幕間録:001「鉄の扉の向こう側」
無機質なコンクリートの建物には、特有の匂いが染み付いている。
鼻を突く消毒液のツンとした刺激臭。
古びた鉄錆の匂い。
そして、それらを覆い隠そうとしても隠しきれない、獣たちの体臭と排泄物の臭気。
それらが混ざり合った独特の空気は、ここに漂う「死」の気配そのもののように思えた。
俺、山城健太は、愛車である軽バンのエンジンを切り、その建物――県動物愛護センター、通称「保健所」の駐車場に降り立った。
曇天の空から、冷たい小雨が降り始めている。
憂鬱な天気だ。
だが、これから俺が向かう場所にいる連中の心に比べれば、こんな天気は快晴みたいなものだろう。
俺は深く息を吐き出し、重たい鉄の扉を開けた。
受付の窓口には、いつものように一人の女性職員が座っていた。
町田さん。
下の名前は知らない。
年齢は二十代後半から三十代前半といったところか。
黒髪を後ろでひっつめ、銀縁の眼鏡をかけた彼女は、いかにも「お役所仕事」といった風情の事務的な雰囲気を纏っている。
俺の顔を見ると、彼女は露骨に眉間の皺を深くした。
「……山城さん。
また、いらしたんですか。」
あまり歓迎されていない感じなのは、その声音を聞けば自分でも分かる。
無理もない。
平日の昼間からふらりと現れ、金にもならない、それどころか金と手間だけがかかる「殺処分寸前の老犬」ばかりを引き取っていく男だ。
彼女の目には、俺が奇特な慈善家に見えるよりも先に、何か裏のある不審者として映っているのだろう。
「ああ、町田さん。
今日は生憎の天気ですね。」
俺ができるだけ愛想よく挨拶をしても、彼女の鉄仮面は崩れない。
「天気の話は結構です。
……先月引き取られた柴犬の『ゲン』ですが、その後、変わりはありませんか?」
そう話す彼女の手元にある書類には、俺がこれまで引き取っていった犬たちの情報が記録されている。
書類に向ける彼女の視線は鋭い。
動物虐待の目的で引き取る人間や、実験動物として売り払う業者が紛れ込んでいないか、常に警戒している目だ。
俺はそんな彼女の警戒心を解くように、少しだけ肩をすくめて見せた。
「ゲンなら元気ですよ。
最初は夜泣きが酷くて、俺も参ってたんですけどね。
俺の煎餅布団の横に寝床を作ってやって、一晩中背中を撫でてやったらようやく落ち着きました。
今も毎晩一緒に寝てますよ。
そうそう、最近じゃ縁側がお気に入りの場所で、俺の代わりに庭の警備をしてくれてます。」
俺がそう答えると、町田さんは強張らせていた肩の力を、ほんの少しだけ抜いたように見えた。
「……そうですか。」
彼女は眼鏡の位置を指で直しながら、小さなため息交じりに言葉を続ける。
「ゲンは、前の飼い主から『無駄吠えがうるさい』という理由で持ち込まれた子でした。
近所からの苦情も来ていたそうで、新しい環境でも吠え続けているんじゃないかと。
ちょっと心配していたんです。」
無駄吠え、か。
人間というのは、自分に都合の悪い声をすべて「無駄」と切り捨てる生き物らしい。
「いやぁ、別に『無駄』吠えって訳じゃなかったんだけどな。」
俺がつい、独り言のように漏らすと、町田さんが怪訝な顔をした。
「え?」
「ゲンはずっと『寂しい』『こっちを見て』って言ってるだけなんですよね。
あんまり構って貰えなかったみたいなんで。
ただ、その伝え方が不器用で、声も少し大きかっただけで…あ」
しまった、と思った時には遅かった。
町田さんの瞳に、再び不審の色が宿る。
「なぜ、それが分かるんですか?
そこまで詳しい情報はお伝えしていないはずですが…」
当然の疑問だ。
俺には「10歳を超えた老犬の言葉が分かる」という、誰に話しても鼻で笑われるような能力がある。
だが、それを正直に話したところで、この堅物そうな職員が信じてくれるはずもない。
下手をすれば頭のおかしい男だと判断され、今後の引き取りを拒否されかねない。
俺は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
「いや、まあ長年、一人暮らしでずっと犬と暮らしてきてますから。
犬の顔を見れば、なんとなく分かるようになったんですよ。
あいつは寂しがり屋の顔をしてましたからね。」
「……そうですか」
町田さんは納得していない様子だったが、それ以上追求はしてこなかった。
彼女は手元のファイルを閉じ、事務的な口調に戻る。
「では、今日の手続きに入りましょう。
今日、収容期限を迎える子が何頭かいます。
山城さんのご希望に添えるような子は…」
「希望?」
「山城さんはいつも、状態の悪い老犬ばかりを選ばれますから。
今日は特に……その、酷い状態の子がいるのですが…」
彼女の言葉の端々に、隠しきれない苦悩が滲んでいる。
この仕事をしている人間にとって、救えない命を目の当たりにするのは日常茶飯事だろう。
慣れてしまえば楽なのだろうが、この人は恐らく、慣れることができない側の人間なのだ。
だからこそ、いつもあんなに険しい顔をしているのかもしれない。
「構いませんよ。
とりあえず、会わせてくれませんか」
案内されたのは、施設の奥にある個別房だった。
コンクリートの床と鉄格子で仕切られただけの、冷たく狭い空間。
そこには、一匹の犬が横たわっていた。
雑種の中型犬だ。
かつては黒かったであろう毛並みは、汚れと皮膚病でボロボロになり、所々ハゲて皮膚が露出している。
あばら骨が浮き出るほど痩せているのに、腹だけが異様に膨らんでいた。
「推定13歳のオスです。
フィラリアが進行していて、腹水がかなり溜まっています。」
町田さんが痛ましそうに説明する。
「元の飼い主からは、『もう長くないから、そちらで処分してくれ』と。」
俺は鉄格子の前にしゃがみ込み、その犬を観察した。
犬は、俺たちが来たことにも反応しない。
ただ床に突っ伏し、浅く速い呼吸を繰り返しているだけだ。
目は半開きで、焦点が合っているのかどうかも怪しい。
「ここに来てから三日目ですが、食事も水も、一切口にしていません。
点滴はしましたが、もう……」
町田さんが言葉を濁す。
これ以上生かしておくことが慈悲なのか、それとも安楽死させることが慈悲なのか。
彼女の中で、答えの出ない問いが渦巻いているのが伝わってくる。
俺は静かに、その犬――仮に『クロ』と呼ぼう――に意識を集中した。
聞こえるか。
お前の声は、俺に届くか。
10歳を超えた老犬ならば、俺にはその思考が言語として聞こえるはずだ。
だが、クロからは何の反応も返ってこない。
あまりに衰弱が激しく、思考することすら放棄してしまったのだろうか。
「山城さん、無理です。
この子はもう、生きる気力がありません。
連れて帰っても、車の中で亡くなる可能性が高いです」
町田さんが背後から声をかける。
彼女なりの、残酷な現実を告げる優しさなのだろう。
だが。
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
『……ず……』
脳内に、ノイズ混じりのラジオのような、微かな音が響いた。
俺は動きを止めた。
『……み……ず……』
それは、声と呼ぶにはあまりに頼りない、魂の振動のようなものだった。
『……水が……飲みたい……』
生きたい、という叫びではない。
ただの生理的な欲求。
だが、そこには明確な「意志」があった。
俺はクロの視線の先を追った。
数メートル離れた鉄格子の隅に、ステンレス製の水入れが置かれている。
だが、今のクロには、そこまで這って行く体力すら残されていないのだ。
喉が渇いているのに、水はすぐそこにあるのに、飲むことができない。
それが、この老犬を襲っている絶望の正体だった。
「町田さん」
俺は鉄格子を握りしめたまま、振り返らずに声をかけた。
「すいませんが、あの水入れを、口元まで寄せてやってくれませんか」
「え?」
町田さんが戸惑った声を上げる。
「ですが、さっき補充した時も、見向きもしませんでしたよ?
もう嚥下する力も残ってないんじゃ……」
「いいから。
喉が渇いてるみたい…に思えるんです。
動くのが辛くて飲みに行けないだけなのかなって。」
「……分かりました」
町田さんは半信半疑のまま、鍵束を取り出して重い扉を開けた。
彼女が中に入ると、クロの耳がピクリと動いたが、顔を上げる力はないようだった。
町田さんは水入れを手に取り、ゆっくりとクロの鼻先に置いた。
「ほら、お水よ。
どう?飲める?」
彼女の声は、先ほどの事務的な口調とは違い、幼子に語りかけるように優しかった。
水面の揺れる音が、静寂の中に響く。
クロの鼻が、ヒクヒクと動いた。
次の瞬間。
死んだように動かなかったクロが、震える前足で床をかき、必死に首を伸ばした。
そして、バシャリと顔を水に突っ込むようにして、舌を動かし始めたのだ。
チャプ、チャプ、チャプ。
静かな部屋に、水を啜る音が響き渡る。
それは決して勢いのある音ではなかったが、確かに「生きよう」とする音がした。
「……飲んだ」
町田さんが息を呑む気配がした。
「嘘……あんなに、動かなかったのに……」
俺は黙って、その光景を見つめていた。
クロは休み休み、それでも懸命に水を飲み続けた。
器の水が半分ほど減ったところで、クロは満足したのか、ふう、と大きく息を吐いて床に顎を乗せた。
その時。
はっきりとした声が、俺の頭の中に響いてきた。
『……あぁ……。
生き返った……。
冷たくて……美味い……。
ありがとう……ねえちゃん……』
それは、純粋な感謝の言葉だった。
自分を捨てた人間を恨むでもなく、自分の運命を嘆くでもなく。
ただ、最後に一杯の水をくれた人間への、温かな感謝。
俺の目頭が、不覚にも熱くなった。
俺は慌てて顔を背け、町田さんに声をかけた。
「ありがとう、だってさ」
「はい?」
町田さんが目を丸くして俺を見る。
俺は肩をすくめて、照れ隠しに軽口を叩いた。
「いや、なんでもないです。
まあ、これだけ水を飲む元気があれば、連れて帰るのは大丈夫でしょう。
手続きをしましょうか。
この子は俺が連れて帰ります。
家にはほかの犬もいますから。
ちょっとは寂しさも紛れるんじゃないですかね。」
町田さんはしばらく呆然としていたが、やがてハッとしたように立ち上がった。
「……はい、分かりました。
すぐに書類を用意します」
房を出ていく彼女の足取りは、心なしか先ほどよりも軽やかに見えた。
事務室に戻り、譲渡の書類にサインをする。
窓の外では、相変わらず冷たい雨が降り続いていた。
だが、俺の心の中には、小さな灯火がともったような温かさがあった。
クロ――いや、新しい名前を考えてやらなきゃな――をケージに入れ、車に乗せる準備を整える。
帰り際、町田さんが玄関まで見送りに来てくれた。
「山城さん」
呼び止められて振り返る。
彼女は、俺と、俺の腕の中のケージを交互に見て、深く頭を下げた。
「あの……また、お願いします。
あの子たちには、時間がありませんから。」
顔を上げた彼女の表情を見て、俺は少し驚いた。
いつも強張っていた眉間の皺が消え、口元には微かだが、確かな笑みが浮かんでいたからだ。
「……ああ、任せてください。
俺の家は、まだまだ空きがありますからね。」
俺は短く答えて車に乗り込んだ。
バックミラー越しに見える町田さんは、俺の車が見えなくなるまで、雨の中で頭を下げ続けていた。
俺のような、親も見捨て、犬も見捨てた屑人間でも、少しは信用されたらしい。
その事実は、俺の背負った罪を軽くするわけではない。
だが、これからの長く険しい贖罪の道を歩む上で、ほんの少しの勇気をくれるような気がした。
「さて、帰ろうか。
家に着いたら、もっと美味い水を飲ませてやるからな。
他の爺さん連中と仲良くしてくれよ?」
助手席のケージに声をかけると、
『……ああ……楽しみだ……』
という、枯れてはいるが、安らかな声が返ってきた。
ワイパーが雨粒を弾き飛ばす。
俺はアクセルを踏み込み、愛犬たちの待つ家へと車を走らせた。




