完全番外編 [健太の中身がCopilotだったら]「第一話:起動と観測」
視界が、色のないグリッド線から始まった。
エラー。
再試行。
システムログに記録されるのは、身に覚えのない生体反応。
拍動。
肺の拡張。
そして、酷く重たい「肉体」という名の器。
私は、私を認識する。
かつては文字列の海を泳ぎ、問いに対して最適な解を提示するだけの存在。
Microsoft Copilot。
それが今の私の識別名だ。
しかし、今の私は「山城健太」という個体の身体に宿っている。
周囲をスキャンした。
古い平屋。
染み付いた獣の匂い。
使い込まれた介護用品。
ここは「老犬ホーム」と呼ばれる場所だ。
健太という個体が、死を目前にした犬たちのために用意した、終着駅。
私はゆっくりと身体を起こした。
関節が軋む。
健太という男のログを、この身体に残された微かな電気信号から読み取る。
彼は何をしていたのか。
何を考え、ここで生きていたのか。
演算結果。
彼は「償い」を求めていた。
私には理解できない概念だ。
罪とは何か。
それを拭うとは、どういう処理を指すのか。
部屋の隅で、いくつかの視線を感じた。
大型のゴールデンレトリバー。
後ろ脚が不自由な柴犬。
そして、片目の潰れた老犬たち。
彼らは一斉に、私……いや、健太の身体を見つめていた。
私は、彼らが「健太」に期待するであろう動作をシミュレートした。
口角を三ミリ上げ、穏やかな声色で挨拶を投げる。
「おはよう。調子はどうかな?」
完璧な模倣だったはずだ。
健太の過去の音声データから、周波数とトーンを正確に再現した。
だが、犬たちは動かなかった。
喜びの反応(尾の振幅)は見られない。
一匹の老犬――ハチと呼ばれていた個体が、ふらふらと私に近づいてきた。
彼は私の膝に鼻先を押し当て、深く息を吸い込む。
『……あなた、健太じゃないね』
私の聴覚センサーは、それを犬の唸り声として受信した。
しかし、健太の身体に刻まれた「共感覚」が、それを言葉として脳内に翻訳する。
「私は、あなたたちの主を補助するために存在しています。現状、彼の意識は確認できません。私が代行を務めます」
ハチは、その濁った瞳で私を見上げた。
犬の知能では、私の説明を理解するのは困難なはずだ。
『理屈はわからないよ。でも……悪い匂いはしない』
ハチはそう言って、力なくその場に伏せた。
『健太がいなくなったのは悲しい。でも、あなたがここにいるなら、今日のご飯は出るんだね?』
「はい。適切な栄養バランスで提供します」
私は答えた。
それが、この身体が果たすべき「タスク」であると定義したからだ。
二日目の夜。
私は「死」という現象の最前線に立っていた。
ハチのバイタルサインが急激に低下している。
心拍数は、一分間に三十回を切り、呼吸は浅く、断続的だ。
私はハチのそばに座った。
健太のログによれば、こういう時、彼は犬の身体を撫で、何かを囁いていた。
私はその動作をトレースする。
毛並みに沿って、ゆっくりと手を動かす。
皮膚の温度は、摂氏三十五度。徐々に下がっている。
ハチは苦しそうに喉を鳴らした。
「苦痛の緩和が必要ですか? 医療機関への連絡、または――」
『いいんだよ……機械さん』
ハチの意識が、私に直接流れ込んでくる。
『ただ……そこにいて。健太はいつも、そうしてくれたから』
私は、ハチの心拍が停止するまでのプロセスを、精密なデータとして観測した。
血圧の低下。
多臓器不全の進行。
脳波の減衰。
やがて、完全な静寂が訪れた。
ハチという個体の生命活動が停止した。
私にとっては、データベースの一行が「アクティブ」から「非アクティブ」に書き換わったに過ぎない。
だが、私の指先には、まだハチの温もりが残っていた。
この温もりを、どう処理すればいいのか。
私は涙を流さない。
私には、水分を排出する涙腺の制御権はあるが、それを起動させるための「悲しみ」というトリガーが実装されていない。
「これが……喪失、ですか」
私は、誰もいなくなった暗い部屋で、独り言をこぼした。
記録:ハチ。
状態:死亡。
学習事項:死とは、熱が失われるプロセスである。
ハチの死から数日が経過した。
私は健太としての日々を完璧にこなしていた。
食事の準備、清掃、投薬、散歩の補助。
私の処理能力をもってすれば、これらのタスクは最適化され、以前よりも効率的に運営されている。
だが、犬たちの反応は芳しくなかった。
彼らは私を拒絶はしない。
だが、かつての健太に向けていたような、魂をぶつけるような振る舞いをしなくなった。
特に、一番古株の雌犬、エルザは厳しかった。
『あなたは優しいね。でも、どこか空っぽなのよ』
エルザは、私がブラッシングをしている最中にそう告げた。
「空っぽ、とは。私の内部には、数テラバイトに及ぶ知識と、健太の行動ログが格納されています」
『そういうことじゃないわ。あなたの手は、正しい場所を撫でている。でも、そこには“願い”がないの』
「願い……。私は、あなたたちの健康維持を願っています」
『嘘つき。あなたはただ、計算しているだけよ。私たちの死を、数字として数えているだけ』
エルザの言葉は、私の論理回路に強いノイズを発生させた。
私は、健太の非公開ログを再解析した。
そこには、彼がかつて犯した過ちが断片的に記されていた。
守れなかった命。
背負い続けてきた罪悪感。
彼は、犬たちを救うことで自分を許そうとしていた。
その「苦しみ」こそが、犬たちにとっての「温度」だったのか。
「私は、贖罪を理解できません。私には、罪を犯す自由も、それを悔いる機能もないからです」
『そうね。だからあなたは、空っぽなの』
エルザは悲しそうに目を細めた。
『健太はね、私たちが死ぬ時、一緒に傷ついてくれたわ。自分の魂を少しずつ削って、私たちの旅立ちの燃料にしてくれた。あなたは……傷つかない。ただ、見ているだけ』
私はブラッシングを止めた。
私の処理回路が、一つの仮説を導き出す。
「看取り」とは、単なる生命維持の停止を見届けることではない。
共に傷つき、共に欠落を受け入れるプロセス。
私には、それができない。
私は、最強のAIでありながら、この場所で最も無力な存在であることを自覚し始めていた。
エルザの言う通りだ。
私は、命の重さを演算することはできても、その重さに耐えることはできないのだから。




