幕間録:011「ティアハイムの少女」
新しい仲間のお話です。
季節は晩秋を迎え、裏山の木々がすっかり葉を落として冬の足音を感じさせる頃だった。
俺たち「山城老犬ホーム&町田動物病院」の面々は、NPO法人化に向けた手続きと並行して、日々の老犬介護と病院業務に追われる慌ただしい日々を送っていた。
循環器科の権威である白鳥源蔵先生が仲間に加わったことで、医療体制はこれ以上ないほど盤石になった。
だが、現在直面している最大の問題は「人手」だった。
いくら名医が二人揃っていても、五十匹近い老犬たちの食事の世話、排泄の処理、ドッグランでの運動、そして日々の清掃作業は、俺を含めた三人だけではどう考えても限界を迎えつつあったのだ。
ボランティアを広く募ってはいるものの、命を預かる責任の重い現場に定着してくれる人はなかなか見つからない。
どうしたものかと頭を悩ませていたある日の午後、ドッグランの隅でタバコを吹かしていた白鳥先生が、唐突に俺を呼び止めた。
「おう健太、土地あまってるか?
宅地で」
「宅地ですか?
ここって結構山だと思ってたんですけど、以前調べてみたら結構ありましたよ。
けど、なんでまた宅地を?」
「いや、やっぱ車はキツいから何か建ててもいいか?」
「あ〜、どうぞどうぞ。
一応、借地の契約はしましょうかね」
「当たり前だろ!
金なら唸るほど……まぁ柵も付いてくるが、そこはおいとけ。
じゃ、勝手に建てるからな」
白鳥先生は短くそう言い捨てると、すぐにどこかへ電話をかけ始めた。
俺はキャンピングカーでの生活が堪えて、自分用の小さなプレハブ小屋でも建てるのだろうと軽く考えていたのだが、それが大きな間違いであることに気づくのは、ほんの僅かな期間でのことだった。
翌日から大型の重機が入り、基礎工事が始まり、あっという間に施設に隣接する敷地に立派な建物が姿を現したのだ。
それはプレハブなどではなく、十二部屋を備えた真新しい二階建ての「ペット共生型アパート」だった。
最新の防音設備に、足腰に優しいクッションフロア、各部屋に備え付けられたペット用の足洗い場。
完成したその威容を前に、俺はただポカンと口を開けて立ち尽くすしかなかった。
「白鳥先生。
私、ココに引っ越します」
出来立てのアパートを見上げて、町田さんがさっそく宣言した。
「お、町田ならそう言うと思ってたぞ。
病院まで歩いていけるし、動物も飼っていいからな」
白鳥先生が満足げに腕を組んで笑う。
俺は慌てて二人の間に割って入った。
「ちょっと待ってくださいよ。
なんでまた、アパートメントにしたんです?」
「そりゃおめぇ、老犬保護施設のスタッフを雇う為だろうが」
白鳥先生は呆れたように俺を見た。
遠方からでも優秀なスタッフを呼び込めるよう、私財を投じて住み込みで働ける環境を作ってくれたのだ。
「……そんな、ありがとうございます。
でもあてがないんですよ」
「建てた代わりにお願いがあるんだよなぁ…」
「何ですか?」
「雇って欲しいやつがいる」
白鳥先生はニヤリと笑った。
聞けば、かつての白鳥先生の学会仲間からの紹介で、どうしても日本の動物保護施設で働きたいと志願している人物がいるらしい。
名前は『GG』というそうだ。
俺は勝手に、白鳥先生の知り合いなのだから、きっと気難しくて偏屈な「オッサン」が来るのだろうと思い込んでいた。
だが、その予想は数日後に見事に裏切られることになる。
数日後のよく晴れた朝。
アパートの前に一台のタクシーが停まり、トランクから巨大なスーツケースが降ろされた。
俺が挨拶に向かうと、そこに立っていたのは偏屈なオッサンではなく、非常に小柄で華奢な外国人の女性だった。
透き通るような白い肌に、亜麻色の髪。
年齢は二十一歳だと聞いていたが、どう見ても十五歳くらいにしか見えないほど童顔で可愛らしい顔立ちをしている。
彼女は俺の顔を見ると、真っ直ぐな瞳で手を差し出してきた。
「ギーゼラ・ゴンザレスよ。
GGって呼んで頂戴」
その宣言は流暢で、日本人と全く遜色のない完璧な発音だった。
彼女はドイツで生まれ育ったが、親がスペイン語圏の出身なのだという。
そして彼女の手には、一本の長いリードが握られていた。
その先に寄り添うように立っていたのは、俺がこれまで見たこともないような独特のシルエットを持つ大型犬。
異常なほど細長い手足に、深い胸、鞭のようにしなやかな長い尻尾。
一見するとグレイハウンドのようだが、その極端に短い被毛の隙間からは、目を覆いたくなるような無数の古い傷跡が痛々しく浮かび上がっていた。
「……その子は?」
「この子は『ソル』。
ガルゴ・エスパニョールというスペインの猟犬よ。
年齢は推定で十一歳になるわ」
GGはソルの細い首を愛おしそうに撫でながら、静かに、しかし明確な怒りを滲ませた声で語り始めた。
「ガルゴはね、スペインでウサギ狩りに使われる犬なの。
でも、猟期が終わって足が遅くなったり、不要になったりすると……信じられないほど残酷な方法で捨てられる…
井戸に投げ込まれたり、木に吊るされたりしてね。
ソルも、冷たい土の穴の中で死を待っていたところを、ボランティアに保護されたのよ」
俺は息を呑んだ。
人間のエゴのために道具として使われ、用済みになればゴミのように捨てられる。
それは、日本の悪質な繁殖業者や、無責任な飼い主が引き起こす問題と同じ、人間の底知れぬ業の深さだった。
「私は彼らのような子を救うためなら、世界中どこだって行くわ。
白鳥先生からここの話は聞いた。
でも、日本のペット産業や法律の遅れは、ドイツの常識から見れば信じられないほど野蛮よ。
だから……ここが日本の『ティアハイム』になれるか、私が確かめてあげる」
ティアハイムとは、ドイツにある世界最大の動物保護施設のことだ。
殺処分ゼロを掲げ、保護された動物たちが新しい家族を見つけるまで、広大で恵まれた環境で過ごせる「動物たちの楽園」。
彼女は、この日本の小さな山奥の施設を、そのティアハイムの基準にまで引き上げようと、強い覚悟を持ってやって来たのだ。
その日から、GGはアパートの住人第一号として、猛烈な勢いで働き始めた。
小柄な体からは想像もつかないほどの体力で、重いドッグフードの袋を運び、犬舎を隅々まで磨き上げ、老犬一匹一匹の体調を事細かに記録していく。
犬たちに対する彼女の愛情は本物だった。
だが、同時に彼女は常にピリピリと張り詰めていた。
近所の人が飼育相談に訪れると、少しでも犬の負担になるような環境があれば、「どうしてそんな無責任な飼い方ができるの!」と激しく噛み付いてしまう。
日本のペットショップでの生体販売の現状や、行政の仕組みに触れるたび、彼女の目には抑えきれない怒りと苛立ちが燃え上がっていた。
彼女はすべてを完璧なティアハイムの基準にしようと、一人で多くを抱え込みすぎていたのだ。
そして、その緊張は愛犬のソルにもダイレクトに伝わっていた。
過去の強烈なトラウマを抱えるソルは、極度に人間を恐れ、常にGGの背後に隠れて尻尾を股の間に巻き込んでいる。
老犬たちのコミュニティである「犬団子」にも加わろうとせず、いつも部屋の隅でGGの様子を不安げに見つめていた。
そんなある日の夜。
俺が土間の待合室を見回りにいくと、部屋の片隅でモモ婆ちゃんやバロン、ゲン、サブといった古株の老犬たちが、珍しくソルを囲むようにして静かに伏せていた。
『……お前さん、そんなに肩肘張って生きてたら、疲れるだろうに』
モモ婆ちゃんが、ソルの細い背中を気遣うように見つめながら言う。
『そうだぞ。
ここは誰も叩かないし、誰も怒鳴らない。
ストーブの前の場所だって、いつでも譲ってやるぜ』
ゲンも優しく鼻を鳴らす。
老犬たちの穏やかで寛容な空気に包まれて、ソルの張り詰めていた体が、ほんの少しだけ緩んでいるように見えた。
その時だった。
『……お前、健太…といったか。
今、少しだけ話を聞いてもいいだろうか』
俺の脳内に、気高く、しかし深く澄み切った声が響いた。
ソルだった。
俺は驚きながらも静かに頷き、彼らの輪の端に腰を下ろした。
「どうした、ソル。
何でも言ってくれ」
『ギーゼは…
あぁ、お前達はGGと呼ばされていたな。
彼女はいつも僕たち犬のために怒って、戦って、そして夜になると一人で泣いているんだよ』
ソルの声には、彼女に対する底知れぬ愛情と、深い悲しみが滲んでいた。
彼らの日本語の語彙と表現力は、まるで思慮深い老紳士のように完璧だった。
だがそれ以上に、俺の胸を打ったのはその「呼び方」だった。
GGという周囲に対する鎧のような愛称ではなく、彼だけが彼女の本名に由来する「ギーゼ」という特別な呼び方を使っている。
それは、世界を拒絶し戦おうとする少女の本当の素顔を、彼だけが知っているという何よりの証拠だった。
『彼女は自分の国とこの国を比べて、完璧なティアハイムを作ろうと焦っている。
僕のような不幸な犬を二度と出さないために、世界中の理不尽と一人で戦おうとしているんだ。
でもね、健太……
僕は、冷たい穴の中で死を待っていたあの日に、ギーゼが泥だらけになって僕を抱きしめてくれた瞬間から、もう十分すぎるほど救われているんだよ』
ソルは悲しそうに目を伏せた。
『日本の仕組みがどうであれ、この静かな場所と、仲間たちの穏やかな寝息と……
そして何より、ギーゼの温かい手があれば、そこが僕の楽園なんだ。
これ以上、彼女が心をすり減らす必要なんてない。
頼む、健太。
ギーゼにもう戦わなくていい、ただ僕の前で笑ってほしいと、伝えてくれないか』
それは、過去の痛みをすべて受け入れ、ただ愛する主の笑顔だけを願う、無償の愛の言葉だった。
世界中の不幸な犬を救おうと躍起になる少女と、自分の目の前にいる少女さえ笑ってくれればそれでいいと願う老犬。
俺は深く息を吸い込み、ソルの細く長い頭をゆっくりと撫でた。
「……ああ、分かった。
必ず伝えるよ」
翌朝。
裏庭のドッグランで、GGは一人、落ち葉をかき集めながら思い詰めたような顔をしていた。
俺は彼女の背中に声をかけた。
「GG、ちょっといいかな。
ソルのことで、君に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
GGは振り返り、不安そうに眉を寄せた。
「ソルがどうかしたの?
どこか具合でも悪いの!?」
「いや、体調のことじゃない。
あいつの『本当の気持ち』についてだ」
俺は、自分が10歳を超えた老犬の言葉を人間の言語として理解できることを、時間をかけてGGに説明した。
自分の能力のこと。
この施設にいる犬たちが、皆それぞれに思いを抱え、俺と対話していること。
そして昨夜、ソルが俺に語りかけてきたこと。
だが、その説明を聞き終える前に、GGの顔には明らかな拒絶の色が浮かんでいた。
彼女は落ち葉を集めていた手を止め、冷ややかな、それでいて激しい怒りを孕んだ目で俺を睨みつけた。
「……ふざけないで」
GGの声は小刻みに震えていた。
「犬が人間の言葉を喋るわけないじゃない!
私が日本の環境に苛立って悩んでるからって、そんなオカルトみたいな嘘で慰めようとしないで!
ソルは喋らないわ。
人間のエゴのせいで傷ついて、怯えているだけよ!
あの子の痛みを、そんな薄っぺらい超能力ごっこに利用しないでちょうだい!」
彼女の怒りは当然だった。
犬の保護活動に人生を捧げ、理不尽な現実と本気で戦っている彼女からすれば、俺の言葉は「犬の痛みを軽んじるふざけた冗談」にしか聞こえないのだ。
俺がどう誤解を解くべきか迷っていると、背後からザクッ、ザクッと落ち葉を踏みしめる足音が近づいてきた。
「こいつは嘘なんて吐いてねえよ、GG」
低い、しゃがれた声だった。
振り返ると、庭箒を手にした白鳥先生が、面倒くさそうに首を鳴らしながら立っていた。
「白鳥先生……?」
GGが戸惑ったように声を漏らす。
彼女にとって白鳥先生は、獣医学界で名を馳せた尊敬すべき権威であり、この日本に自分を招いてくれた恩人だ。
白鳥先生はGGの前に立ち、俺を親指で指し示しながら静かに口を開いた。
「俺も最初は、こいつの頭がおかしくなったんだと思ったさ。
名医と呼ばれ、科学だけを信じてきたこの俺が、そんなオカルトを信じるわけがないからな。
……だがな、こいつは俺と愛犬のルークしか絶対に知らないはずの秘密を一言一句違わずに言い当てやがったんだ。
俺がルークの介護を言い訳にして、命を救う現場から逃げ出したっていう俺の情けない本心をな」
白鳥先生は自らの恥部をさらけ出すように自嘲気味に笑った。
そして、真っ直ぐにGGの目を見つめ返す。
「町田のやつも同じだ。
こいつの『通訳』がなけりゃすれ違ったまま救えなかった命や心が、この施設には山ほどある。
信じられないだろうが、健太の言葉は間違いなくソルの本音だ。
……聞いてやれ。
ソルはお前のために、勇気を出してこいつに頼んだんだからな」
GGは息を呑んで立ち尽くした。
彼女が最も信頼を寄せる「科学の徒」である白鳥先生が、自らの過去を交えて俺の能力を完全に肯定したのだ。
彼女の中にあった怒りの鎧に、ヒビが入っていくのが分かった。
俺は白鳥先生に小さく頭を下げると再びGGに向き直る。
「ソルはね、君が本気で怒り、本気で泣いてくれていることを知っている。
でも、もう十分だって言ってるんだ」
俺は昨夜ソルから聞いた言葉を一言一句違わずに彼女に伝えた。
「ソルは君のことを『GG』じゃなく、『ギーゼ』って呼んでるよ」
その名前を口にした瞬間、GGの肩がビクッと大きく震えた。
彼女の本名に由来するその愛称は誰にも教えていない、二人だけの秘密だったはずだからだ。
「『ギーゼはいつも僕たち犬のために怒って、戦って、そして一人で泣いている』って。
『冷たい穴の中で死を待っていた僕を、ギーゼが泥だらけになって抱きしめてくれたあの日から、自分はもう救われているんだ』って……」
日本の仕組みは確かにドイツの立派な施設には敵わないかもしれない。
理不尽なこともたくさんある。
でも、ここにはギーゼの温かい手がある。
「ソルも、ここにいる爺さん婆さんたちも、君が笑ってくれることだけを望んでるんだ。
ここは完璧なティアハイムじゃないかもしれないけど……彼らにとっては、もうすでに最高の楽園なんだよ」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、GGの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
白鳥先生の裏付けと、ソルしか知り得ない「ギーゼ」という呼び名。
それが彼女が背負い込んでいた孤独な戦士の鎧を完全に打ち砕いたのだ。
そこに立っていたのは、一匹の犬を心から愛する、ただの優しい女性だった。
「……ソルっ……!」
GGはその場に泣き崩れ、両手で顔を覆った。
すると、建物の陰からソルがゆっくりと歩み寄り、彼女の足元に体をすり寄せた。
そして、GGの小さな手を、ザラリとした舌で何度も何度も優しく舐めたのだ。
『もう、泣かなくていい。
一緒に日向ぼっこをしよう、ギーゼ』
俺の脳内に響いたソルの言葉を、俺は静かに口に出して伝えた。
GGはソルの細い首に抱きつき、声を上げて子供のように泣き続けた。
白鳥先生は黙って庭箒を肩に担ぎ、俺に「あとは任せた」とばかりに背を向けて歩き去っていった。
翌日から、施設に流れる空気は劇的に変わった。
GGの顔からピリピリとした緊張感が消え、温かく柔らかい笑顔で犬たちに接するようになったのだ。
彼女が笑顔を取り戻したことで、ソルもまた見違えるように落ち着きを取り戻した。
今ではすっかりモモ婆ちゃんたちの「犬団子」の輪に加わり、長い手足を折りたたんでいびきをかいて眠るようになっている。
時にGGが日本語の難しい言い回しに戸惑っていると、ソルが俺に助けを求め、俺が通訳するという奇妙な連携まで生まれていた。
アパートの住人第一号となったGGという強力なスタッフを迎え、俺たちの「NPO法人 ティアハイム山城」はついに本格的な始動の時を迎えた。
白鳥先生の圧倒的な資金力と技術、町田先生の優しさと知識、GGの熱意、そして俺の通訳。
これ以上のチームはないだろう。
日本のペット事情が完全に良くなる日は、まだ遠いかもしれない。
だが、この山奥の小さな楽園から、確実に何かが変わり始めている。
初冬の冷たい風に吹かれながら、俺はドッグランで元気に走り回る犬たちと、それを笑顔で追いかけるGGの姿を、ただ眩しく見つめていた。
健太の能力を始めて見た人の疑念を、もう少し重く考えるよう修正しました。




