幕間録:002「真夜中の労働者」
こういうのをもう少し増やしたいですね。
保健所から引き取った老犬たちとの共同生活にも慣れ、季節が一つ巡った頃のことだ。
我が家でちょっとしたトラブルが起き始めていた。
原因は、新しく引き取った大型犬の『バロン』だ。
バロンは、シェパード色強い雑種の雄だ。
年齢は推定12歳。
薄汚れた毛並みと、片耳が少し欠けているのが特徴で、何処か荒っぽい世界を生きてきた雰囲気を纏っている。
彼は元々、とある町工場の資材置き場で飼われていた「番犬」だった。
ペットではない。
泥棒除けの警報装置代わりとして、雨の日も風の日も、重たい鎖に繋がれたまま外で生きてきた犬だ。
工場が廃業し、土地が売却されることになった時、彼は「不要な備品」として保健所に持ち込まれたのだという。
問題は、彼が夜中になると俺の寝室のドアの前に陣取り、低い唸り声を上げ続けることだった。
丑三つ時。
静寂を切り裂くような低い唸り声で、俺は目を覚ました。
「グルルルル……。」
喉の奥から絞り出すような、威嚇の音。
俺は重い瞼をこすりながらベッドから起き上がり、ドアを開けた。
そこには、暗闇の中で仁王立ちになり、廊下の突き当たりを睨みつけているバロンの姿があった。
「おいバロン。
どうしたんだ、トイレか?」
俺が声をかけても、バロンは視線を外さない。
全身の毛を逆立て、見えない敵と対峙しているようだ。
『……異常なし。
だが、風の音が変わった。
油断はできない。』
バロンの思考が、緊張感を持って脳内に響く。
俺はため息をつきながら部屋を見渡した。
俺のベッドの上や足元のラグには、すでに引き取った老犬たちが思い思いの場所で丸まり、寝息を立てている。
ここには、平和しかないのだ。
「誰もいないぞ。
お前ももう引退したんだ、ゆっくり寝ろよ。」
俺はバロンの背中を撫でて宥めようとした。
だが、バロンの体は石のように硬く強張ったままだ。
触れられることにすら慣れていない反応だった。
『……寝てしまったら、仕事ができない。
仕事をしなければ、飯が食えない。
俺はまだ役に立つ。
だから……捨てないでくれ……。』
バロンの声に、焦りと恐怖が混じる。
彼にとって、「生きること」は「働くこと」とイコールだったのだ。
不審者を追い払い、吠え立て、役に立っていることを証明しなければ、餌を貰えない。
雨風を凌ぐ小屋も与えられない。
そうやって十年以上、鎖の範囲だけで生きてきたのだ。
工場の親父に捨てられた時の記憶が、トラウマのようにこびりついているのだろう。
「もう工場は閉めるから、お前はいらない」と言われた絶望が。
『俺は……俺はまだやれる。
昨日の飯の分は、働かないといけないんだ。』
老いた体で必死に眠気を堪え、虚空を睨むその姿。
それは忠義などという綺麗なものではなく、生きるための哀しい強迫観念だった。
俺はため息を一つつくと、バロンの隣にどっかりと座り込んだ。
冷たいフローリングの感触が、パジャマ越しの尻に伝わってくる。
「いいかバロン、ここは工場じゃない。
俺の家だ。」
『……だから、俺が警備を……』
「警備なんかいらない。
うちはな、働いたら負けなんだよ。」
『……は?』
「俺を見ろ。
遺産で食いつないでる、どうしようもないニートだ。
毎日散歩して、飯食って、寝てるだけだろ?
俺が働いてないのに、お前だけ働かせるわけにはいかないんだよ。」
バロンは呆気にとられたように口を開けた。
理解が追いついていないようだ。
「前の飼い主は、お前を道具だと思ってたかもしれない。
でも俺は違う。
ここではな、仕事なんかなくても飯が出る。
役に立たなくても、生きてていいんだ。」
俺はバロンの痩せた首筋に腕を回した。
薄汚れた首輪の跡が、まだ残っている。
そのハゲた皮膚を、俺は掌でゆっくりと摩った。
「お前の今の仕事だがな、まずは『安心して寝ること』だ。
分かったか?」
バロンはしばらくの間、じっと俺の顔を見ていた。
その瞳の中で、こびりついた労働者の性根と、初めて触れる安らぎがせめぎ合っているようだった。
その時だった。
『……あーもう、うるさいねぇ。
夜中に男同士でボソボソと、愛の語らいかい?』
部屋の奥から、呆れたような声が飛んできた。
ベッドのど真ん中を占拠していた、雑種の『モモ』婆ちゃんだ。
彼女は大きなあくびを噛み殺しながら、のっそりと顔を上げた。
『新入りさんや。
健太の言う通りにしときな。
あたしら年寄りはね、寝るのが仕事さ。』
それに続いて、足元で寝ていた柴犬の『ゲン』も、眠そうに目を細めて口を開く。
『ふあぁ……そうそう。
あんたがそこで突っ立ってると、隙間風が入って寒いんだよ。
とっととこっちに来て、風除けになってくれよ。』
『……俺は、そこで寝てもいいのか?
そこは、主の寝床だろう?』
バロンが戸惑ったように尋ねると、モモ婆ちゃんがニヤリと笑った。
『なーに言ってんだい。
ここはあたしらの寝床さ。
健太は隙間で寝させてやってるだけだよ。
ほら、ここが空いてるよ。』
モモ婆ちゃんが、自分の尻をずらして僅かなスペースを作った。
暖かそうな、布団の上だ。
バロンはおずおずと俺の顔を見た。
俺は苦笑して、顎をしゃくった。
「ほら、先輩たちの命令だ。
行ってこい。」
『……すまない。
失礼する。』
バロンは恐縮しながら、それでも吸い寄せられるようにベッドへ近づき、モモ婆ちゃんとゲンの間に体を潜り込ませた。
老犬たちの体温が、冷え切ったバロンの体を包み込む。
『……暖かいな。』
『当たり前さ。
くっつけば暖かい。
それが一番大事なことさね。』
モモ婆ちゃんが、母親のようにバロンの顔をひと舐めした。
バロンは驚いたように目を白黒させていたが、やがて全身の力を抜き、ふぅー、と長く深い息を吐き出した。
『……そうか。
寝るのが仕事、か……。
悪くない……。』
数分もしないうちに、バロンは泥のように眠りに落ちた。
雨風に晒されることのない室内で、仲間の体温を感じながら眠る夜。
それは彼が生まれて初めて手に入れた「有給休暇」だったのかもしれない。
「……たく、俺の寝る場所がねぇじゃねえか。」
俺は苦笑しながら、犬団子と化したベッドの端っこ、僅かに空いたスペースに体をねじ込んだ。
狭い。
重い。
そして、獣臭い。
だが、部屋中に響き渡る大合唱のようないびきを聞いていると、不思議と心は穏やかだった。
かつて鎖に繋がれ孤独だった魂が、今ここで仲間と共に無防備に寝息を立てている。
その事実が、何よりも俺の心を安らがせてくれた。
モフモ布団です。




