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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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幕間録:005「老犬たちの問診票」

久しぶりの更新となります。

前向きな話が続いておりますので、楽しんで頂ければ幸いです。


 山の中腹にある古い平屋の施設は、今日から新しい匂いに包まれていた。


 犬たちの体臭や古い木材の匂いに混じって、ツンとした消毒液の匂いが微かに漂っている。

 引退した優良ブリーダーから譲り受けたこの広大な敷地は、数日間の突貫工事を経て、老犬たちのための新しい「楽園」へと生まれ変わろうとしていた。


 そして何よりの変化は、元保健所職員であり獣医師資格を持つ町田亜子が、この「老犬ホーム」の専属獣医として合流したことだ。


 かつてブリーダーが使っていたという広めの土間は、彼女の手によって見違えるほど清潔な診察室へと改装されていた。

 ステンレス製の真新しい診察台、壁際に並んだ薬品棚、そして最新とは言えないまでも、最低限の検査機器が整然と並んでいる。

 無駄な動き一つなく機材を点検する町田さんの手際を見ながら、俺はただ感心するしかなかった。


「……よし、これで一通り揃いましたね」


 真っ白な白衣に袖を通した町田さんが、額の汗を拭いながら満足そうに頷く。

 眼鏡の奥の瞳は、保健所の窓口でいつも見せていたような険しく疲労したものではなく、どこか生き生きとした強い光を帯びていた。

 自らの手で命を救う最前線に、ようやく立つことができたという誇りのようなものが感じられる。


「すごいですね、町田さん。

 ここが本当に動物病院みたいだ」


「みたい、じゃありません。

 ここが私の新しい職場であり、彼らのための病院です」


 町田さんはキッパリと言い切り、診察台の横に置かれた真新しいカルテの束をポンと叩いた。

 そこには、現在この施設にいる五十匹近い老犬たちの名前が記されている。


「さあ、山城さん。

 さっそく入所時の健康診断を始めましょう。

 まずは……最近少し食欲が落ちているという、クロちゃんからお願いします」


 俺は頷き、待合室代わりにしている奥の部屋へと向かった。

 部屋の隅では、施設にいる老犬たちが車座になり、新しい環境について何やらヒソヒソと話し合っている。


『あの白い服のねえちゃん、なんだか怖い匂いがするねぇ』

『保健所と同じ消毒液の匂いだ。

 だが、冷たい匂いではない……』


 雑種のモモ婆ちゃんと、元番犬のバロンがそんなことを言い合っているのを横目に、俺は保健所で最後に引き取った中型犬のクロを抱き上げた。

 フィラリアが進行し、腹水が溜まって死の淵を彷徨っていたクロだが、ここでの生活で少しだけ体力を取り戻し、今はゆっくりとなら自力で歩けるようになっていた。

 それでも、老いた体は羽毛のように軽い。


 俺がクロを抱き上げて冷たいステンレスの診察台に乗せると、クロは不安そうに尻尾を丸め、耳をぺたんと伏せた。


『……おい、健太。

 ここは冷たいぞ。

 あの白い服のねえちゃんは、俺に何をする気だ?』


 クロの掠れた声が、俺の脳内に直接響く。

 十歳を超えた老犬の言葉だけが、人間の言葉として俺には聞こえるのだ。


「大丈夫だよ、クロ。

 町田さんはお前を楽にしてくれる先生だ。

 ちょっと体を触るだけだから、大人しくしててくれな」


 俺がクロの頭を撫でて宥めると、町田さんがピタリと動きを止め、怪訝そうな顔で俺を見た。


「……山城さん。

 いつも思っていたんですが、あなたは本当に、犬に人間と同じように話しかけますね」


「え?

 ああ、まあ。

 長年の癖みたいなもんですから」


 俺が曖昧に笑って誤魔化すと、町田さんは小さくため息をつき、首から下げていた聴診器を耳に当てた。

 彼女の冷たい手がクロの胸のあたりを滑り、膨らんだ腹部へと慎重に移動していく。

 町田さんの表情が、獣医師としての真剣なものに変わる。

 プロの顔だ。


「心音は少し雑音がありますね。

 腹水は……やはりまだ溜まっていますが、保健所にいた頃よりは幾分マシです。

 少し圧迫してみますが、痛がるようなら教えてください」


 町田さんが慎重に、指先でクロのお腹の辺りを押す。

 その瞬間、クロが小さく身をよじり、前足で顔を覆うような仕草をした。


『……うぅ、そこはダメだ。

 ご飯を食べた後から、お腹を触られると苦しいっていうか、ムカムカするんだよ……』


 クロの明確な訴えを聞き、俺は反射的に口を開いていた。


「あ、町田さん。

 こいつ、『ご飯を食べた後から、お腹を触られると苦しいっていうか、ムカムカするんだよ』って言ってますよ」


 ピタリ、と。

 町田さんの手が止まった。

 彼女は聴診器を外し、ゆっくりと俺の方を振り返る。

 呆れたような、それでいてどこか冷静な怒りを孕んだ声が響いた。


「……山城さん。

 犬は『ムカムカする』なんて言葉は使いません」


「えっ?」


「保健所の時、ゲンちゃんの無駄吠えの件でもそうでしたが……。

 私は獣医師として、この子の命と真剣に向き合って診察しているんです。

 長年犬を飼っているからといって、普通のおじいちゃんのような言葉で代弁するのはやめてください。

 診断の邪魔になります」


 冷たく、そして鋭い言葉だった。

 当然の反応だ。

 俺が逆の立場でも、同じように呆れ、そして怒るだろう。

 科学的な知識と長年の経験で、言葉を持たない動物の命を救おうとしている彼女にとって、俺の軽はずみにも聞こえる言葉は、無責任な「犬好きの妄想」にしか聞こえないのだから。


 だが、俺には確かに聞こえているのだ。

 このまま適当に誤魔化してしまえば、クロの正確な症状は伝わらない。

 俺は少し迷った後、覚悟を決めて口を開いた。


「町田さん。

 ふざけているわけでも、妄想を語っているわけでもないんです。

 信じられないかもしれませんが……俺には、十歳を超えた老犬の言葉が、人間の言葉としてはっきりと聞こえるんです」


 診察室に、重苦しい沈黙が落ちた。

 町田さんは瞬きを一つし、俺の顔をまじまじと見つめた。

 その瞳には、哀れみすら浮かんでいるように見えた。


「……山城さん。

 あなた、お疲れなんじゃないですか?

 一人で何十匹もの老犬の世話をしてきて、精神的に少し……」


「狂ってませんよ。

 俺も最初は幻聴だと思いました。

 でも、違うんです。

 クロは今、確実に『お腹を触られるとムカムカする』と訴えました。

 腹水が溜まっている下腹部じゃなくて、もっと上の、胃腸のあたりです」


 俺が一歩前に出ると、町田さんは少しだけ後ずさった。

 完全に不審者を見る目だ。

 無理もない。

 獣医師という科学の徒に対して、超能力を主張しているようなものなのだから。

 町田さんが犬たちに向けている優しさや、保健所でこっそり語りかけていた言葉を俺が当てれば、信じてもらえるかもしれない。

 だが、それはあまりにもデリカシーがない。

 彼女のプライバシーを踏みにじるような真似をしてしまえば、町田さんは二度と、犬たちに本心を打ち明けられなくなってしまうだろう。

 だから俺は、別の方法を提案することにした。


「……言葉だけじゃ信じられませんよね。

 じゃあ、ちょっとしたゲームをしませんか」


「ゲーム……ですか?」


「ええ。

 俺は後ろを向いて、目隠しをします。

 町田さんは、ポケットの中にある小銭でも何でもいいですから、片方の手に握って隠してください。

 この犬たちが見ている前で、です。

 俺が彼らに正解を聞いて、見事に当ててみせたら……俺の言葉を少しは信じてくれますか?」


 俺の提案に、町田さんは心底呆れたように大きなため息をついた。


「子供の遊びですか?

 私は真面目に診察を……」


「お願いします。

 クロの正確な症状を伝えるために、どうしても信じてもらいたいんです」


 俺が真剣に頭を下げると、町田さんは渋々といった様子で白衣のポケットから十円玉を一枚取り出した。


「……分かりました。

 そこまで言うなら、付き合います。

 ただし、外れたら二度と私の診察中に憶測で口を出さないと約束してください」


「約束します。

 おい、ゲン、モモ婆ちゃん。

 ちょっとこっちに来て、町田さんの手元をよく見ててくれ」


 俺が声をかけると、待合室から柴犬のゲンと雑種のモモ婆ちゃんが、のっそりと診察室に入ってきた。

 俺は二人(二匹)に背を向け、両手でしっかりと目を覆った。


「さあ、町田さん。

 左右どちらかの手にコインを握って、準備ができたら教えてください」


 背後で、衣擦れの音が微かに聞こえる。


「……よし、いいですよ」


 町田さんの冷めた声が響いた。

 俺は目隠しをしたまま、背後にいる犬たちに問いかけた。


「ゲン、町田さんはどっちの手にあの丸い金属を持ってる?」


『あ?

 あの白いねえちゃんか。

 あいつ、右の手にあのピカピカしたやつを隠したぜ』


 ゲンの呑気な声が、脳内に直接響く。

 俺は迷わず口を開いた。


「右手ですね」


「……っ」


 背後で、町田さんが小さく息を呑む気配がした。


「偶然です。

 二分の一の確率ですからね」


「じゃあ、もう一回やりましょう。

 俺はずっと前を向いたままです」


 再び衣擦れの音がする。

 今度は少しフェイントを入れているのか、動く音が長かった。


「……どうぞ」


「モモ婆ちゃん、今度はどこだ?」


『あたしを巻き込むんじゃないよ。

 まったく……あのねえちゃん、意地悪だねぇ。

 どっちの手にも握ってないよ。

 左の白衣のポケットに滑り込ませたよ』


 モモ婆ちゃんの呆れたような声に、俺は思わず苦笑した。


「町田さん、意地悪ですね。

 どっちの手でもなく、左のポケットの中です」


「なっ……!?」


 ガタン、と背後で何かがぶつかる音がした。

 俺がゆっくりと振り返ると、町田さんは目を丸くして立ち尽くし、左のポケットから半ば無意識に十円玉を取り出していた。


「なんで……。

 どうして、分かったんですか?

 後ろに鏡なんてありませんよね……?」


「だから言ったでしょう。

 犬たちが教えてくれたんです。

 彼らは人間が思っている以上に、よく人間を観察していますよ」


 町田さんは信じられないものを見るような目で、俺と犬たちを交互に見比べた。

 彼女の科学的な常識が、音を立てて崩れ去っていくのが目に見えるようだった。

 俺は診察台の上で大人しくしているクロの頭を撫でた。


「俺の能力の証明は、これくらいで十分ですか?

 ……クロが『ムカムカする』と言っているのは本当なんです。

 エコーでも何でもいい、胃のあたりを詳しく診てやってくれませんか」


 町田さんはしばらく呆然としていたが、やがてゴクリと唾を飲み込み、震える手でエコーのプローブを手に取った。


「……分かりました。

 非科学的すぎて頭がおかしくなりそうですが……事実として受け入れます」


 町田さんはクロの腹部にゼリーを塗り、プローブを滑らせた。

 モニターに、白黒の不鮮明な画像が映し出される。

 彼女は画面を睨みつけながら、腹水の状態を確認し、さらに上の胃腸のあたりへとプローブを移動させた。

 先ほどまでの動揺は消え、その横顔は完全にプロの獣医師のものに戻っている。


「……胃壁は少し荒れていますが、老犬にはよくあることです。

 特に異常は……」


 言いかけた町田さんの言葉が、途切れた。

 彼女の目が、モニターの一点に釘付けになる。

 マウスを操作し、画像を拡大する。


「……これは。

 胃の出口付近、幽門部に……何か、小さな異物の影があります。

 腸に詰まるほどの大きさではありませんが、これなら食後に胃酸が分泌されるたびに、粘膜を刺激して軽い吐き気や不快感を……つまり、人間で言う『ムカムカする』症状を引き起こしてもおかしくありません」


 町田さんの声が、微かに震えていた。

 彼女はモニターから視線を外し、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。


「……本当に、聞こえるんですね」


「ええ。

 俺も、町田さんがいてくれて本当に助かります。

 今まで、痛いと訴えるこいつらに、俺は背中を撫でてやることしかできなかった。

 でも、町田さんなら、その痛みの原因を見つけて根本から取り除いてやれる」


 老犬の言葉がわかる俺と、それを医療の力で治療できる彼女。

 それは、言葉を持たない動物たちを救う上で、これ以上ない最強のタッグだった。


「……これから、忙しくなりますよ、山城さん。

 五十匹全員の問診を、あなたに通訳してもらいますからね」


「望むところですよ、町田先生」


 その夜。

 診察を終え、犬たちが寝静まった後の土間で、俺と町田さんは二人でコーヒーを飲んでいた。

 外からは秋虫の鳴き声が微かに聞こえ、部屋の中には老犬たちの穏やかないびきが響いている。


「……それにしても、犬があんなにおしゃべりだとは思いませんでした。

 『ご飯が硬い』だの、『右肩が凝る』だの……」


 マグカップを両手で包み込みながら、町田さんが苦笑する。

 今日一日、俺の通訳を通して老犬たちのワガママや文句を散々聞かされた彼女は、すっかり疲労困憊の様子だった。


「人間のお年寄りと同じですよ。

 不平不満が言えるのは、安心して甘えられる相手がいる証拠です」


「……そうですね。

 保健所にいた頃のあの子たちは、文句一つ言わず、ただ震えているだけでしたから」


 町田さんの視線の先には、柔らかい毛布の上で丸くなって眠るクロの姿があった。

 胃の異物は無事に内視鏡で取り除かれ、クロは久しぶりに「ムカムカしない」状態で、ぐっすりと眠りに落ちていた。


『……ありがとう、ねえちゃん。

 お腹、すごく楽になったよ……』


 寝言のように呟かれたクロの言葉を、俺は静かに町田さんに伝えた。


「クロが、お腹が楽になったって。

 ありがとうって言ってますよ」


 その言葉を聞いた瞬間、町田さんの目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼女は慌てて白衣の袖で目元を拭うと、照れ隠しのように小さく鼻を鳴らした。


「……獣医師になって、初めて患者から直接お礼を言われました。

 なんだか……不思議な気分です」


「これからも、嫌ってほど聞かされますよ。

 ここは、彼らのための楽園なんですから」


 温かいコーヒーの香りと、犬たちの寝息。

 俺の贖罪の旅は、ここからまた新しい形となって始まろうとしていた。

 月明かりが差し込む診察室で、新米獣医と老犬たちのカルテは、まだ一ページ目を刻んだばかりだった。

健太の理解者が一人増えました。

老犬たちが健康に、良い老後を送れるといいですよね。

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