幕間録:010「流れ星の獣医」
【最初に】
この内容は素人の憶測で書いたものであり、実際の動物医療の現場に携わるものとしての記述ではありません。
認識や内容の齟齬につきましては、創作物としてご認識いただき、齟齬等はご指摘いただければ修正いたしますので、宜しくお願いいたします。
季節は巡り、裏山を彩っていた深緑は少しずつその色を変え始めていた。
秋の気配が、吹き抜ける風の冷たさに混じり始めている。
「山城老犬ホーム&町田動物病院」の敷地内には、赤や黄色に染まった落ち葉が舞い、老犬たちがその上をカサカサと音を立てて歩いていた。
日差しはまだ暖かいが、夕暮れ時になればストーブの火が恋しくなる、そんな時期である。
俺と町田さんがこの施設を本格的に稼働させてから、救い出した命の数は着実に増え続けていた。
保健所の冷たい檻の中で処分を待つしかなかった老犬や、飼い主の事情で行き場を失った犬たち。
彼らがこの場所で温かい飯を食い、仲間たちと共に穏やかな寝息を立てる姿を見るたび、俺の胸の奥にある罪悪感はほんの少しだけ和らいでいく。
だが、命を預かるということは、それだけ現実的な問題がのしかかってくるということでもあった。
「……山城さん。
今月の収支報告ですが、やはり厳しいですね」
診察室のデスクで帳簿を睨んでいた町田さんが、重苦しいため息をついた。
彼女の眉間には、すっかり見慣れてしまった深い皺が刻まれている。
俺は淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを二つ持って、彼女の向かいに座った。
「祖父さんの遺産、かなり減ってきましたか」
「ええ。
五十匹近い老犬たちの食費、冷暖房費、そして医療の消耗品費。
私の動物病院の方も、近所の患者さんが増えて繁盛はしてきているんですが……
そこから得た利益をこの施設の維持費に回しても、完全に赤字を補填するには至っていません。
このままいけば、数年後には資金が底を突いてしまいます」
町田さんは眼鏡の位置を直し、真剣な眼差しで俺を見た。
彼女は俺の施設の老犬たちを、実質無料で診察してくれている。
だが、薬代や検査の試薬代など、どうしても原価がかかるものは存在するのだ。
俺の祖父が遺してくれた遺産は決して少ない額ではなかったが、命を五十も抱えて生きていくには限界があった。
だからといって、助けを求めている命を見捨てることなど、俺たちには到底できるはずもない。
「……町田さん。
前に少し話していた、あの計画を進めましょう。
この施設を、非営利の愛護団体、NPO法人として正式に立ち上げるんです。
寄付を募り、ボランティアの手を借りて、もっと多くの人にこの現状を知ってもらう。
俺たちの個人的な贖罪や自己満足じゃなく、社会的な活動としてこの場所を残していくべきだ」
俺の提案に、町田さんは静かに頷いた。
「分かりました。
法人化の手続きや行政とのやり取りは、元公務員の私に任せてください。
山城さんは、ボランティアの募集やホームページの作成をお願いします」
俺たちはさっそく動き出した。
手作りのチラシを近所のスーパーや役所に置かせてもらい、インターネットでもボランティアスタッフの募集を呼びかけた。
無給ではあるが、犬が好きで、老犬の最期に寄り添ってくれる優しい心を持った人を探すためだ。
それから数日後の、少し風が強い秋の午後のことだった。
施設の門の前に、一台の古びたキャンピングカーが停まった。
クリーム色の車体には所々錆が浮き、他県ナンバーのプレートが泥で汚れている。
エンジンが止まると、運転席から一人の高齢の男性が降りてきた。
年齢は七十代前後だろうか。
無精髭を生やし、着古したネルシャツに色褪せたジーンズという、絵に描いたような放浪者の出で立ちだ。
だが、その鋭い眼光と、深く刻まれた皺の奥にある眼差しには、ただの世捨て人とは違う独特の凄みがあった。
男性は後部座席のドアを開け、一匹の犬を慎重に抱き降ろした。
ゴールデンレトリバーの血が入っていると思われる、大型のミックス犬だった。
年齢は相当にいっているはずだ。
顔の周りの毛は真っ白に退色し、地面に下ろされた四肢はプルプルと震え、自力で立つのがやっとという状態だった。
男性はその老犬の体を優しく支えながら、ゆっくりと施設の入り口へと歩いてきた。
「あんたが、ここの代表か」
庭の掃除をしていた俺に、男性がぶっきらぼうな声で尋ねた。
「ええ、山城と言います。
そちらのワンちゃんの診察ですか?」
「いや、違う。
道の駅で、この施設のボランティア募集のチラシを見た。
俺をここで働かせてくれ。
給料はいらん。
飯と寝床はあの車の中にある。
ただ……俺とこの『ルーク』が、ここに骨を埋めることだけを許してほしい」
唐突すぎる申し出に、俺は箒を持ったまま固まってしまった。
ボランティアの募集を見て来てくれたのはありがたいが、いくらなんでも「骨を埋める」というのは重すぎる。
俺が返答に窮していると、診察室から町田さんが顔を出した。
「山城さん、どうかしましたか……って」
町田さんは男性の顔を見た瞬間、持っていたカルテをバサリと地面に落とした。
彼女は信じられないものを見るように目を丸くし、口元を両手で覆った。
「し……白鳥、先生……?
まさか、白鳥源蔵先生ですか!?」
町田さんの驚愕の声に、男性――白鳥源蔵は、不快そうに眉根を寄せた。
「……その名前で呼ばれるのは、久しぶりだな。
あんた、獣医か。
なら話が早い」
「どうして、先生がこんな所に……!
だって先生は循環器科の権威で、学会でも数々の表彰を受けて……
三年前に突然病院を閉めて失踪したと噂には聞いていましたが、まさかこんな風に放浪されていたなんて」
町田さんの言葉に、俺は驚いて白鳥の顔を見つめ直した。
権威。
名医。
そんな輝かしい肩書きと、目の前にいる無精髭の老人の姿が、どうしても結びつかない。
白鳥は自嘲気味に鼻を鳴らし、傍らで震えるルークの背中を撫でた。
「名医だの権威だの、俺にとっちゃあ吐き気がする肩書きでしかない。
もう白衣は脱いだんだよ。
……命を救えば救うほど、人間のエゴと業の深さを見せつけられる日々に、嫌気が差したんだ」
白鳥の声は、秋の風よりも冷たく、そして深い絶望に満ちていた。
「血統書付きだともてはやされ、無理な繁殖で生まれつき体に欠陥のある子犬たち。
金にならないからと、病気になった途端に見捨てられる老犬たち。
治療費が払えないと泣き叫び、結局は安楽死の同意書にサインをする飼い主。
俺は……俺の技術は、誰を救っていたんだ?
動物たち救うようなことを言って、結局は自分のメシの種にしていただけだったんじゃないか?
金のある人間の自己満足を満たすためだけに、この手を使っていたんじゃないのか?」
白鳥の言葉は、かつて町田さん自身が保健所で感じていた無力感と、どこか似通っていた。
命を救う最前線にいたからこそ見える、救いようのない現実。
彼はその重圧と矛盾に耐えきれず、獣医師としての自分を呪い、すべてを投げ出してしまったのだ。
「ルークが年老いて、足腰が立たなくなった時……俺はこいつを言い訳にした。
こいつの最期を看取るために、病院を閉めるとな。
それから三年、こいつと一緒に車で全国を回ってきた。
だが、俺の旅もそろそろ終わりだ。
あんたたちの『見捨てられた老犬たちのための施設』という理念を知って、ここならルークの終の棲家にふさわしいと思ったんだ。
獣医の仕事はもう二度としない。
俺はただの掃除係でいい。
だから、ここに置いてくれ」
深く頭を下げる白鳥の姿に、俺と町田さんは無言で顔を見合わせるしかなかった。
こうして、かつての名医である白鳥源蔵と、よぼよぼの老犬ルークの、施設での奇妙な生活が始まった。
白鳥の言葉に嘘はなかった。
彼は夜明けと共に起き出し、黙々とドッグランの草むしりや、犬舎の掃除、排泄物の処理をこなした。
老犬たちが体調を崩して町田さんが慌てていても、彼は決して医療行為には手を出そうとしなかった。
遠くから冷めた目で様子を見つめるだけで、聴診器一つ握ろうとはしないのだ。
町田さんは彼の手伝いを喉から手が出るほど欲しがっていたが、彼の固く閉ざされた心を前に、何も言い出せずにいた。
一方、ルークはすぐに施設に馴染んだ。
足腰が弱り、一日の大半を寝て過ごす彼にとって、この施設の穏やかな環境は最高だったのだろう。
待合室の奥のストーブの前。
そこにはいつものように、老犬たちのコミュニティが出来上がっている。
『……あの新しい爺さん、いい匂いがするねぇ』
雑種のモモ婆ちゃんが、毛布にくるまりながら鼻をひくつかせた。
『血と薬の匂いが染み付いてる。
だが、どこか悲しい匂いだ』
哲学者のサブが、白く濁った片目を細めながら呟く。
『あれは俺と同じ、何かを守ろうとして疲れ果てた男の匂いだ。
だが、守るべきものを見失ってやがる』
元番犬のバロンが、呆れたように低く唸った。
ルークはそんな彼らの会話を、穏やかな瞳で静かに聞いていた。
彼はあまり多くを語らない犬だった。
ただ時折、庭で一心不乱に草をむしる白鳥の後ろ姿を、ひどく悲しそうな目で見つめていることがあった。
事態が動いたのは、それから一週間ほど経った、静かで星の綺麗な秋の夜だった。
犬たちの夜鳴きがないか確認するため、俺が土間を見回っていた時のことだ。
暗闇の中で、微かな声が俺の脳内に響いた。
『……健太。
起きてるか』
声の主はルークだった。
彼は犬団子の一部になりながら、俺の方へと静かに首を向けていた。
「ああ、起きてるよ。
どうした、ルーク。
どこか痛むのか?」
俺が小声で尋ねると、ルークは小さく首を横に振った。
『……じいさんは、嘘つきだ』
「嘘つき?」
『ああ。
じいさんは、俺の最期を看取るためにメスを捨てたって言ってたよな。
人間の勝手なエゴに疲れたって。
でも、本当は違うんだ』
ルークの眼差しは、窓の外に停められたキャンピングカーの方へ向けられていた。
『じいさんは、本当はまだ誰かを助けたいんだよ。
旅の途中、海辺の駐車場で車を停めた夜……じいさんは、俺の肉球を握りしめながら、子供みたいに声を出して泣いていた。
「ごめんな、全部救えなくてごめんな」って。
助けられなかった命を思い出して、ずっと泣いてたんだ』
その言葉に、俺は息を呑んだ。
絶望して逃げ出したのではなく、助けられなかった命への深い悲しみと責任感に、心が押し潰されてしまったのだ。
『俺の足が弱って、介護が必要になった時……じいさんは、どこかでホッとした顔をした。
俺を言い訳にして、苦しい病院から逃げ出せるって。
でも、そのせいで、じいさんの手から命を救う光を奪っちまったんだ。
俺は、自分がじいさんの足手まといになっていることが、悲しくてたまらない』
ルークの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
犬は飼い主のためなら自分の命すら投げ出す生き物だ。
自分が原因で飼い主が生きがいを失ってしまったと感じることは、ルークにとってどんな病気よりも重い苦痛だったのだろう。
『健太。
頼む。
俺は、じいさんにまた白衣を着てほしい。
あのかっこいいお医者さんに戻ってほしいんだよ。
もう、俺のことは言い訳にしなくていいって、伝えてくれないか……!』
ルークの切実な願いを受け、俺は固く拳を握りしめた。
翌朝。
秋晴れの空の下、白鳥はいつものように庭の落ち葉を掃いていた。
俺は町田さんを連れ、白鳥の元へと歩み寄った。
「白鳥さん。
少し、お話があります」
俺が真剣な声で切り出すと、白鳥は箒を動かす手を止め、不機嫌そうに振り返った。
「なんだ。
掃除のやり方に文句でもあるのか」
「いえ、ルークのことです。
あいつ、昨日の夜、俺に泣きながら訴えてきたんですよ。
『じいさんは嘘つきだ』って」
「……は?」
白鳥の顔が、怪訝そうに歪む。
「『本当はまだ誰かを助けたいのに、俺を言い訳にして逃げているだけだ』と。
白鳥さん、あなたはルークのために病院を辞めたんじゃない。
自分がこれ以上傷つきたくなくて、ルークの介護を隠れ蓑にしただけでしょう」
俺の言葉に、白鳥の顔色がサッと変わった。
彼は箒を地面に叩きつけ、激しい怒りを露わにして俺を怒鳴りつけた。
「ふざけるな!
犬が喋るわけがないだろう!
俺の過去を適当に詮索して、知ったような口を利くな!」
「詮索なんかじゃありません!
ルークが俺に教えてくれたんです。
旅の途中、海辺の駐車場で、あなたがルークの肉球を握りながら泣いていたことを。
『ごめんな、全部救えなくてごめんな』って、子供みたいに泣いていたことを!」
その瞬間、白鳥の体がビクンと跳ね、彼の目から怒りの色が消え去った。
代わりに浮かんだのは、隠していた心の奥底を覗かれたような、深い動揺だった。
「な……なぜ、それを……。
あの夜のことは、俺とルークしか……」
「ルークは全部わかってるんです。
自分があなたの逃げ道になっていることを、ずっと気にしてるんです。
『俺はじいさんに、また白衣を着てかっこいいお医者さんに戻ってほしい』って、そう言ってるんですよ」
俺の言葉が響く中、白鳥は震える手で顔を覆った。
その後ろから、町田さんが静かに歩み出て、深く、深く頭を下げた。
「白鳥先生。
私一人の技術では、この子たち全員を救うことはできません。
昨日も、心臓病の子の発作を止めるのに、私は自分の無力さを痛感しました。
絶望したからといって、そのゴッドハンドを腐らせないでください。
どうか、私たちに力を貸してください」
町田さんの声は震えていた。
それは、命を救う現場に立つ者としての、切実なSOSだった。
その時、施設の扉が開き、ルークがふらふらとした足取りで歩み出てきた。
老犬たちの手助けもなく、自分の足で懸命に歩き、白鳥の足元へと擦り寄る。
そして、白鳥の震える手を、ザラリとした温かい舌で優しく舐めた。
『じいさん。
俺はここで、新しい仲間たちと楽しくやるさ。
だから……もう俺の介護を言い訳にしなくていい。
あんたは、あんたの生きたいように生きてくれ』
俺が静かに通訳すると、白鳥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
そして、ルークの真っ白になった顔を両手で包み込み、声を上げて泣き始めたのだ。
「……すまなかった、ルーク……。
お前を、俺の逃げ道にして……重い荷物を背負わせて……。
すまなかった……!」
ルークは白鳥の涙を舐めとりながら、安堵したように尻尾をパタパタと振った。
彼らが三年間抱え続けてきた呪縛が、ようやく解き放たれた瞬間だった。
翌日の朝。
診察室の扉を開けると、そこには予備の白衣に袖を通した白鳥の姿があった。
無精髭は綺麗に剃られ、背筋はピンと伸びている。
かつて命の最前線に立っていた名医の顔が、そこにはあった。
「……おい、町田先生。
このカルテの書き方はなんだ。
心雑音のグレード評価が甘すぎる。
これじゃあ、投薬のタイミングを見誤るぞ」
「す、すみません!
すぐに確認して修正します!」
白鳥の厳しい指摘に、町田さんが慌ててメモを取る。
その声には怒られているというより、尊敬する師匠からの指導を受けられる喜びが溢れていた。
待合室では、老犬たちがその様子を面白そうに眺めている。
『またやかましい爺さんが増えたねぇ』
モモ婆ちゃんが呆れたように言うと、バロンが低く喉を鳴らした。
『だが、心強い番犬だ。
あの目を見ればわかる。
あいつは絶対に、命を見捨てない目をしてやがる』
ルークはストーブの前の特等席で、満足そうに鼻を鳴らして眠りに落ちていた。
俺は淹れたてのコーヒーを口に運びながら、新しく生まれ変わろうとしているこの施設の未来に思いを馳せた。
NPO法人としての活動は、これからが本番だ。
だが、最強の獣医師二人が揃い、老犬たちが支え合うこの場所なら、どんな困難も乗り越えていけるはずだ。
秋の高く澄んだ空を見上げながら、俺の胸には確かな希望が満ちていた。




