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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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幕間録:008「命の値段」

家で引き取った保護犬のチワワが同じ病気です。

直面しているワンコの病気を題材にしてみました。


 初夏の気配が、山の中腹にある古い平屋の施設にも漂い始めていた。


 吹き抜ける風には青々とした若葉の匂いが混じり、日差しの強さも少しずつ増してきている。

 引退したブリーダーから譲り受けたこの広大な敷地を「山城老犬ホーム&町田動物病院」として本格的に稼働させ始めてから、それなりの月日が流れていた。


 獣医師である町田亜子さんの献身的な治療と、俺の「老犬の声が聞こえる」という能力の連携により、この施設は多くの老犬たちにとっての終の棲家として、そして地域の人々にとっては頼れる動物病院として、なくてはならない場所になりつつあった。


 だが、命を預かる場所である以上、穏やかな日々ばかりが続くわけではない。


 俺たちがどれだけ手を尽くしても、どうにもならない現実の壁というものが、確かに存在しているのだ。

 それを思い知らされたのは、梅雨入りを目前に控えたある日のことだった。

 

 その日、俺たちの施設に新たな老犬が引き取られてきた。

 マルチーズの血が入った小型のミックス犬で、名前は『コロン』という。

 推定年齢は十三歳。


 元の飼い主が重い病で入院することになり、身寄りもないために泣く泣く手放された犬だった。

 引き取られてきたコロンを診察台に乗せた瞬間、俺も町田さんも、その状態の悪さに言葉を失った。

 コロンの体はガリガリに痩せ細り、呼吸は常に浅く、そして荒い。

 少し動いただけで「カハッ、カハッ」と、喉の奥に何かが詰まったような、乾いたひどい咳を繰り返している。

 夜もまともに眠れていないようで、濁った瞳には深い疲労の色が浮かんでいた。


「……心雑音がひどいですね。

 心臓もかなり肥大しています。

 呼吸音も酷い…

 ステージC…、かなり進行している状態ですね」


 聴診器を当てていた町田さんの顔が、サッと青ざめた。

 彼女はすぐさまエコー検査の準備を整え、コロンの胸部にプローブを滑らせる。

 モニターに映し出された白黒の画像を見つめる町田さんの表情は、獣医師としての険しさに満ちていた。

 やがて、彼女は重苦しいため息をつき、エコーの電源を落とした。


「山城さん。

 僧帽弁閉鎖不全症という病気を知っていますか?」


「……名前くらいは。

 心臓の弁がうまく閉じなくなって、血液が逆流する病気ですよね?」


 俺の答えに、町田さんはこくりと頷いた。


「はい。

 シニア期の小型犬には非常に多い病気です。

 小型犬はこの心臓病が発病しやすく、身近で恐ろしい『死神の鎌』のようなものです。

 今、コロンちゃんはその末期症状一歩手前の状況にあります。

 逆流した血液が肺に負担をかけ、肺水腫を引き起こしている状態です。

 獣医学的にはこの状態をステージCと言っていて、これがステージDになると治療抵抗性となり、「末期」、通常の内科治療に反応しない状態を迎えます」


 死神の鎌。

 その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。

 診察台の上で横たわるコロンが、小さく身をよじって荒い息を吐き出した。

 その瞬間、俺の脳内にコロンの苦痛の声が直接響いてきた。


『……ハァ……ハァ……

 息を吸っても吸っても、胸の奥で水が溺れるみたいにゴボゴボ鳴るだけで楽にならない……

 苦しいよ……』


 俺は反射的にコロンの小さな頭を撫でた。

 その体は、驚くほど小刻みに震えている。

 俺は町田さんに、コロンの言葉をそのまま通訳した。


「……息を吸うと、胸の奥で水が溺れるみたいにゴボゴボ鳴って苦しい、と言っています。

 先生、なんとかなりませんか」


 俺の問いに、町田さんは奥歯を強く噛み締めた。


「……今は、利尿剤で肺に溜まった水を抜き、強心薬で心臓の働きを助けるしかありません。

 すぐに酸素室に入れましょう」


 町田さんの指示で、俺たちはコロンを速やかに高濃度の酸素で満たされたケージへと移動させた。

 酸素室に入ると、コロンの呼吸は少しだけ落ち着いたように見えた。

 だが、それはあくまで一時的な対処療法に過ぎないことを、俺も町田さんも痛いほど理解していた。

 

 その日から、町田さんの様子がおかしくなった。


 心臓外科手術は、極めて高度な専門知識と設備が必要な領域である。


 彼女は本来、外科手術よりも内科的治療や予防医療が専門だと聞いている。

 だが、町田さんは「なんとかコロンを根治させたい」という強い思いに駆られ、専門外である心臓外科手術の文献や、海外の最新論文を読み漁るようになったのだ。

 夜中になっても診察室の明かりは消えず、デスクには分厚い専門書が山のように積まれている。

 朝、俺が犬たちの世話をするために土間へ向かうと、そこには目の下に濃い隈を作り、何杯目かも分からないブラックコーヒーを胃に流し込んでいる町田さんの姿があった。


「先生、いくらなんでも無理しすぎです。

 少し寝てください。

 犬たちの診察に支障が出ますよ」


 俺がそう声をかけても、彼女は充血した目で論文から視線を外さなかった。


「……大丈夫です。

 私なら、もっと知識をつければ……

 手術の手順さえ完璧に頭に入れれば、道は開けるはずなんです。

 だから、もう少しだけ……」


 それは、もはや執念というよりも、焦りに憑りつかれているような痛々しい姿だった。

 彼女は獣医師として、目の前で苦しむ命を救えない己の無力さを、必死に埋め合わせようとしているのだ。

 だが、人間の体には限界がある。

 

 数日後の午後。

 梅雨の晴れ間で、蒸し暑い空気が施設を包んでいた日のことだ。

 診察室でカルテの整理をしていた町田さんが、突然グラリと体を揺らした。

 そして、バランスを崩したように、そのままその場にへたり込んでしまったのだ。

 ガチャンと、机の上のペン立てが床に落ちて散らばる。


「町田さん!」


 待合室の掃除をしていた俺は、慌てて診察室に駆け込み、彼女の肩を支えた。

 彼女の体は冷え切り、小刻みに震えていた。


「大丈夫ですか。

 だから言ったでしょう、無理しすぎだって。

 今日はもう休んでください。

 俺が奥の部屋に布団を敷きますから」


 俺がそう諭して立ち上がらせようとすると、町田さんは俺の腕を強く掴んだ。

 そして、限界まで張り詰めていた糸がプツリと切れたように、大粒の涙をポロポロとこぼし始めたのだ。


「……山城さん、知ってますか?

 僧帽弁閉鎖不全症の手術、その平均金額は二百万円ですよ。

 二百万です。

 それに加えて、人工心肺などの高度な設備と、経験を積んだ専門の医療チームが不可欠なんです」


 彼女の声は、嗚咽に震えていた。

 俺は何も言えず、ただ彼女の言葉を黙って聞き続けるしかなかった。


「私はこれまで、保健所や勤務医時代に、この病気で泣き崩れる飼い主さんをたくさん見てきました。

 どれだけ愛していても、高額な治療費や手術のリスクを前に、悲しいけれど『どうしようもない』と諦めざるを得なかった人たちを……!

 飼い主がいたって救えない命が多いのに、飼い主のいないこの子たちにとっては、治す方法があるのにお金と環境がないから手が出せないんです。

 こんな山奥の個人の施設で、私一人の技術でどうにかなるような手術じゃない。

 そんなの……この子たちに『死ね』と言っているようなものです……!」


 命を救う最前線に立ちたいと願ったからこそ突きつけられた、残酷な医療の限界。

 そして、過去に見てきた飼い主たちの無念がフラッシュバックし、激しい葛藤と絶望となって彼女の心を打ち砕いていたのだ。

 知識を詰め込んでも、手術のシミュレーションを何度繰り返しても、現実の壁は高すぎた。

 お金がないから、設備がないから、救えない。

 その現実が、心優しい獣医師の魂を深く傷つけていた。


 俺はどう慰めるべきか言葉を見つけられず、ただ立ち尽くしていた。

 すると、診察室の奥に置かれた酸素室の中から、かすかな物音が聞こえた。

 酸素室の扉が少しだけ開いており、そこからコロンがフラフラとした足取りで歩み寄ってきたのだ。

 コロンは荒い息を吐きながら、泣き崩れる町田さんの足元に擦り寄った。

 そして、彼女の冷たい手を、小さなザラリとした舌で一生懸命に舐め始めた。


『……ねえちゃん、泣かないで』


 俺の脳内に、コロンの穏やかな声が響いた。

 俺は息を呑み、静かに口を開いてその言葉を通訳し始めた。


「先生。

 コロンが、言ってます。

 『ねえちゃん、泣かないで』って」


 町田さんは顔を上げ、涙で滲んだ目でコロンを見つめた。

 コロンは咳き込みながらも、町田さんを見上げて優しい目を向けていた。


『痛いのを取ってくれようとしてるの、わかってるよ。

 僕のために、ずっと起きててくれたのも知ってる。

 でもね、胸を切るとか、怖いことしなくていいんだ。

 こうして優しい手で撫でてくれて、苦しくないようにお薬をくれるだけで……

 僕は十分、幸せなんだよ』


 俺が通訳する間、町田さんはコロンの体をそっと抱きしめた。

 コロンの温かい体温が、彼女の冷え切った手に伝わっていく。

 いつの間にか、待合室にいた老犬たちも診察室の入り口に集まっていた。

 モモ婆ちゃんがゆっくりと歩み寄り、町田さんの足元に鼻先をこすりつける。


『あんた、泣くのはやめな。

 長生きだけが幸せじゃないさね。

 どれだけ生きるかより、誰の膝の上で眠れるかが、あたしらにとっては一番大事なんだよ』


 続いて、元番犬のバロンが低く喉を鳴らした。


『そうだ。

 ここでこうして仲間たちと息をしているだけで、俺たちは救われている。

 お前は十分、俺たちを助けてくれているんだ』


 老犬たちの静かで力強い言葉を、俺は一つ一つ丁寧に町田さんに伝えた。

 町田さんは嗚咽を漏らしながら、コロンを胸に抱き、モモ婆ちゃんやバロンたちの頭を何度も何度も撫でた。


「……ごめんね。

 ごめんね、みんな。

 私、自分が何もできないのが悔しくて……

 自分の無力さを、受け入れたくなかっただけなのかもしれない」


 医療による完治だけが、動物たちを救う方法ではないのだ。

 限られた時間の中で苦痛を取り除き、安らかな最期を迎えられるように愛情を注ぐこと。

 緩和ケアと呼ばれるその時間こそが、今の自分たちにできる最大の治療であり、かつて救えなかった命や涙を呑んだ飼い主たちの思いにも報いることなのだ。

 町田さんはその真実に、老犬たちの無償の愛を通してようやく気づくことができた。

 

 数日後。

 町田さんは無理な徹夜をやめ、すっかり元の生き生きとした表情を取り戻していた。

 コロンの症状は相変わらず一進一退を繰り返しているが、適切な投薬と酸素量の調整のおかげで、少しずつ穏やかに眠れる時間が増えてきている。

 診察室の隅で、町田さんがコロンの背中を優しく撫でながら、酸素チューブのクリップを調整していた。

 その手つきは迷いがなく、ただ目の前の命の深さに向き合う温かさに満ちていた。


「治すことはできなくても、絶対に一人では逝かせませんからね。

 苦しくないように、ずっとそばにいますから」


 町田さんが微笑みかけると、コロンは安心したように目を閉じ、小さく尻尾を振った。

 俺は二杯分のコーヒーを淹れ、湯気の立つマグカップを町田さんに手渡した。


「お疲れ様です、先生。

 コロン、だいぶ落ち着いてきましたね」


「ええ、ありがとうございます。

 山城さんや、あの子たちのおかげです。

 私、獣医師として大切なことを忘れかけていました」


 町田さんはコーヒーの香りを深く吸い込み、窓の外の青空を見つめた。

 そして、決意を秘めた強い瞳で俺の方を振り返る。


「……でも、だからといって、諦めるわけじゃありません。

 今は無理でも、いつか……

 もっと安価に、もっと身近に、この病と向き合える病院にしていきましょう。

 高額な費用が払えなくて、大切な家族の命を諦めなければならない飼い主さんたちを、一人でも多く救えるように。

 それが、私たちの新しい目標です」


 その言葉は、悲しみに打ちひしがれていた数日前の彼女の言葉とは違う、確かな希望を持った響きだった。

 俺は思わず微笑み、マグカップをコツンと彼女のカップに軽くぶつけた。


「望むところですよ。

 そのために、俺もできる限りのことはします。

 犬の通訳でも、施設の拡張でも、なんだって言ってください」


「ふふ、頼もしいですね。

 じゃあ、まずはこの散らかった待合室の掃除からお願いします」


 冗談めかして笑う町田さんの声に、待合室の老犬たちも呼応するように「ワフッ」と声を上げた。

 二百万円の手術費用は、俺たちの手には届かない高嶺の花かもしれない。

 だが、この場所にある命への敬意と温もりには、どんな金額もつけることができない無価の価値がある。

 俺たちはこれからも、決して逃げることなく、小さな命の重さと向き合い続けていくのだ。

 初夏の陽光が差し込む診察室には、新しい誓いを立てた二人の静かな笑い声と、老犬たちの安らかな寝息がいつまでも響いていた。

つい昨年末に8歳で亡くなった愛犬は心肥大に気が付かず、急性心不全から肺水腫、発病から僅か2日でお別れすることになってしまい、年越しの家族は悲しみに暮れました。

一般的に小型犬で8歳程度のシニアになったときに、自然に心肥大が疑われ顕在化することが多いものだと認識しています。

うちの保護犬の年齢はまだ5歳程度でステージはB2ですが、顕在化した年齢が若干若いので、進行も早く長く生きられない可能性が高いと言われています。

その時の獣医との会話の中で、200万前後で根絶治療として手術が可能なことと、難しい場合の緩和ケアの話をしたので、題材にした限りです。

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