誰かが、神秘的な直観によって何かを主張したとしても、私にそれを確かめる術がなければ、それについてはただ、彼にとってはそう見える、という以上のことは言えない、ということです。
ですから、たとえそれによって何かを判断できるとしても、それはただ、自分が持っているそれによって、だということです。
どんなに偉大で高尚なものであっても、自分が持っているものでなければ、それによって判断することはできません。私は、私が持っているものによって、判断しなければならないのです。
それにしても、人々の間で語るなら、やはり共通なものによって、語らなければなりません。
ただ自分にそう思えるからそうなのだと言って、世の中で何かを押し通そうとしても、それが受け入れられることはないでしょう。もし、力づくで押し通すのでなければ、ですが」
「そうだろうが、私には、宗教は多かれ少なかれ、そういう性質を持っているように思われる。つまりそれは、断定的な言い方をするもので、これが真理だ、真実だと、言い切るもののように思われるのだが。もしそうでなければ、どんな宗教も存在し得ないのではなかろうか?」
「そうでしょうね。そしてそれは、そうあるべきだとも思います。
私の考えでは、宗教はやはり、ある種の神的な経験や直観にもとづいているものだと思うからです。
経験は常に、それがあらわれてくる人にとっては、現にそのようなものとしてあらわれてくるのであって、あってもなくても、どちらでもあり得るような、不確かなものとしてではないのです。それを伝えるものだからこそ、宗教は断定的なものの言い方をするのだと私は思います。
しかし、その経験は誰にでも同じようにあらわれてくるわけではないし、また同じ言葉で語られるものでもないのです。たとえもとは一つだとしても、世の中に多くの民族や言語があるように。私もまた、自分の言葉で語るのです」
「それでは君も、やはりその直観にもとづいて語っているということなのかね?」
「ある意味では、そうです。私は理性と信仰が一致すると思っていますから。それらもやはり、元は一つなのです。
ガザーリーは自分の著作の中で、自分はあらゆる異端の思想をも恐れずに、その中に分け入って、確かなものを求めてきた、そのようにして、神を求めてきたのだと言っていますが、それは私も同じなのです。
私もまた、あらゆる異端の思想をも恐れずに学問をかさねてきたのは、まさにそのためでした。それは真理を…別の言い方をすれば、神を見いだすためだったのです。
私は最初からそれを抜かりなく知っているわけでもなければ、知っていると主張しても来なかったからであって、私はそれを自ら学ばなければならなかったのです。
そういう次第ですから、私がこのようであり、ある人々には異端で不信心のように見えるとしても、人から非難されるようないわれはないし、神御自身でさえ、私を非難はなさらないだろうと思っています。
もっとも、私を不信心者だと言って、私の命を狙っているあの連中が、自分は決して間違うことも過つこともなく、神について完璧に知っているのだから、自分に従うことが神に従うことであり、自分を信じることが神を信じることなのであると、あくまでも主張するなら別ですが」




