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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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幕間録:004「月明かりの決意」

前向きに進む話です

 県動物愛護センターの重厚な門の前。


 町田亜子は一人、立ち尽くしていた。


 空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうな鈍色をしている。


 彼女の身分証は、すでに先週末で返却済。

 もう、この門をくぐる資格はない。


 それなのに、気がつけば足がここに向いていた。


 鼻の奥に染み付いた、独特の臭い。

 消毒液と、動物たちの体臭と、そして排泄物の入り混じった臭い。

 どれだけ手を洗っても、家に帰ってシャワーを浴びても、記憶の奥底にこびりついて離れないこの場所の臭いが、亜子はたまらなく嫌いだった。

 それなのに、どうしても離れられない自分がいることも、彼女は痛いほど自覚していた。



 その時、一台の軽バンが彼女の目の前で停まった。

 以前見送ったことのある、少し泥の跳ねた車体。

 窓が開き、多少は見覚えのある男が顔を出す。


 山城健太。


 余命いくばくもない老犬ばかりを好んで引き取る、変わった常連客だった。

 彼が最後にここを訪れてから、もう一月ほど経っただろうか。


「……おや。

 町田さんじゃないですか。

 こんなところで黄昏て…

 中にも入らないで、いったいどうしたんです?」


 山城は車から降りると、心配そうに亜子の顔を覗き込んだ。


「お体の具合が宜しくないのですか?

 ここ暫くお休みされてたみたいだったんで……」


 彼の言葉に、亜子は力なく首を振った。


「……いえ。

 特に体の不調はないんです…

 ただ……

 施設は、先週末で退所しました。」


「えっ……」


「自分でも、おかしいとは思うんです。

 辞めた職場にまた来るなんて。

 でも……自然と足がここに向いてしまって……。

 正直、これから何をしたらいいのか、わからないんです。」


 ぽつりと溢れた本音。

 獣医師免許を持ちながら、臨床の現場ではなく行政を選んだのは、「捨てられる命を水際で救いたい」という理想があったからだ。

 だが、現実は残酷だった。

 流れ作業のように処理されていく命。

 救えるのは氷山の一角にも満たない。

 精神をすり減らし、逃げるように辞めてしまった自分には、もう獣医を名乗る資格さえないのではないか。


 山城はしばらく黙って亜子を見ていたが、やがてポケットから一枚の紙を取り出した。

 それは、どこかの土地の地図と、古い平屋の写真だった。


「俺もね、ちょうど悩んでたことがあるんですよ。

 町田さんのおかげで引き取った犬たちも、思いのほか元気になりましてね。

 家に犬が増えすぎて、さすがに手狭になってきたんです。」


「……はぁ。」


「そうしたら、とある縁がありまして。

 高齢で引退することになった優良ブリーダーの老夫婦から、後継ぎもいないからと、平屋の飼育施設を譲ってもらえることになったんです。

 自分がいろいろ老犬ばかり引き取ってるとうわさで聞いてたようで、わざわざ連絡してきてくれたんですよ。

 なんと裏山付きの平屋施設で、ドッグランも完備。

 老犬たちの楽園にするには最高の場所ですよね~」


 山城は子供のように目を輝かせて語る。

 だが、すぐに困ったように頭をかいた。


「ただ、新しく老犬たちのために平屋の施設として運営していくには、俺一人じゃ手が足りない。

 それに、老犬ホームをやるには、どうしても医療の壁がある。」


 山城は亜子の目を真っ直ぐに見つめた。


「町田さん。

 再就職先が決まっていないなら、俺と一緒に『老犬ホーム』やりませんか?」


「……え?」


 山といっても施設自体はふもとにあって町からのアクセスもいいし、建物とかもそれなりに立派な作りなんです。

 そこを改装して、動物病院として経営してほしいんです。

 家賃はいりません。

 さすがに光熱費とか全部タダってのは無理ですけどね。

 その代わり、うちの老犬たちのために行きつけが必要だから、その部分を無料でみてくれるならと、ちょっと図々しいお願いですかね?」


 あまりに唐突な提案。

 だが、山城の目は真剣だった。


「多分でしかないですが、町田さんも十分悩んでこられたんだと思います。

 今度は違うアプローチで、目の前の命を救う仕事をしませんか。

 俺には、うちの老犬たちには、あなたの腕と……その優しさが必要なんです。」


 亜子の胸の奥で、燻っていた火種が小さく跳ねた気がした。

 必要とされている。

 システムの一部としてではなく、獣医師としての私を。


「……少し、考えさせてください。」


 震える声でそう答えるのが精一杯だった。


 山城がそっと名刺を差し出すと、私は条件反射的にそれを受け取る。

 彼は「ええ、いい返事を待ってますよ」と言って、優しく笑いながら軽バンに乗って去っていった。



 自宅に戻った亜子は、熱いシャワーを浴びて体の芯まで温まったはずなのに、指先の震えが止まらなかった。


 リビングのソファに深く沈み込み、スマートフォンを握りしめる。

 誰かの声が聞きたかった。


 呼び出し音が数回鳴り、懐かしい声が聞こえた。


『もしもし、あら?亜子?

 どうしたの、珍しい時間に。』


 田舎に住む母の声だった。

 何の気なしにかけたはずなのに、その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。


「ううん……ただ、声が聞きたくて。」


『……そうかい?

 なんだか、元気がないねぇ。

 仕事、大変なのかい?』


 母には、まだ仕事を辞めたことを伝えていなかった。

 母の鋭い指摘に、亜子は言葉に詰まる。


 その時、ふと古い記憶が蘇った。

 まだ幼かった頃、傷ついた野良猫を拾って帰り、必死に看病していた時のことだ。

 今は亡き祖母が、亜子の頭を優しく撫でて言った言葉。


『亜子ちゃんは、優しいね。

 その優しさがあれば、きっといい獣医さんになるよ。』


 そうだ。

 私は、誰かを「処分」するためじゃない。

 誰かの痛みに寄り添い、その最期までを守り抜くために、獣医になったのだ。


 山城が提示したのは、安定した道とは程遠い、泥舟のような未来かもしれない。

 けれど、あの人の周りには、確かに私が求めていた「生」があった。


「……ううん、大丈夫。

 私ね、新しい場所で頑張ってみようと思うの。」


『そうかい。

 亜子がそう言うなら、母さんは応援してるよ。』


「……ありがとう。

 また、電話するね。」


 通話を切ると、亜子は一つ大きく深呼吸をした。

 もう、迷いはなかった。


 山城の名刺の番号を表示させ、発信ボタンを押す。


「……もしもし、山城さんですか?

 町田です。」


 窓の外、厚い雲の隙間から、一筋の月明かりが差し込んでいた。


「先ほどのお話……お受けします。

 私を、そちらの『家族』に加えていただけませんか?」


 それは、彼女の新しい人生の始まりを告げる、確かな決意の言葉だった。

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