幕間録:007「吾輩は猫であると老犬は言った」
変わった設定で書いてみます。
季節は、長く厳しい冬を越え、ようやく春の気配を帯び始めていた。
山の中腹にある古い平屋の施設――「山城老犬ホーム&町田動物病院」の周囲にも、雪解け水が小川を作って流れ出し、湿った土の匂いが色濃く漂っている。
元保健所職員であり獣医師の資格を持つ町田亜子さんが、専属獣医としてこの施設に合流してから、早くも数ヶ月が経過した。
彼女の存在は、俺たち人間だけでなく、ここに暮らす五十匹近い老犬たちにとっても、すっかり欠かせないものになっている。
日々の診察や健康管理はもちろんのこと、彼女が持つ確かな医療知識は、俺の「老犬の言葉がわかる」という能力と見事に噛み合っていた。
言葉を持たない動物たちの痛みを俺が通訳し、町田さんが医学的なアプローチで原因を突き止め、治療する。
その連携は日を追うごとにスムーズになり、今では近隣の住民から頼られる立派な動物病院として機能し始めていた。
かつて愛犬のコロを見殺しにし、絶望と罪悪感の中で生きてきた俺にとって、この場所は唯一の贖罪の場だ。
どれだけ多くの命を救っても、過去の罪が消えるわけではない。
だが、冷たい檻の中で処分を待つしかなかった老犬たちを含め、様々な理由で行き場を失った彼らが、ここで温かい飯を食い、仲間と共に穏やかな寝息を立てる姿を見るたび、俺の胸の奥に張り付いたコールタールのような後悔がほんの少しだけ溶けていくような気がした。
そんなある日の午前中。
雪解けの泥を跳ね上げるような冷たい春雨が、朝からしとしとと降り続いていた。
清潔に保たれた土間の診察室では、今日も新しい入所者の健康診断が行われている。
ステンレス製の冷たい診察台の上で、一匹の小型のミックス犬が全身の毛を逆立てていた。
茶色と白のぶち模様。
年齢は推定十二歳。
名前は「タマ」というらしい。
「ワン!」
タマは、聴診器を当てようと手を伸ばした町田さんに向かって、鋭い声で吠えかかった。
だが、その声の裏には明らかな怯えが隠れており、尻尾は股の間にすっぽりと巻き込まれている。
小刻みに震える四肢が、彼の内なる恐怖を何よりも雄弁に物語っていた。
町田さんは慣れた手つきでタマの威嚇を躱し、優しく喉元を撫でて落ち着かせようとした。
「大丈夫ですよ、タマちゃん。
怖いことは何もしませんからね。
……元気そうですね。
山城さん、この子、なんて言ってます?」
町田さんがカルテに目を落としながら、俺の方を振り返る。
彼女が俺の能力を信じてくれるようになってから、初診時の「通訳」はすっかりお決まりのルーティンになっていた。
俺は診察台の上のタマをじっと見つめ、その声に耳を澄ませた。
しかし、脳内に響いてきた言葉に、俺は思わず耳を疑い言い淀んでしまった。
「……いや、それが」
「どこか、痛いと言っていますか?
触診した限りでは、特に関節や内臓に異常はなさそうですが……」
「……『にゃーん』って言ってます」
俺が正直に答えると、町田さんはカルテに文字を書き込んでいたペンをピタリと止めた。
そして、眼鏡の奥からスッと冷ややかな視線を俺に向ける。
「……は?
ふざけてます?」
「いや、ふざけてないんです。
こいつ、『にゃーん』って猫の鳴きまねしてるんですよ。
そのあとで『吾輩は誇り高き猫である。犬と一緒にしないでくれたまえ』って言ってまして……」
俺が困惑しながら通訳すると、町田さんは大きなため息をついた。
診察台の上のタマは、前足をやけに器用に使い、顔を洗うような仕草を始めた。
そして、ふうとため息をつきながら、前足を胸の下に折りたたむ「香箱座り」の姿勢で丸くなる。
どちらかというと「スフィンクス座り」なのだが、その他はどう見ても猫の仕草を模倣しているようだった。
「……なるほど。
確かに、猫みたいな仕草をしていますね。
山城さん、この子の引き取りの経緯は?」
俺は、保健所の職員から聞いたタマの素性を町田さんに説明した。
タマは、元の飼い主であるおばあさんが高齢で施設に入所することになり、引き取り手が見つからずに持ち込まれた犬だった。
正確に言えば、その家にはタマの他に五匹の猫が飼われていたらしい。
猫たちは皆、人懐っこく愛想が良かったため、おばあさんの親戚たちにそれぞれ引き取られていった。
だが、タマだけは誰にも引き取られなかったのだ。
なぜならタマは、数年前に亡くなった「おじいさん」にだけ、生涯の忠誠を誓うように強く懐いていた犬だったからだ。
おじいさんが生きていた頃、タマはいつもおじいさんの膝の上を陣取り、他の誰にも触らせないほど深い絆で結ばれていたという。
おじいさんが亡くなった後、タマは深い悲しみのあまり他の家族や親戚たちには一切心を開かなくなった。
おじいさんの匂いが残る座布団を守るように牙を剥き、威嚇して自らの殻に閉じこもってしまったのだ。
結果として、愛想の良かった猫たちは新しい家族を見つけ、タマだけが「凶暴で懐かない老犬」として孤独に置き去りにされた。
行き場を失った彼を、最終的に俺が引き取ることになったというわけだ。
「獣医学的にも、犬が同居する他の動物の行動を模倣することはあります。
群れへの強い帰属意識や、飼い主に愛されたいという欲求がそうさせるんです。
この子はきっと……
自分も猫になれば、また元の群れでおばあちゃんたちと一緒にいられると信じているのかもしれませんね」
町田さんが痛ましそうにタマの背中を撫でながら呟いた。
タマは猫のように背中を持ち上げて威嚇するが、その瞳はどこか怯えたように揺れていた。
愛する主を失い、家を失い、家族を失った。
彼が猫のように振る舞い、周囲を見下すのは、孤独から自分を守るための、彼なりの悲しい虚勢なのだ。
俺はタマの小さな頭を撫でようとしたが、彼はサッと身を躱し俺の手を避けた。
無理に触れることはやめ、時間をかけて彼の心が解れるのを待つしかなかった。
タマの「自分は猫である」という強烈な思い込みは、診察室を出てからも続いた。
待合室代わりにしている奥の広い土間には、いつものようにうちの老犬たちが集まっている。
雑種のモモ婆ちゃん、柴犬のゲン、元番犬のバロン、哲学者のサブといった面々だ。
タマは部屋に入るなり、彼らを一瞥してフンと鼻を鳴らし、部屋の隅に置かれていた低めの空の段ボール箱の上へと、器用に跳び乗った。
そこをキャットタワー代わりの城と定めたらしい。
『……また変わったのが来たねぇ』
モモ婆ちゃんが、お気に入りの毛布にくるまりながら呆れたように呟く。
『お前さん、犬のくせにそんな所に登って、怖くないのかい?
足腰が弱ってるんだから、転げ落ちたら骨を折るよ』
モモ婆ちゃんの問いかけに、タマは段ボールの上から見下ろすように冷たく返した。
『にゃーん。
気安く話しかけないでくれたまえ。
吾輩は群れて床で眠るような、惨めな生き物ではないのだ』
その言葉に、ゲンが腹を立てて立ち上がった。
『なんだと!?
新入りのくせに生意気な野郎だ!
俺は誇り高き柴犬だぞ!
ガサツとはなんだ、ガサツとは!』
『やめておけ、ゲン』
ストーブの真ん前を陣取っていたバロンが、低い声で制止した。
『あいつからは、恐怖の匂いがする。
虚勢を張らなければ立っていられないほど、怯えている匂いだ。
放っておいてやれ。
無理に引き摺り下ろしても、噛みつかれるだけだ』
『……生とは常に孤独を孕むものだ。
彼もまた、自らの孤独と向き合っているのだろう。
我々はただ、それを見守るしかない』
窓際で外の景色を眺めていたサブが、白く濁った片目を細めながら呟いた。
老犬たちのコミュニティは、不思議な懐の深さを持っている。
彼らは「変わった新入り」を無理に群れに引き込もうとはせず、適度な距離感を保ちながら、タマの心がほぐれるのをゆっくりと待つことにしたのだ。
俺もまた、タマの食事を段ボールの近くに置き、彼が自ら降りてくるのを待つことにした。
それから数日が過ぎた。
季節の変わり目を告げる、春の嵐がやってきた夜のことだ。
夕方から降り始めた雨は夜になって激しさを増し、バケツをひっくり返したような豪雨となった。
空を切り裂くような稲妻が走り、直後に地響きのような雷鳴が轟く。
ドドン、という轟音とともに、古い平屋の窓ガラスがビリビリと震えた。
俺は犬たちが怯えていないか確認するため、寝室から土間の待合室へと向かった。
老犬たちの多くは耳が遠くなっているため、少々の雷鳴では目を覚まさない。
モモ婆ちゃんもゲンも、自分の寝床で穏やかな寝息を立てていた。
元番犬であるバロンに至っては、雷の音などどこ吹く風で、堂々と大いびきをかいている。
だが、部屋の隅の段ボール城から、微かな悲鳴のような声が聞こえてきた。
『……ひっ』
ピカッと稲妻が光るたび、タマの小さな体がビクビクと跳ねていた。
タマはパニックになるほど、雷が大の苦手だったのだ。
低いとはいえ一段上がった段ボールの上。
彼はそこから降りたくても、足がすくんで動けないようだった。
ガタガタと全身を震わせ、耳をぺたんと伏せて小さくうずくまっている。
『……おじいちゃん……
助けて、おじいちゃん……
雷、怖いよぉ……
置いていかないでよぉ……』
それは、「誇り高き猫」の虚勢が完全に剥がれ落ちた、ただの怯えた老犬の弱音だった。
置いていかれた寂しさと、深い悲しみ。
誰かに守ってもらわなければ生きていけない、小さな命の悲鳴。
タマの涙声を聞いて、俺の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。
あの夜の記憶が、鮮烈に蘇ってきたのだ。
真冬の屋外へ放り出され、寒さと恐怖の中で俺を呼び続けていた愛犬、コロの声。
俺は耳を塞ぎ、布団を被って見殺しにした。
今、目の前で暗闇の中で震え、助けを求めているタマを救わなければ、俺はまたあの時の「屑」に戻ってしまう。
助けなければ。
胸が締め付けられるような痛みを覚え、俺は慌ててタマを抱き降ろそうと一歩踏み出した。
だが、俺より先に動いた影があった。
バロンだ。
バロンはのっそりと立ち上がると、タマが震えている段ボールのすぐ下まで歩いていき、そこにドスンと腰を下ろした。
『……おい、新入り。
そんな高い所にいたら、雷の音が腹に響いて眠れやしないだろう。
番犬たるもの、雷の音くらいで動じては仕事にならんのだ
お前も俺を見習うといいぞ』
バロンの低い声に続いて、モモ婆ちゃんも寝床からゆっくりと身を起こした。
『まったく、やかましい夜だねぇ。
バロン、あたしにもそこを少し空けな。
段ボールの下なら、少しは音が凌げるだろうさ』
ゲンやサブも、それに続くように段ボールの下へと集まってきた。
『雷なんて、ただのうるさい音だろ。
昔は怖くて吠えまくってたら、飼い主に怒鳴られて外に繋がれたっけな。
でも、ここなら怒鳴る奴もいない。
だからもう、怖いもんか』
ゲンの言葉には、かつての傷を乗り越えた強さがあった。
彼らはタマを無理に引き降ろそうとはしなかった。
ただ、タマが乗っている段ボールの周囲を囲むように寄り添い、それぞれが静かに丸くなったのだ。
『……お前ら、何をしている……』
段ボールの上で震えていたタマが、戸惑ったように下を見下ろした。
『雨宿りだ。
ここはいい場所だ。
皆で寄り添えば、少しは暖かくなる』
哲学者のサブが、白く濁った片目を細めながら静かに答えた。
『そうさね。
大丈夫さ、ここには誰も置いていく奴はいないよ。
一緒にいれば、雷の音も少しはマシになるさね』
モモ婆ちゃんが、優しく鼻を鳴らした。
雷鳴が再び轟いた。
だが、老犬たちは少しも動じない。
彼らの穏やかな寝息と体温が、雷の音と寒さを遮るように部屋の中に広がっていく。
それは、言葉を持たない動物たちが示す、最大の思いやりだった。
タマは、震える声で尋ねた。
『……吾輩は、可愛くないぞ。
愛想のいい猫たちみたいに、すりすり甘えたりできないんだ……
ずっと、おじいちゃんだけがいれば良かったんだ……
だから、みんな吾輩を置いていったんだ……』
『だからなんだい』
モモ婆ちゃんが、呆れたように言った。
『愛想なんてなくていいのさ。
あたしらみたいな年寄りは、ただそこで息をしているだけで十分なんだよ。
無理に猫の真似なんかして、気張って生きてたら疲れちまうだろう?
ここでは、ただの不器用な犬でいいんだよ』
『俺たちだって、みんな人間に捨てられた身だ。
似た者同士、仲良くやろうぜ』
ゲンが尻尾を振りながら言う。
老犬たちの静かで寛容な温かさに触れ、タマの強張っていた心が少しずつ解けていくのが分かった。
彼はもう、虚勢を張る必要はないのだと悟ったのだろう。
タマは立ち上がり、段ボールの端から下を覗き込んだ。
そこには、自分を受け入れてくれる、新しく温かい「群れ」があった。
タマは意を決したように、段ボールからぴょんと飛び降りた。
そして、バロンとモモ婆ちゃんの間にできた僅かな隙間に、自分の小さな体を潜り込ませたのだ。
『……クゥーン……』
それは、「にゃーん」という威嚇の鳴き声ではない。
犬本来の、甘えるような、そして安堵に満ちた弱々しい鳴き声だった。
バロンがタマの頭をひと舐めし、モモ婆ちゃんがその小さな体を包み込むように丸くなる。
俺は暗闇の中でその光景を見つめながら、静かに息を吐き出した。
彼らは、人間である俺が言葉で説得するよりもずっと深く、互いの痛みを理解し、寄り添うことができる。
この場所は間違いなく、彼らのための楽園なのだと確信した夜だった。
数日後の午後。
春の柔らかな日差しが、診察室の窓からいっぱいに降り注いでいた。
診察と犬たちの世話が一段落し、俺と町田先生はストーブの前でコーヒーを飲んでいた。
視線の先には、いつものように「犬団子」となって昼寝をしている老犬たちの姿がある。
その中心には、タマの姿があった。
相変わらず前足を器用に腹側へ隠して香箱座りの真似事をし、時折顔を洗うような仕草をしている。
完全に猫の癖が抜けたわけではないらしい。
だが、その表情に以前のような刺々しさは微塵もなかった。
自分を「孤高の猫」だと強がることはやめ、モモ婆ちゃんの背中におでこをくっつけて、安心しきった顔でいびきをかいている。
町田さんが、マグカップを両手で包み込みながら小さく微笑んだ。
「……変な子ですが、良い家族になりそうですね」
「ええ。
ここには、猫みたいな犬もいれば、哲学者みたいな犬もいますからね。
何だって受け入れてくれますよ、うちの爺さん婆さんたちは。
俺たち人間が教えられることばかりです」
俺がそう言うと、町田さんは深く頷いた。
「本当にそうですね。
彼らの優しさや懐の深さを見ていると、獣医師としてもっとできることがあるんじゃないかって勇気をもらえます」
温かいコーヒーの香りと、犬たちの穏やかな寝息。
かつて孤独だった魂たちが、今こうして一つの群れとなり、互いを温め合っている。
俺が作ったこの施設は、ただ彼らを死ぬまで生かしておくための収容所ではない。
失われた絆を取り戻し、最後に「生きる喜び」を味わうための場所なのだ。
コロが遺してくれたこの能力のおかげで、俺はその奇跡を間近で見届けることができる。
それは、神様が俺に与えてくれた、あまりにも過分な罰であり、救いだった。
外では春の風が優しく吹き抜け、木々の若葉を揺らしている。
俺の贖罪の旅は、まだまだ終わらない。
だが、この騒がしくも愛おしい家族たちと一緒なら、どこまでも歩いて行けるような気がしていた。
ストーブの前のタマが、夢の中で何かを追いかけるように小さく足を動かし、微かに「ワン」と寝言をこぼした。
その犬らしい響きに、俺と町田さんは顔を見合わせて静かに笑った。
こんな話もあったらいいですね。




