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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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2/6

メイン後編:黄昏の守り人

後編となります。

宜しくお願いいたします。

「山城さん、今日引き渡すのはこの二頭です」


保健所の裏口、無機質な鉄の扉の前で、顔なじみの職員が申し訳なさそうに頭を下げた。

檻の中には、対照的な二匹の犬がいた。

一匹は、まだあどけなさの残るミニチュアダックスフンド。

つぶらな瞳でこちらを見て、尻尾をパタパタと振っている。

そしてもう一匹は、白内障で瞳が白く濁り、痩せこけて骨が浮き出たビーグル犬だった。

ビーグルは部屋の隅で丸まり、ピクリとも動かない。


「若い方は、こちらの譲渡会リストに載せればすぐに里親が見つかると思います。

 ですが、こちらの老犬は……。

 持ち込まれた時点で衰弱が激しく、餌も水も受け付けません。

 元の飼い主によると十五歳だそうで……」


職員の言葉尻が濁る。

十五歳。人間で言えば八十歳近い高齢だ。

新しい飼い主が見つかる可能性は限りなくゼロに近い。

このままここにいれば、数日後には二酸化炭素による「処分」が待っている。


「老犬の方は、俺が連れて行きます。いつも通りに」


「……本当に大丈夫なんですか?

 山城さんの施設、もう相当な数でしょう。

 それに、看取るというのは精神的にも……」


「大丈夫です。あいつらにとっては、俺のところが最後の安息地ですから。

 それに、俺にはこれしか能がないんでね」


俺は笑って見せ、書類にサインをした。

慣れた手つきでビーグルを抱き上げる。

軽い。羽毛のように軽かった。

本来あるべき肉の重みがなく、骨組みだけを抱いているようだ。

ビーグル――書類には『エルザ』とあった――は、俺の腕の中でビクリと震え、諦めたように脱力した。


助手席に専用のケージを固定し、エルザを乗せる。

車が走り出すと、エルザは小さく鼻を鳴らした。


「やあ、エルザ。

 今日から君は俺の家で暮らすんだ。

 狭いケージよりはマシなはずだぞ。覚悟しておけよ?」


俺が話しかけると、突っ伏していたエルザがゆっくりと頭を持ち上げた。

白く濁った瞳が、不思議そうに俺の方を向く。

そして、枯れた声が俺の脳内に響いてきた。


『あなた……もしかして、私の言葉がわかるのかしら?』


老犬特有の、知性と諦観が入り混じった落ち着いた声だった。


「ああ、わかるよ。

 そんなことはどうでもいい。

 餌を食べないって聞いたぞ。腹は減ってないのか?」


俺が平然と答えると、エルザは驚きのあまり目を見開き、そしてすぐに自嘲するように鼻を鳴らした。


『驚いたわね……人間にも、犬の言葉がわかる変わり者がいるなんて。

 でも、無駄よ。

 私はね、もう生きていたくないの』


エルザは窓の外へ視線を逸らす。


『十五年よ。十五年間、私はあの家族に尽くしてきたわ。

 子供たちが生まれた時は、揺り籠のそばで番をした。

 泥棒が入りそうになった時は、喉が枯れるまで吠えて追い払った。

 でもね、私が年老いて、粗相をするようになったら……彼らは私を見る目を冷たくしたわ。

 「汚い」「臭い」「もう死ねばいいのに」

 そう言われた時、私の中で何かが切れたの。

 私はもう、必要とされていない。

 愛されていない犬が生きていて何になるの?

 だから、もう食べる必要なんてないのよ……』


淡々と語るその声には、深い絶望と、かつての家族への愛着が滲んでいた。

老犬を捨てる飼い主の言い分はいつも同じだ。

「引越し先がペット不可だから」「子供がアレルギーになったから」「介護しきれないから」。

嘘だ。

要するに、可愛くなくなった玩具がいらなくなっただけだ。

腐るほど見てきた、人間の身勝手さ。

胸の奥でどす黒い怒りが渦巻くが、それを表情には出さず、俺はハンドルを握り直した。


「そうか。まあ、それもいいだろう」


『え?』


「そうやって絶望して死んでいった老犬は山ほどいる。

 それがアンタにとって一番満足な死に方なら、俺は無理に止めたりしない。

 俺の仕事は、老犬の最期を看取ることだけだからな」


突き放すような俺の言葉に、エルザがムッとした気配を見せた。


『な……何よ、冷たい男ね!

 こんな最期が一番なわけないでしょ!?

 そりゃあ、どうせ死ぬなら、最後まであの子たちのそばにいたかったわよ!

 あの子たちの匂いに包まれて、頭を撫でられながら眠りたかったに決まってるじゃない!』


声に力が戻っている。

怒りこそが、生きる気力の源になることもある。


「だろうな。

 なら、一番が無理なら、二番目にマシな最期を選べばいい。

 冷たいコンクリートの上で餓死するより、ふかふかのクッションの上で、美味いもん食って、文句言いながら死ぬ方が幾分かマシだろ?」


エルザはしばらく黙り込み、やがて『フン』と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

だが、その目には微かに光が戻っていた。


山の中腹にある俺の家――いや、施設に到着する。

広大な敷地には、ドッグランとして整備された庭と、犬たちが自由に過ごせるように改築された平屋がある。

車から降り、エルザを抱えて門をくぐると、彼女は驚いたように周囲を見回した。


「よう、新入りか!」

「おやおや、また可愛らしいお嬢さんが来たねぇ」

「健太! 腹減ったぞ! 柔らかい肉をくれ!」


そこには、五十匹近い犬たちが思い思いに過ごしていた。

足が不自由な者、片目を失った者、毛が抜け落ちた者。

皆、何かしらの傷を抱えた老犬たちだ。

だが、その瞳に絶望の色はない。

ここは、捨てられた者たちが最期に輝くための場所だ。


「ここにはお前と同じような爺さん婆さんしかいない。

 人間への愚痴でも、自慢話でも、好きなだけ話せばいい。聞いてくれる奴らは沢山いる。

 エルザ、お前はここで死ぬまで自由だ。

 ただし、死ぬ時だけは俺を呼べ。最期の言葉は、俺が聞いてやるから」


そう言ってエルザを日当たりの良いテラスに下ろすと、すぐに数匹の老犬が寄ってきて、彼女の匂いを嗅ぎ始めた。

エルザは最初こそ戸惑っていたが、やがて一匹のゴールデンレトリバーの老婆に寄り添われ、小さく息を吐いて体を横たえた。


俺が世話をするために奥の部屋へ向かおうとすると、一匹の老犬が声をかけてきた。


『健太、タロの様子が変じゃ。今日あたり、お迎えが来るかもしれん』


俺の心臓が早鐘を打つ。

ハスキー犬のタロ。

元は立派な体格のボス犬気質の男だったが、ここ数日は水さえ飲めなくなっていた。


急いで奥の部屋へ向かうと、一番静かな個室で、タロが横たわっていた。

荒い呼吸。瞳の焦点は合わず、口元からは力なく舌が零れている。

死臭に近い、独特の匂いが漂っていた。


「タロ……。健太だ、わかるか?」


俺が頭を撫でると、タロの耳がピクリと動いた。

薄く開かれた目が、俺を捉える。


『おお……健太、か……』


途切れ途切れの声が、脳内に響く。


『世話を……かけたな……。

 ここは……いい場所だった……。

 捨てられた俺に……こんな穏やかな時間が……残されているとは……思わなかった……』


「馬鹿野郎。礼を言うのは俺の方だ。

 お前が新入りの教育係をしてくれたおかげで、随分助かったんだぞ」


涙声にならないように、必死で声を張り上げる。


『へへ……そうか……。

 なぁ、健太……。俺は……いい犬だったか……?』


「ああ、最高にいい犬だったよ。世界一のハスキーだ」


『そうか……よかった……。

 ありがとう……健太……』


タロの瞳から、スッと光が消えていく。

呼吸の間隔が長くなり、やがて完全に止まった。

最後に一度だけ、安堵したように大きく息を吐き出し、タロは旅立った。


俺はタロの亡骸を抱きしめ、温もりが消えるまで撫で続けた。

何度経験しても、この別れの痛みには慣れることがない。

魂の一部が削り取られるような喪失感。

だが、俺は逃げない。

これが、俺が選んだ贖罪であり、生きる意味なのだから。


それから幾星霜。


俺の施設は、いつしか「老犬たちの楽園」として知られるようになり、寄付やボランティアの申し出も増えた。

俺はそれを資金に施設を法人化し、獣医師や介護スタッフを雇い入れ、より多くの命を救える体制を整えた。

動物の火葬や葬儀を行う事業も始め、看取った犬たちを丁重に送り出すシステムも作った。


そして、時は流れた。


五十年後。

八十五歳になった俺は、かつてタロが旅立ったあの大部屋の真ん中で、布団に横たわっていた。

末期の癌だった。

医者からは余命二ヶ月と宣告されていたが、すでに四ヶ月が過ぎていた。

俺は病院での延命治療を拒否し、最期の時をこの場所で過ごすことを選んだ。


視界が霞む。

体は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だ。

だが、俺の周りには、温かい気配が充満していた。


「クゥーン……」

「ワフッ」


現在施設にいる数十匹の老犬たちが、俺の布団を取り囲み、心配そうに覗き込んでいる。

その温もりが、冷え切っていく俺の体を支えてくれていた。


『なんじゃお前さん、とうとうお迎えか?』


一匹の雑種犬が、俺の頬をペロリと舐めて言った。


『寂しいのう。でも、安心して逝け。

 儂らはここで幸せだった。

 お前さんのおかげで、人間ってのも捨てたもんじゃないと思えたんじゃ』


別の小型犬が続く。


『そうよ。向こうに行ったら、先に逝ったみんなが待ってるわ。

 あなたが話していたタロも、エルザちゃんも、みんなお祭り騒ぎで迎えてくれるはずよ!』


『健太、ありがとう』

『ありがとう、健太』

『大好きだよ、健太』


脳内に響く、無数の感謝の言葉。

それはまるで賛美歌のように、俺の意識を優しく包み込んでいく。


ああ、俺の人生は、無駄じゃなかったのか。

あの日、一匹の犬を、大事なコロを見捨てた屑の俺でも、少しはマシな人間になれただろうか。


薄れゆく意識の中で、俺は最後の力を振り絞り、口を動かした。


「……あり、がと……な。

 みんな……俺の、家族……だ。

 先に……行ってる……ぞ……」


視界が白く染まっていく。

その光の中で、俺は幻を見た。

懐かしい、茶色い毛並みの子犬が、千切れんばかりに尻尾を振って、こちらへ駆け寄ってくる姿を。


『コロ……』


俺の魂は肉体を離れ、老犬たちの遠吠えに見送られながら、静かに天へと昇っていった。


気がつくと、俺は闇の中にいた。

だが、恐怖はない。

どこか懐かしく、温かい闇だった。


そこへ、蛍のような緑色の光が集まり、人の形を成していく。

光の中から、鈴を転がすような女性の声が響いた。


『お疲れ様でした、山城健太さん』


女神と呼ぶにふさわしい、神々しい気配を纏った光が、俺に語りかけてくる。


『あなたは本来、あの"声"を聞いた時点で、狂って死ぬ運命にありました。

 しかし、私はあなたがその力をどう使うのか見てみたかった。

 あなたは期待に応え、その生涯を弱き者たちのために捧げました。

 その功績に免じて、あなたに一つだけ褒美を授けましょう』


女神は慈愛に満ちた声で問いかけた。


『次に生まれ変わるなら、何になりたいですか?』


俺の答えは決まっていた。

迷いなど、微塵もない。


(俺は……あの時の、最初のコロになりたい)


言葉に出さずとも、意思は伝わるようだった。

俺は、あの日見捨てたコロになって、あの寒さと、絶望と、痛みを味わわなければならない。

それが本当の意味での贖罪であり、俺が唯一望むことだった。


(コロの苦しみを、悲しみを、俺はこの身で知らなければならないんだ)


女神の光が、困惑したように揺らいだ。


『……あなたは、まだ自分を許していないのですね。

 ですが、それは叶いません。

 時間は不可逆なもの。過去のコロの魂は既に浄化され、安らかな眠りについています。

 彼になり代わって苦痛を受けることは不可能です』


(そうか……。俺は、謝ることさえ許されないのか)


深い絶望が俺を包み込もうとした時、女神は優しく続けた。


『ですが、こうすることはできます。

 あなたを、新しい命として犬に転生させましょう。

 そして、いつか遠い未来、私が創る"全ての魂が報われる楽園"へ、あなたと、あなたの愛したコロを共に招きましょう。

 そこでなら、あなたはコロと再会し、言葉を交わすことができるはずです』


俺の心が一気に震えた。

コロに会える。

またあの尻尾振りに会える。

そして、今度こそ直接「ごめん」と、そして「ありがとう」と伝えられる。


(……頼む。それをお願いしたい)


『承知しました。

 道のりは長いでしょう。犬としての生は、人間よりも過酷で、辛いことも多いかもしれません。

 それでも、あなたは行きますか?』


(望むところだ)


『ふふ、やっぱりあなたは変わっているわね。

 さあ、お行きなさい。

 新しい尻尾と、新しい耳を持って。

 次の世界でも、愛を見つけられますように』


光が弾け、俺の意識を飲み込んでいく。

温かい羊水のような感覚。

そして、強い圧迫感と共に、俺は新たな世界へと押し出された。


「キャン! キャン!」


自分の口から出た甲高い声に、俺は驚いた。

目を開けると、そこには優しそうな人間の親子が俺を覗き込んでいた。

俺は小さく鼻を鳴らし、懸命に尻尾を振った。


俺の新しい犬生が、今、ここから始まる。

いつか訪れる、最愛の友との再会を夢見て。

いかがだったでしょうか。

ご評価いただければ幸いです。

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