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黄昏の守り人 ~星降る夜、老犬たちの声~  作者: 無呼吸三昧


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メイン前編:罪と罰

過去に書いた「老犬を飼うもの」をリニューアルしたものです。

前・後編二部作にしました。

父親は、人間の形をした汚泥だった。


車という鉄の塊に異常なほどの執着を見せ、湯水のように金を注ぎ込む。

その金が尽きればギャンブルに走り、負ければ酒を浴びるように飲み、家という閉ざされた箱の中で暴虐の限りを尽くした。

怒号。破壊音。そして、鈍い打撃音。

それらが日常のBGMだった。


あの日、父が死んだと聞いた時、俺の心に浮かんだのは悲しみではなく、底冷えするような安堵だった。

飲酒運転の末、家族よりも大切に磨き上げていた愛車ごとガードレールを突き破り、助手席に乗せていた愛人と共に谷底へ落ちたのだという。

自らの欲望のままに生き、他者を踏みにじり、最後は自らの愛した鉄屑の中で死んだ。

ある意味で、完璧な喜劇だった。


母親は、空っぽの器だった。


父という枷が外れた瞬間、彼女の中にあったタガもまた外れたようだった。

まだ幼かった俺たち兄妹を家に放置し、昼夜を問わず男を連れ込んだ。

家の中には常に甘ったるい香水と、知らない男の体臭が混じり合った異様な匂いが充満していた。

彼女は愛を求めていたのではなく、ただ自分を慰めてくれる肉体を求めていただけなのだろう。


父が死んだ後、彼女の奔放さは加速した。

長男である俺は早々に母方の実家へと預けられた。

邪魔者が減った家で、母はさらに乱れた生活を送ったらしい。

その代償を払わされたのは、まだ幼く、逃げることもできなかった妹だった。


連れ込まれた外国人の男の一人が、泣き止まない妹に苛立ち、暴力を振るった。

妹の小さな命は、あまりにも呆気なく奪われた。

男は逃亡し、母親は保護責任者遺棄致死の容疑で連行された。

その後、釈放された彼女は、誰に看取られることもなく自ら命を絶った。


母方の祖母は、盲目だった。


厳格な祖父が娘を叱ろうとするたびに、「この子は悪くない」と泣いて庇った。

そうして善悪の区別もつかないまま大人になった怪物が、あの母親だ。

祖母は、娘が産んだ俺たち孫には一切の関心を示さなかった。

それどころか、俺たちが娘の人生を邪魔するお荷物であるかのように扱い、施設への送致を淡々と進めていた。

内臓を患い入退院を繰り返していた彼女は、愛娘の自殺を知ったショックで容態を急変させ、そのまま後を追うように逝った。


父方の祖父母については、語る言葉すら持たない。

彼らは既に鬼籍に入っていたが、あの父親という屑を生み出し、野放しにしたという一点において、同罪と言えた。


そして、妹。

あの子は、ただただ哀れな被害者だった。

弱く、抗う術を持たず、この世の理不尽を一身に受けて消えていった。

俺はあの子を守れなかった。


母方の祖父だけが、唯一、まともな人間だった。


全てを失い、誰からも望まれていなかった俺を引き取り、不器用ながらも深い愛情で育ててくれた。

祖父が亡くなった時、俺には家と、裏山ひと山と、贅沢さえしなければ一生暮らしていけるだけの遺産が遺された。

田舎の不便な土地だったが、人里離れたその場所は、人間という生き物に絶望していた俺にとって、この上ない聖域だった。


そして俺だ。

俺、山城健太もまた、紛れもない屑だった。


暴力に怯え、親の顔色を窺い、妹を見殺しにし、自分だけが安全な場所へと逃げ延びた。

その罪悪感は、三十五歳になった今も、胸の奥に焼き付いたコールタールのようにへばりついて離れない。


幼い頃の俺には、唯一の救いがあった。

まだ両親の関係が修復不可能になる前、知人から譲り受けた一匹の雑種犬。


『コロ』


安直な名前だったが、俺はその茶色い毛玉を、弟のように、親友のように慈しんだ。

コロもまた、俺に全幅の信頼を寄せてくれた。

学校から帰ると、千切れんばかりに尻尾を振って出迎えてくれる。

その温もりだけが、冷え切った家の中で俺が人間性を保つための命綱だった。


だが、幼い俺は愚かだった。

その小さな幸せが、永遠に続くものだと信じて疑わなかったのだ。


両親の喧嘩が激化するにつれ、家の中は戦場と化した。

飛び交う怒号、食器が割れる音。

俺は部屋の隅で膝を抱え、耳を塞いで震えることしかできなかった。

そんな時、コロは必ず俺のそばに寄り添い、不安げな瞳で俺を見上げ、ザラリとした温かい舌で濡れた頬を舐めてくれた。

その体温だけが、俺が生きていてもいいという証だった。


転機は唐突に訪れた。

母親の妊娠が分かったのだ。

妹が生まれる。

「赤ん坊に犬の毛は良くない」

そんな身勝手な理由で、室内で飼われていたコロは、真冬の屋外へと放り出された。


俺は泣いて懇願した。

「コロは外じゃ寒いよ、お願いだから中に入れてあげて」と。

だが、父親の拳が俺の頬を殴り飛ばし、母親のヒステリックな叫び声がその懇願をかき消した。

俺はそれ以上、何も言えなくなった。

ただ親の命令に従い、震えるコロを庭の犬小屋に繋ぐことしかできなかった屑だった。


それからの日々は地獄だった。

俺への暴力は日常化し、体中が痣だらけになった。

痛みに耐え、声を殺して泣く俺の耳に、庭からコロの鳴き声が届く。


『クゥーン、クゥーン』


それは「寒いよ」「寂しいよ」「健太くん、助けて」と訴える声だった。

俺はその声を聞きながら、布団を頭から被り、耳を塞いだ。

助けに行けば、また殴られる。それが怖かった。

一番大切な友達が助けを求めているのに、俺は保身を選んだのだ。


やがて、異変に気付いた母方の祖父が強引に介入し、俺を引き取ることになった。

祖父の家の温かい風呂に入り、殴られる心配のない布団で眠った翌朝、俺は祖父から告げられた。


「あの犬は、保健所に連れていかれたそうだ」


両親は、俺がいなくなったその日のうちに、邪魔になったコロを処分したのだ。

俺は泣いた。

喉が裂けるほど叫び、泣き崩れた。

だが、どれだけ泣いてもコロは帰ってこない。

俺が耳を塞いでいたあの夜、コロはどんな思いで俺を呼んでいたのだろう。

冷たい檻の中で、殺される瞬間、コロは俺のことを恨んでいただろうか。

それとも、最後まで俺が助けに来てくれると信じていただろうか。


その日からだ。

俺の耳に、幻聴が聞こえるようになったのは。


『健太くん……たすけて』

『さむいよ……健太くん』


それは風の音に混じり、雨音に混じり、俺の鼓膜を震わせ続けた。

俺への罰だと思った。

一生背負うべき、十字架なのだと。


屑な両親から生まれた、屑な俺。

山城健太、三十五歳。

祖父の遺産で食いつなぎ、世間との関わりを絶って生きる世捨て人。


だが、何の因果か、神様というのは時折残酷な気まぐれを起こすらしい。

幻聴だと思っていたその「声」には、とんでもない秘密が隠されていた。


それに気付いたのは、二十八歳の時だった。


十八歳で祖父を看取り、広すぎる屋敷に一人残された俺は、十年近い孤独の末に、再び犬を飼うことを決意した。

贖罪のつもりだったのかもしれない。

保健所の冷たいコンクリートの床で震えていた子犬。

その姿が、あの日見捨てたコロと痛いほどに重なった。

茶色い毛並み、少し垂れた耳、怯えた瞳。

俺は迷わずその子犬を引き取り、震える体を抱きしめて家へ連れ帰った。


名前は『コロ』にした。

最初のコロへの冒涜かもしれない。

だが、俺はどうしてもそう呼びたかった。

今度こそ、幸せにする。絶対に最後まで守り抜く。

その誓いを込めて名付けた。


二代目のコロとの生活は、俺の凍りついた時間を溶かしていくようだった。

かつてのコロにしてやれなかったことを、全てやった。

高級なドッグフードを与え、ふかふかのベッドを用意し、夏は涼しく冬は暖かい部屋で一緒に過ごした。

毎朝朝日を浴びて散歩し、風呂に入れ、旅行にも連れて行った。

コロは俺に懐き、俺もまたコロを愛した。

俺の人生に、初めて「幸福」という色が着色された十年間だった。


異変が起きたのは、コロが十歳を迎えたある日のことだ。


リビングで寛いでいると、足元でコロが何かを言いたげに見上げていた。

「ワン」でも「クゥーン」でもない。

もっと複雑な、抑揚のある響き。


『健太くん、今日のごはん、あのお芋のやつがいいな』


俺は持っていたマグカップを取り落とした。

床に広がるコーヒーの染みなど気にも留めず、俺はコロを凝視した。

「……今、なんて言った?」


コロは不思議そうに首を傾げ、再び口を開く。


『え? だから、お芋のやつ。昨日の夜の残りの、甘いやつだよ』


幻聴ではなかった。

俺には、老犬の言葉が「人間の言葉」として聞こえるようになっていたのだ。

いや、正確には十歳を超えた犬の声だけが、意味のある言語として脳内に直接響いてくるようだった。

それ以外の若い犬や、他の動物の声は聞こえない。

「老犬」限定の、奇妙な能力。


俺とコロは、それから毎日のように会話をした。

犬が普段何を考えているのか、散歩中にどんな匂いを嗅いでいるのか、俺のどこが好きなのか。

コロの話す内容は、幼い子供のように純粋で、そして哲学者のように深遠だった。


『風の匂いが変わったね。明日は雨が降るよ』

『健太くん、悲しい顔しないで。僕がそばにいるから』


しかし、幸せな時間は長くは続かない。

能力の開花から二年後、コロは癌を患った。

俺は金に糸目をつけず、最高の治療を受けさせた。

痛みを和らげ、少しでも長く一緒にいられるよう、あらゆる手を尽くした。

コロもまた、俺を悲しませまいと気丈に振る舞い続けた。


『痛くないよ。健太くんの手が温かいから、平気だよ』


嘘だと分かっていた。

体は痩せ細り、歩くことさえままならなくなっていた。

それでもコロは、俺に向けられる眼差しだけは、出会った頃と同じように優しく輝かせていた。


翌年の春。

桜の花びらが風に舞い込む縁側で、コロはその生涯を閉じた。

最期の瞬間、コロは俺の膝に頭を乗せ、消え入るような声でこう言った。


『泣かないで、健太くん。

 君が老犬の言葉を分かるようになったのは、きっと神様からのプレゼントだよ。

 そこには何か、大きな意味があるはずなんだ。

 僕がいなくなっても、その力で、たくさんの仲間を救ってあげて……』


それが、愛する友の遺言だった。


俺はその言葉を道標として生きることを決めた。

祖父が残した広大な土地と家屋、そして俺自身の人生の全てを、老犬たちのために捧げようと。


保健所に連絡を入れ、殺処分寸前の老犬たちを引き取り始めた。

最初は訝しがっていた職員たちも、俺がどんなに病気の犬や、凶暴化した老犬でも引き取り、最期まで手厚く看取る姿を見て、次第に協力的になってくれた。

「老犬専門の駆け込み寺」。

いつしか俺の家は、そう呼ばれるようになっていた。


今日もまた、一本の電話が鳴る。

俺は車のキーを掴み、玄関を出た。


「待ってろよ。今、迎えに行くからな」


車窓を流れる景色を見ながら、俺は助手席の空席を撫でた。

そこにはかつて、コロが座っていた。

姿は見えないが、今も俺の隣で、窓の外を流れる風の匂いを嗅いでいる気がした。

俺の贖罪の旅は、まだ終わらない。

もし思うところがあれば、ご評価いただけますと幸いです。

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