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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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幕間録:003「雨宿りの哲学者」

ちょっと方向性変わるかなって思って書きました。


 保健所から引き取った老犬たちとの暮らしが、ようやく日常の輪郭を帯びてきた頃だった。


 最近では、朝はモモ婆ちゃんの伸びで目が覚め、昼はゲンの寝返りで床が軋み、夕方にはバロンの低い咳払いが散歩の合図になっていた。


 そんなリズムが、いつの間にか俺の時間の中心になっていた。


 梅雨の入り口、空気は湿り、風はどこか重たかった。


 散歩の帰り道、曇天の下を歩いていると、いつの間にか一匹の老犬が俺の横に並んでいる。


 白髪の混じった茶色い雑種だ。片目は白く濁り、歩くたびに関節がコキコキと音を立てる。首輪はなく、だが妙に堂々としていた。


 長年この道を歩いてきた常連のように、俺の歩幅に自然と合わせてくる。


「おいおい、誰だお前?

 迷子犬か?

 ……

 まさか家出じゃないだろうな?」


 俺が声をかけると、老犬はちらりとこちらを見上げた。


 その目は濁っているはずなのに、どこか澄んで見えた。


『迷子でも……家出でもない。

 家が、もう無いだけだ。』


 その声は、達観した老人のように静かだった。


 ぽつ、ぽつと雨が落ち始める。


 冷たい滴がアスファルトを叩き、湿った風が吹き抜ける。


 老犬は空を見上げ、ため息をついた。


『雨か……。

 濡れるのは嫌いだ。

 骨に染みる。』


「じゃあ、うちで雨宿りしていくか?」


『……

 ふむ。

 では、そうしよう。

 雨宿りだ。

 あくまでも、雨宿りだぞ。』


 言葉の端々に、妙なプライドが滲んでいた。


 俺は苦笑しながらも、傘を犬の頭上に軽くかざした。


 老犬は一瞬だけ顔を上げ、俺の手の甲に鼻先を擦りつけた。


 冷たい雨粒が二人の間を滑り落ちる。


 家に着くと、先輩犬たちが一斉に玄関へ集まってきた。


 モモ婆ちゃんがじろりと新入りを見つめる。


『あんた……誰だい?

 勝手に入ってきて。

 ま、別にいいんだけどね。』


『雨宿りだ。

 雨が止んだら帰る。

 ……たぶん、だがな。』


 ゲンが鼻をひくつかせる。


『たぶんって何だよ?

 帰る気ないだろ?

 心配すんな。

 どうせ帰りたくなくなるからな。』


『……まあ、状況次第だ。

 雨が長引けば、それは仕方ないというものだ。』


 俺は靴を脱ぎながら老犬の顔を覗き込んだ。


 汚れた毛並みの合間に見える瞳には、かすかな光が宿っている。


 どこかで誰かに撫でられた記憶が残っているような、そんな気配だ。


「お前、名前は?」


 老犬は少し考え込んだ。


『……昔は呼ばれていたが、忘れた。

 名前というものは呼ばれなくなって久しい。

 好きに呼べ。』


「じゃあ……“サブ”でどうだ?」


『……悪くない。

 短くて覚えやすい。

 採用しよう。』


 サブは家に入るなり、俺の座椅子を当然のように占拠した。


 丸くなり、ふぅと息を吐く。


『……良い椅子だ。

 ここは暖かく、そしていい場所だ。

 雨宿りには最適といって過言はないな。』


「おい、それ俺の定位置なんだが?」


『雨が止むまでだ。』


 モモ婆ちゃんが呆れたように言う。


『あんた……

 たぶんっていうか、絶対に帰らないね。』


 サブは目を閉じたまま、静かに答えた。


『……帰る家自体が無いのだ。

 それでも居場所は欲しい。

 犬も人も同じ感情だろう?』


 その言葉に、俺は黙り込んだ。


 サブの声は、老獣の静かな哲学のように響いた。


 外では雨が音を立て、家の中は犬たちの呼吸だけが満ちている。


 俺はその静けさの中で、これからのことを考えた。


 サブをどう扱うか。


 保健所に連絡するのか。


 だが、答えは既に決まっているようにも思えた。


 犬たちがここにいる理由は、俺がここにいる理由と重なっているのだ。


 日が傾く頃、家の中は柔らかな橙色に包まれていた。


 窓際のサブは、日差しを浴びて毛並みの汚れが少しだけ光を帯びている。


 俺は台所で湯を沸かしながら、ふとサブの耳の形を見た。


 片方が少し欠けている。


 どこかで喧嘩をした跡だろうか。


 だが、その顔には怒りも怯えもなく、ただ静かな諦観が宿っていた。


「お前、前の家では何をしてたんだ?」


 俺の問いに、サブはゆっくりと首を傾げた。


『……特別なことはしていなかった。

 朝飯をもらい、昼は日向で寝て、夜は膝の上で眠った。

 ただ、それだけだ。』


「それで?

 そのまま置いていかれたのか?」


『二人とも、先に逝った。

 寿命の問題だ。

 家は売られ、荷物は運ばれ、俺はそこに残された。』


 言葉は淡々としていたが、そこに含まれる喪失は深かった。


 俺は無意識に包丁の柄を握る手に力を入れていた。


 保健所で見た光景が、ふと頭をよぎる。


 夕飯の支度を終え、俺はサブの前に小さな皿を置いた。


 湯気が立ち上り、匂いが部屋に広がる。


 サブは一瞬だけ皿を見つめ、ゆっくりと鼻を近づけた。


 慎重に、しかし確実に口をつける。


 食べる速度は遅いが、確かに食べている。


『……美味い。

 久しぶりだ。』


 その様子を見ていたほかの老犬たちも、その言葉に安堵したように各々の夕飯に食らいついた。


「よかったな。」


 その言葉が、妙に軽く感じられた。


 だが、サブの目が少しだけ潤んだのを見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 犬の感情は単純だ。


 満たされれば満たされるほど、心は穏やかになる。


 俺がここにいる理由も、結局は同じなのかもしれない。


 食後、サブは窓辺で外を眺めていた。


 通りを行き交う人々、子供の声、遠くで鳴るバイクの音。


 すべてが彼の世界の一部になっていく。


『ここは静かだな。』


「そうだな。

 落ち着くか?」


『あぁ、落ち着く。

 だが、時々思い出す。

 あの匂い、あの声、あの手の温もり。』


 サブの声は遠くに響くようだった。


 俺はそっと彼の頭を撫でた。


 毛はざらついているが、温かい。


 その夜、俺は書斎の灯りの下で古いノートを開いた。


 保健所から引き取った犬たちの記録、町田さんとのやり取り、そして自分の思い出。


 ノートの端には、クロの名前が小さく書かれている。


 あの時、クロが水を飲んだ瞬間、俺は何かを取り戻した気がした。


 だが、取り戻したのは何だったのか。


 赦しなのか、救済なのか、それとも単なる自己満足なのか。


 サブの寝息が遠くから聞こえた。


 部屋の中は思いのほか静かだ。


 俺はノートをそっと閉じ、窓の外に目を向けた。


 雨は上がり、路面にはまだ水たまりが残っている。


 街灯が水面に反射し、淡い光の帯を作っていた。


 ふと、バロンが廊下を歩く音がする。


 彼は相変わらず夜警の癖が抜けない。


 だが、最近はその唸りも少しずつ弱くなってきていた。


 仲間たちの存在が、彼の中の何かを溶かしているのだろう。


「おい、バロン。

 もう寝ろよ。」


 俺の声に、バロンは一瞬だけこちらを見て、低く唸ったが、やがて床に伏せた。


 犬たちの呼吸が揃い、家は柔らかなリズムに包まれる。


 その夜、俺は眠れなかった。


 サブの過去が、俺の過去と重なり合う。


 俺は何度も自分に問いかけた。


 なぜここまでして犬を救うのか。


 答えはいつも単純だ。


 救わなければならないからだ。


 サブのような存在が一匹でもここに居続け、満足できることこそが、自分の存在を意味するのだと信じたい。


 そんな自分がいる。


 窓の外、遠くで犬の鳴き声が一度だけ響いた。


 俺はそれを聞きながら、静かに目を閉じた。


 明日もまた、犬たちとの暮らしがある。


 散歩があり、餌やりがあり、時には病院の手配もある。


 だが、それらはすべて、ここにある小さな秩序を守るための当たり前の姿だ。


 秩序は、誰かが手を差し伸べることでしか生まれない。


 眠りに落ちる前、俺は小さく呟いた。


「嫌じゃなくならない限りここにいてくれ、サブ。

 無理にとは言わない。

 今はここがおまえの居場所だ。」


 サブの寝息が、かすかに応えるように震えた。


 俺はその音を胸に刻み、ようやく閉じた目に暗闇が訪れた。

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