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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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幕間録:009「一枚の証明書」

別の経験からの、自分の実話から持ってきた題材になります。



 凍てつくような冬が過ぎ去り、山の中腹にあるこの施設にも、ようやく柔らかな春の日差しが降り注ぐようになった。


 裏山の木々は青々とした新緑の芽を吹き出し、施設の庭先に植えられた古い桜の木は、風に舞う花びらでドッグランの地面を薄桃色に染め上げている。

 俺たち人間にとっても、寒さに弱い老犬たちにとっても、暖かな春の訪れは心底喜ばしいものだ。


 だが、「山城老犬ホーム&町田動物病院」の専属獣医である町田亜子さんにとって、春は一年で最も神経をすり減らす、多忙で過酷な季節でもあった。

 フィラリア予防の血液検査、ノミ・マダニの駆除薬の処方、そして何より、法律で義務付けられている「狂犬病予防注射」の接種期間が重なるからだ。


 連日、近隣の住民たちが愛犬を連れて、うちの小さな診察室を訪れる。


 狂犬病は、発症すれば致死率ほぼ百パーセントという恐ろしい人獣共通感染症である。

 日本国内での発生は半世紀以上確認されていないが、それは先人たちが徹底したワクチン接種によって築き上げた防波堤のおかげだ。


 元保健所職員である町田さんは、行政の側でその防波堤を守る仕事をしていたのだから、予防接種の重要性は誰よりも深く理解しているはずだった。

 しかし、獣医師として目の前の小さな命と向き合う臨床の現場に立つ彼女の顔は、この時期、常に重苦しい疲労に覆われていた。


「……次の患者さん、どうぞ」


 診察室の奥から、町田さんの少し掠れた声が響いた。

 待合室代わりにしている広い土間で、俺はカルテを手に取り、ベンチの隅で小さくなっている一人の女性に声をかけた。


「お待たせしました。

 マロンちゃんの飼い主さん、中へどうぞ」


 女性はビクッと肩を震わせると、抱き抱えていたキャリーバッグを胸に強く押し当て、まるで処刑台に向かう罪人のような、青ざめた顔で立ち上がった。

 年齢は五十代半ばくらいだろうか。

 彼女の震える手には、役所から郵送されてきた「狂犬病予防注射済票交付のお知らせ」と印字された、鮮やかな赤いハガキが握りしめられていた。


 診察室に入り、ステンレス製の診察台の上にキャリーバッグが置かれる。

 ファスナーが開けられ、中から顔を出したのは、体重が二キロにも満たないであろう、極小サイズのチワワだった。

 薄茶色の毛並みには白いものが混じり、大きな瞳は少し白く濁っている。

 カルテによれば、名前は『マロン』、今年で十二歳になる老犬だ。

 マロンは診察台の冷たさに怯えるように、ペタンと伏せて小刻みに震えていた。


「こんにちは。

 今日は、狂犬病の予防接種ですね」


 町田さんが優しく声をかけ、マロンの背中を撫でようと手を伸ばした。

 その瞬間、女性が弾かれたように口を開いた。


「先生……!

 お願いです…

 この子に、どうしても注射を打たなければいけませんか……?」


 切羽詰まった、悲鳴のような声だった。

 町田さんは手を止め、静かに女性の顔を見つめた。


「……何か、ご不安なことがあるんですね。

 ゆっくりで構いませんから、お話しいただけますか」


 女性は赤いハガキを握りしめたまま、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 そして、震える声で、彼女の胸の奥底に横たわっている深いトラウマを語り始めたのだ。


「私……過去に、この子の先代にあたるチワワを亡くしているんです。

 まだ、たった二歳でした…

 すごく元気で、病気一つしたことのない、本当にいい子だったんです。

 でも、春になって、役所からこの赤いハガキが届いて……

 私は何の疑いもせずに、その子を近所の動物病院へ連れて行き、狂犬病のワクチンを打ってもらいました。

 それが、間違いだったんです……!」


 女性の嗚咽が診察室に響く。

 俺は黙って、彼女の悲痛な告白に耳を傾けていた。


「その日の夜から、あの子は何度も嘔吐を繰り返して、ぐったりして動けなくなりました。

 慌てて夜間救急に駆け込みましたが、ワクチンの副反応によるアナフィラキシーショックと、それに伴う急性腎不全を起こしていると言われました。

 小さな体に何本も管を繋がれて、三日間、苦しんで苦しんで……

 そのまま、私の腕の中で息を引き取ったんです」


 絞り出すような声には、何年経っても決して消えることのない、生々しい絶望がこびりついていた。

 ワクチンの副反応で命を落とすケースは、決して多くはない。

 確率で言えば、数万分の一、あるいは数十万分の一の不幸な偶然かもしれない。

 だが、当事者である飼い主にとっては、それが「百パーセントの絶望」なのだ。


「私が、あの子を殺したんです。

 法律だからと疑いもせずに、健康だったあの子の体に毒を入れるよう、お金を払ってお願いしてしまった……!

 その罪悪感で、私は何年も立ち直れませんでした」


 女性は診察台の上のマロンを、愛おしそうに、そして壊れ物を扱うようにそっと撫でた。


「縁があってこのマロンを引き取りましたが、春が来てこの赤いハガキが届くたびに、あの子が苦しんで死んでいった姿がフラッシュバックして、夜も眠れなくなるんです。

 マロンはもう十二歳で、最近は心臓の雑音も指摘されています。

 もし、この子まで同じように苦しんで死んでしまったら……

 私はもう、生きていけません……!」


 女性の悲痛な訴えを聞き終え、診察室には重苦しい沈黙が降りていた。

 法律で義務付けられている以上、「打ちません」とは簡単に言えない。

 打たなければ狂犬病予防法違反となり、飼い主には罰金が科せられる可能性もある。

 何より、狂犬病という病気の恐ろしさを社会全体で防ぐための、絶対的なルールなのだ。


 町田さんは元保健所職員として、その法律の壁がいかに高く、行政がいかに強硬であるかを誰よりも知っている。

 「法律ですから打たなければなりません」と告げるのは簡単だ。


 かつての彼女なら、窓口で事務的にそう説明していただろう。


 だが今の彼女は、白衣を着た一人の獣医師として、目の前で涙を流す飼い主の深い愛情と恐怖に、激しく葛藤しているようだった。

 町田さんが言葉を探して俯いた、その時だ。


『……お兄ちゃん』


 俺の脳内に、微かに震えるような、優しく可愛らしい声が響いた。

 声の主は、診察台の上でペタンと伏せている老犬のマロンだった。

 俺はハッとして、マロンの大きな瞳を見つめ返した。


『あのさ、お兄ちゃん。

 その赤い紙、お母さんをいじめる悪い紙なんだね』


 マロンの思考は、人間の子供のように純粋で、そして真っ直ぐだった。

 俺は心の中で彼に語りかけながら、その言葉の続きを待った。


『お母さん、あれがポストに来てから、ずっと泣いてるんだよ。

 夜も眠らないで、僕をずっと抱きしめて、ごめんねって泣いてるんだ。

 僕、お母さんが泣いてると、胸の奥がぎゅって痛くなるんだよ』


 マロンは短い尻尾を、パタパタと弱々しく振った。


『お注射、すっごく痛いし、後で体が熱くなるから、本当は僕も嫌なんだ。

 でもね……

 お母さんがずっと泣いてる方が、もっともっと嫌なの。

 僕がチクって我慢して、お母さんがもう泣かなくてよくなるなら……

 僕、我慢するよ。

 だから、早くその悪い紙をやっつけてよ』


 それは、己の苦痛や命のリスクよりも、愛する飼い主の涙を止めることを優先する、無償の愛の言葉だった。

 犬という生き物は、どうしてここまで真っ直ぐに、人間を愛することができるのだろうか。

 俺はこみ上げてくる熱いものを必死に堪え、ゆっくりと口を開いた。


「……町田先生」


 俺の静かな声に、町田さんと女性が同時にこちらを向いた。

 俺はマロンの頭をそっと撫でながら、彼が伝えてくれた思いを、一言一句違わずに通訳した。


「マロンが、言ってます。

 『お母さんが夜も眠らずに泣いているのを見るのが、一番辛い』って。

 『注射は痛くて嫌だけど、自分が我慢することでお母さんが泣かなくて済むなら、自分は我慢する』って……

 この子は、自分の命よりも、お母さんの笑顔を守りたいと言ってるんです」


 俺の通訳を聞いた瞬間、女性は両手で顔を覆い、「マロン……!」と声を上げて泣き崩れた。

 マロンは彼女の震える手に小さな顔を擦り寄せ、懸命にその涙を舐めようとしている。

 町田さんは、そんな一人と一匹の姿をじっと見つめていた。

 彼女の眼鏡の奥の瞳が、僅かに潤んでいるのが分かった。

 そして、彼女は大きく一つ深呼吸をすると、手に持っていた聴診器をコトリと机の上に置いたのだ。


「……マロンちゃん。

 あなたの優しさは、しっかり受け取りました。

 でもね、あなたが痛い思いを我慢しなくても、お母さんを助ける方法はちゃんとあるのよ」


 町田さんはそう言って、引き出しから一枚の真新しい書類を取り出した。

 そして、迷いのない手つきでボールペンを走らせていく。

 女性が涙に濡れた顔を上げ、不思議そうに町田さんの手元を見つめた。


「先生……?

 それは……」


「狂犬病予防法は、確かに厳格な法律です。

 ですが、決して血の通っていない悪魔の掟ではありません。

 高齢や重い疾患、あるいは過去のアナフィラキシーの既往などにより、ワクチンの接種が命の危険を伴うと獣医師が判断した場合、接種を『猶予』する制度がきちんと設けられているんです」


 町田さんは書き上げた書類に印鑑を押し、それを女性の前に差し出した。

 そこには『狂犬病予防注射猶予証明書』という文字が、はっきりと印字されていた。


「マロンちゃんには、心雑音という明確な基礎疾患があり、年齢も十二歳と高齢です。

 さらに、同居犬がワクチンの副反応で亡くなっているという強い精神的ストレスの背景もある。

 獣医学的見地から見て、現在のマロンちゃんにワクチンを接種することは、著しくリスクが高いと私が判断しました。

 ですので、今年度の接種は見送ります。

 打ちません」


 力強く、そして温かい断言だった。

 女性は信じられないものを見るような目で、その証明書と町田さんの顔を交互に見比べた。


「でも……役所の人たちは、打てって……

 法律だからって、怒られませんか……?」


「大丈夫です。

 私は元々、その役所でこの書類を審査し、受理する側にいた人間ですから」


 町田さんは初めて、誇らしげな笑みを浮かべた。


「行政の人間がどういう文言を求め、どういう医学的根拠を提示すれば一切の文句を言わずに受理するのか、私は誰よりも熟知しています。

 この証明書は、絶対に突き返させない、完璧な『盾』です。

 行政への手続きや提出は、すべて私が代行しますから、安心してください」


 それは、かつて「法律の壁」の側にいた彼女だからこそ作ることのできる、最強の守りの盾だった。

 保健所で事務的に命の線引きをしていた過去の自分を、彼女はようやく肯定できたのかもしれない。

 あの苦しい日々の知識と経験が、今こうして目の前の小さな命と、飼い主の壊れそうな心を救うための武器になっているのだから。


「飼い主の義務は、盲目的に法律に従うことではありません。

 目の前の、この小さな家族の命を守るために、最善の選択をすることです。

 あなたはもう、自分を責めなくていいんですよ」


 町田さんの言葉に、女性は証明書を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。

 それは、長年にわたって彼女を縛り付けていた罪悪感と、死の恐怖という重圧から、ようやく解放された涙だった。


 待合室の奥から、様子を窺っていた老犬たちの声が聞こえてきた。


『……まったく、人間ってのは難儀な生き物だねぇ。

 愛してるくせに、紙切れ一枚に怯えて泣くんだから』


 モモ婆ちゃんが呆れたように鼻を鳴らす。


『法律だか何だか知らないが、命より重い紙切れなんざ、この世にありゃしないさね。

 あの白い服のねえちゃんも、なかなか粋な真似をするじゃないか』


 バロンもそれに同意するように、低く喉を鳴らした。


『ああ。

 番犬として鎖に繋がれていた俺から見ても、あいつは立派な守り手だ。

 あの小さなチワワも、これで安心して眠れるだろう』


 老犬たちの言う通りだった。

 診察台の上のマロンは、緊張の糸が切れたように体を丸め、安心しきった顔で女性の手にすりすりとおでこを擦り付けていた。


『……お兄ちゃん、ねえちゃん。

 ありがとう。

 お母さんの涙、止まったよ。

 これで僕も、痛いお注射しなくていいんだね』


「ああ、もう大丈夫だ。

 マロン、これからはお母さんと一緒に、のんびり長生きしろよ」


 俺が小声で伝えると、マロンは嬉しそうに『うんっ』と返事をした。


 診察を終え、何度も何度も頭を下げながら帰っていく女性の足取りは、来た時とは見違えるほど軽く、そして明るかった。

 キャリーバッグの中からこちらを見つめるマロンの瞳も、春の日差しを反射してキラキラと輝いている。

 俺と町田さんは、玄関先でその小さな背中が見えなくなるまで見送った。


「お見事でした、町田先生。

 あの猶予証明書、まるで魔法の護符みたいでしたよ」


 俺が感心したように言うと、町田さんは白衣のポケットに手を突っ込み、少し照れくさそうに笑った。


「魔法なんかじゃありません。

 ただの行政手続きの裏技です。

 ……でも、獣医師にできることは、ただ注射器を握ることだけじゃないんですね。

 『打たない』という選択肢を提示することで、命と心を救うこともできるんだと、マロンちゃんに教えられました」


「ええ。

 先生の行政での経験が、こうして誰かを守る力になったんです。

 立派な獣医の仕事ですよ」


 俺の言葉に、町田さんは深く息を吸い込み、春の匂いを胸いっぱいに満たした。

 空は青く澄み渡り、裏山からはウグイスの拙い鳴き声が聞こえてくる。


 医療の限界や、法律という巨大な壁。


 これからも、俺たちの前には様々な困難が立ち塞がるだろう。

 だが、俺には犬たちの声を聞き届ける力があり、彼女にはその声を医療と知識で支える力がある。

 二人でなら、どんな壁も越えて、この小さな命たちを守り抜いていけるはずだ。


 足元で「ご飯はまだか」と催促するゲンたちの賑やかな鳴き声を聞きながら、俺と町田さんは春の柔らかな日差しの中で、静かに微笑み合った。

物語として書いていますので、実際の現場ではどうなるかわかりません。

また、ワクチンに対してもっと根絶的な対応を望む場合もあるかと思います。

本文書の内容は、あくまでも物語である旨をご認識いただき、対応や解釈についての齟齬やご不満についてはご容赦いただければと思います。

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