序章-1
一人の女が、彼女以外は誰も居ない地下室に居る。明かりは僅かな蝋燭のみでもたらされており、揺らめく炎は、壁に揺れ動く女の影を映し出している。
その壁には膨大な量の契約文の作成例が、まるで結界のように張り巡らされており、それは壁だけでは足りず、床をも浸食していた。
床の中央には一本の長い剣が刺さっている。彼女はその剣を、緊張した目で見つめている。失敗は許されない。このために、今まで準備してきたのだから……。
彼女は、その剣に、そっと触れた。
その瞬間に、剣が女の頭に、直に語り掛けてきた。いや、そうではない。剣は触媒に過ぎない。異世界にいる者たちが、女の頭に直接回線を繋ぎ、女の頭の中に窓を作って、そこから語り掛けている。
その剣は、古の一代限りの異端の魔法使いが作った、朽ちることのない、異世界への鍵。繋がった先に居る者は、誰もが災害のような力を持ち、詐欺師のように相手を値踏みする、圧倒的な強者たち。
様々な異世界の住人が語り掛ける中、女が目的としている者は、最初から決まっていた。
悪魔
異世界の住人の中で、最も古くからいる者であり、最も強い力を持つ、強者の中の強者。
女は、悪魔と対峙する。悪魔は女に語りかける。
「私を選んだか。一体何を望むのだ?」
女は、緊張している。自身が対峙している者がどれほど恐ろしいのかを、彼女は分かっている。知らないうちに口の中に溜まっていた、溢れそうになっていた生唾を飲み込んだ。
だが、何を言うべきかは、予め用意してあった。
異世界の強者との契約は難しい。
「大金持ちになりたい」
と、言った者が、出口のない、金塊の溢れる部屋に飛ばされたり、
「最強になりたい」
と、言った者が、誰も居ない場所に飛ばされたり、
何も考えずに契約を結ぶと、思ってもいなかった結果になることが多い。そのため、そういった穴を防ぐために、密に契約を固める必要がある。
女は、用意していた契約文を語り始めた。まるで呪文の詠唱のごとき、膨大な契約文。悪魔との契約のための契約文など、誰にも相談することなどできない。これを自力で構築してのけたということは、この女の優秀さを示している。
膨大な契約の内容をまとめると、こういう事であった。
「竜王と、夜中の帝都の上で戦い、苦しんで死ぬように、殺せ!」
悪魔は、竜王のことを知っている。悪魔は災害のごとき強さだが、竜王もまた、災害のごとき強さを持つ。この条件を満たしつつ、竜王を殺すのは、悪魔であっても骨の折れる仕事にあることが予想された。
「では対価の話をしよう。お前の魂だけでは足りない。お前と、お前の親族、一族郎党、お前の領土のすべての住人の魂を、差し出せ」
女は帝国の大貴族でもあった。これほどの人数の住人が魂を失ったら、帝国の人口比率に影響すら出かねない数となるだろう。だが……
「それで構わない」
女は即答した。悪魔に感情はない。だが、即答は想定していなかったので、少しだけ興味を持った。これほど優秀な女が、どのような動機で、竜王の殺害を試みるのだろうか?
「竜王を殺す理由を、聞いても?」
女は、腰まである長い黒髪の根本を掻きむしるように、屈辱的な表情をして、呟く。
「竜王は……あの男は……私を……」
掻きむしった手を、振り下ろすと共に、叫ぶ。
「誑かした!!!」
悪魔は、一瞬で興味を失った。竜王にしては、つまらぬミスを犯したものだ、とも思った。
なんてことのない、話だ。いつもの……良くある話だ。
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