〈!〉【ハルパゼイン注意】
夢なら醒めてくれと、どれほど祈ったか。
ほんの1時間前、この眼で見たんだ。先輩は息をしていなかった。白眼をむいた形相が瞼に焼き付いて離れない。
今さら病院へ運んでも無駄だ。すべては手遅れだ。
どうする、これから?
まずはバックドアのトランクルームに押し込んである遺体をなんとかすべきじゃないか?
なんとかって、どこかの山中に埋めるか? シャベルなんか積んでないぞ。
社用車のハンドルを握る手が、汗でヌルヌルする。
おれは必死に頭を働かせた。
思考がとっ散らかって、うまくまとまらない。
立ち止まるべきじゃない。このまま進むしかない。遺棄できる適当な場所が見つかるかもしれないだろ。
両側を山に挟まれた寂しい国道だった。この先に、先輩を葬るのにふさわしい場所が見つかるのを期待するしかない……。
とんでもない出張からの帰り道になってしまった。
おれは取り返しのつかない罪をしでかした。先輩を殺してしまったんだ。営業部のエースと呼ばれた男も、今じゃ物言わぬ肉塊にすぎない。
朝から地方での企業回り。帰途についた車中だった。
ハンドルを操るおれの傍らで、重要な契約に失敗したのはおまえのせいだと、ずっと詰ってくるのだからたまったもんじゃない。
はじめのうち歯を食いしばって、こらえていたんだ。おれの勉強不足が招いた失策だった。
先輩は、おれが入社したときからこんな調子だった。外面はいいのに、二人きりになった途端、陰湿にイビってくるんだ。だからこそ3年目の営業マンとして鍛えられた面もあるが……。
しまいには人間性まで貶める始末。
はるばる会社まで100キロの道のりを帰る最中、先輩の叱責はエスカレートした。
こっちが反論しなければ、どんどん痛いところを突いてくる。
許せなかった。
「これだから、Z世代のお守りはウンザリなんだ。いつまでもおんぶにだっこしてんじゃねえよ。おれはおまえのママじゃない!」
カッとなった瞬間から直後のことは、よく憶えていない。
民家はおろか、街灯さえまばらにしかない暗い道だった。前後の車両もなかったし、対向車ともすれ違わなかったと思う。
路肩に車を停め、シートベルトをはずした。
助手席の先輩の制止も聞かず、いきなり手元のスマホを鈍器代わりにして殴りつけた。
倒れたところへ馬乗りになり、首を絞めた。
3年分の積年の恨みが爆発した。
あらんかぎりの力で相手を窒息死させた。
こんなにも人はあっけなく死ぬんだ……。
もう後戻りはできない。
ハンドルの右下についた、トランクを開けるレバーを引いておいた。
車外に出てまわり込み、助手席側から遺体を抱きかかえる。
その間も車は一台たりとも通らなかった。
トランクルームに重い荷物を放り込んだ。
バッグドアを叩きつけるようにして閉める。
◆◆◆◆◆
それから、どこをどう走ったか。
気が動転していた。
ナビに従うまま国道を進んでいたのに、早朝通った道ではないような気がした。
街灯がポツポツとしか配置されていない田舎の国道。やがて真っ暗なトンネルに入っては出て、しばらく走るとまたトンネルに入るくり返しになる。
いくつものトンネルをくぐると、しまいには地肌むき出しの、いかにも昔風の手掘りしたようなそれに切り替わった。
真っ暗なトンネルの天井からは水がしみ出し、大量の水が滴っている。
いくらなんでも、現在使われている道とは思えない。
引き返すべきだろ。――だから、引き返せないんだってば!
不気味なトンネルを抜け、どこか切り返しのできる道幅の広いところがないか探した。
どこにもない。
今や道幅は狭く、一台の車両が通れるほどしかない。
右側が崖崩れ防止の金網を張った岩壁、左が錆びたガードレールがあり、その向こうが急角度の断崖になっていた。眼下は渓谷らしい。
左斜め上空には満月がかかり、ちょうど厚い雲のせいで姿を隠してしまったところだった。
世界は闇に閉ざされた。
危険すぎる。徐行するしかない。
そのうち、前方になにかが見えてきた。
左の路肩に、一本の古びた道路標識を見つけたのだ。
それは、おれの心臓を鷲づかみするに充分な視覚的インパクトがあった。
ひし形の黄色い下地に、黒文字で大きく感嘆符のマーク。
〈!〉の標識だ。
ブレーキを踏み込んで、車を停めた。
急ブレーキをかけたせいで、トランク内の先輩が転がり、ゴトリと音を立てるのがわかった。頭でもぶつけたにちがいない。
――〈!〉の標識はたしか、『その他の危険』を表していると聞いたことがあった。警告標識と呼んだはずだ。
ほとんどの場合、その下に補助標識が取り付けられ、落石、動物の飛び出し、幅員減少、大雨冠水など、この先になにかしら用心すべき危険があるため、注意喚起を促しているとか。
だが眼の前にある補助標識には、こうあった――『harpazein注意』。
ハ、ル、パ、ゼ、イ、ン?――ハルパゼイン注意だって?
なんのことやらさっぱりだ。
車を進ませることにした。
社用車はその標識の横を素通りする。
しばらく走ってから、うなじに冷たい汗が流れるのを感じた。
というのも、ごく稀に補助標識さえない、!マークのみの標識があるとネットで眼にしたことがあったのを思い出したからだ。
〈!〉単体は、この先、幽霊が出るため、それに気を取られ事故が多発するから注意せよとの、まことしやかに噂されていたが本当かどうか。
行政が、『幽霊注意』という理由に標識を設置することはありえない。
しかしどこかの職員が、あまりの事故多発地帯の原因を霊の仕業だとして認め、よかれと思って上に嘘をついてまで稟議を通したとしたら、もしかしたら、なきにしもあらずなのでは?
今のは〈!〉と『ハルパゼイン注意』の組み合わせだった。
一概にこの先、幽霊が出るので注意せよとのことではないかもしれないが、どうも落ち着かない。
未知の組み合わせだからこそ、底知れぬ恐怖がさざ波のようにおれの足元から押し寄せる。
先輩を殺してから、事態はどんどんおかしな方向に捻じれつつあった。
とにかく、トランクのあれを始末しないことには、おれはこのまま家路に着くことは許されない。
それにしても、〈!〉単体は都市伝説にすぎなかったのではないか?
だったら、ことのついでだ。
おれがじかにその先を検証してやろうじゃないの……。今になって肝が据わってきた。
そうとも。今さら後戻りはできないんだ。
右側は岩壁が続き、左は相変わらず錆びたガードレールが斜めに傾いで立ち、かろうじて崖からタイヤを脱輪するのを防いでいる。あるのとないのとでは精神衛生上、大違いだ。
ハイビームにしたヘッドライトが前方の闇を割る。
崖沿いの道を進むこと10分ばかり。
なんてことだ……。
やがてヘッドライトが、終点を照らしたのだ。
眼の前に車両の路外逸脱防止のための防護柵が設置されており、そこから先へは通れないようになっていた。
行き止まりだった。
「嘘だろ。ここまで来て引き返せってか!」
おれはハンドルにもたれかかり、どこかに抜け道はないか防護柵の左右を見た。
あいにく透き間はない。柵の向こうには巨木が立ちふさがり、さらにその向こうは山の斜面になっている。車はこれ以上、前には進めそうになかった。
だったらさっきのは、〈!〉の標識ではなく、『この先行き止まり』と警告すべきではないか?
おれはバッグからペットボトルの飲料水を手にし、ドアを開け、車外に降りた。
とっさに手のひらで鼻から下半分を覆う。
顔をしかめずにはいられない。
鼻が捻じ曲がる臭いとは、こんなのをさすのではないか。牛肉のドリップが残ったトレーを放置したような腐敗臭と、たっぷりの糞尿とを捏ね合わせたような強烈な臭気があたり一帯に立ち込めているんだ。
防護柵の向こうの巨木が、やけに気になった。
ハイビームにした光に、名も知れない木が陰影濃く浮かびあがっている。幹は太く、聳えるほどの高さで、頭上はこんもりと葉が茂り、梢も複雑な紋様を描いている。
白や赤黒いゴミのようなものが、枝や葉の上に付着しているのはどういうわけか。
不法投棄された場所特有の汚らしさから察するに、強風で軽いゴミが舞いあがり、木の至るところに引っかかったのではないか?
ゴミの正体をよく見ようと、木に近づいたときだった。
おれは喉の奥で悲鳴を洩らした。
よくぞ大声をあげなかったと、自分を褒めてやりたい。大声を出せば、木の主を呼び寄せる恐れがあるかもしれないと思ったんだ。
息を飲むかわりに、無意識のうちにペッドボトルを開け、飲料水を流し込む。
大量のゴミがぶらさがっているわけじゃない。
なんと、クリスマスツリーじゃあるまいし、おびただしい数の骨が飾り付けられているんだ。
人骨にちがいない……。
子どものころ、理科室で見た頭蓋骨をはじめ、大きな大腿骨、あばら骨のそろった胸骨までが、梢のそこかしこに縫い付けられていた。どれも生々しい色をしていた。
あたかも何者かのテリトリーであることを誇示しているかのように。
なんのためにこんな酷いことを――と思い、頭上を探した。
どこからともなくバサッバサッバサッという音を耳にした。
ちょうど風の荒れる日に、シーツがはためくような物憂いそれ。
バサッバサッバサッバサッバサッバサッバサッ!
あれはシーツが風に煽られる音なんかじゃない。
あれは羽音だ。
それもそんじょそこらの猛禽類よりも、もっと大きな鳥の――。
大きなシルエットが空に浮かんでいるのを見つけたのと同時。
おれめがけ一直線に落下してきた。
猛烈な突風と異臭とともに、またたく間におれの手からペットボトルをかっ攫っていった。
雲間に隠れていた月が姿を現した。
ガードレール上でホバリングする途轍もなく大きな鳥を晒す。
それは――ハゲワシの翼をそなえた、尾を入れた身体がインド象ほどもある巨鳥だった。
驚くべきは、ただの鳥を大きくしたわけではないという点だ。
人間の女性そのものの胸のふくらみがあり、頭頂部には人のそれがついていた。ざんばら髪の若い女の顔をしていたとは誰が予想するだろうか。
悪夢じみた造形だった。
ハゲワシに人間の首をすげ替えたかのごとき怪物。ファンタジーの世界にモンスターとして出てくる怪鳥ハーピィーを思い出させた。
文字どおり悪い夢に魘されているんだと思った。
無理もない。人としての一線を越えてしまったんだ。文字どおり、道を踏みはずした者が異界へと入り込んじまったとしか――。
怪鳥は羽ばたきしながらホバリングし、おれから掠め取ったペットボトルを、左右の趾 を使ってフタを開けた。そして器用に身体を折り曲げて頭部に運び、ラッパ飲みしたのだ。
ひと息で飲み物を流し込み、ゲップを洩らした。空をあさっての方向に捨てる。
翼をバサバサさせながら、ゆっくりと下降し、ガードレールを止まり木にしてつかまった。
おれはあまりの異様な光景に眼を奪われ、逃げ出したくても身体が言うことを聞かない。どうせ車に乗り込んで逃げようにも、これほどの巨体なら、あっという間に車ごと取り押えるにちがいないのだ。
ハーピィーの頭部は美人の顔立ちだが、いかにも性悪女のような、きつい目元と口角のさがった口をしていた。
とくにその唇。まるで低体温症にかかった人のように青い。濃いチークまで塗ったかのように頬に翳りまであった。
胸の乳房は張りがなく、だらしなく垂れさがっており、乳首など干しブドウさながら。なにひとつ官能的な姿に映らなかった。
それに加え、下腹部は汚物で穢れ、猛烈な臭いの発生源のひとつでもあるようだった。汚物の中から誕生したかのような怪物だった。
ハーピィーはおれをじっとにらみ、こう言った。
「あたしゃね、ヘルキャット・アニーだよ。ここの番人さ」
「おまえ、しゃべれるのか」
おれはその場に釘付けになったまま、どうにか返事した。とんでもない異常事態に、汚らしい臭いも気にならなくなっていた。
「あたりきじゃない。だてに200年生きちゃあいない」ヘルキャット・アニーと名乗るハーピィーは言った。見た目どおり若い女の声だったが、長生きした者特有の処世術に長けた老獪な眼つきだった。「ところであんた、死の臭いがするね。あたしに負けず劣らず、香ばしい臭いがプンプンするよ。あたしにゃ、誤魔化しは利きゃしない」
「もしかして、ここは罪人が行き着く異世界ってか?」
「あんたが信じようが信じまいが、ここにゃあたしの巣があって、あたしがここで大事な卵を守っているのは疑いようのない事実だわね」
「卵だ?」
「ふだん、ここにゃ滅多に人間どもはまぎれ込んでこないんだけど。時々あんたみたいなオッチョコチョイが、死の臭いを靡かせてやってくるわけさ。あたしに供物を捧げに」アニーは斜めのアングルから見おろしながら言った。突如、醜く顔をしかめ、首を捻った。「……あいたたた、こんなときに限って、片頭痛が出るたぁ」
「なに言ってるんだ、わけがわからん」
「ね」とアニーは身を屈め、片方の趾で頭を掻いた。そのあと、ざんばら髪をふるい、腹黒そうな眼つきをおれに向けてきた。「どうだい、取引しないかえ?」
「取引?」
「あんたの車にゃ、死臭をプンプンさせるブツを積んでるんだろ。ズバリ死体さね。あたしにとっちゃ、今夜の食事にありつけるってことさ。それをくれたら、代わりにいいものをあげるよ。そしてこの巣をどけてあげる。そうすりゃ、この先に進めるさね」
やれやれ、願ってもいない申し出だった。
車に乗せている先輩の遺体を食わせろだと? 好都合じゃないか? 死体を処理してくれたら、これに勝る隠ぺい工作はなかろう。そのあと無事、ここから帰してくれるのなら文句はない。
おれはにんまり笑った。
「ならやるよ、おまえに。こっちは荷物をどう捨てようか、悩んでたところだったんだ」
「いいのかえ?」
車のところへ戻り、バックドアを開けた。
喜んで先輩の亡骸を捧げようと思った。
この異形の神への供物だ。相手は見てくれのとおり性悪女だが、利害は一致したと言えた。
◆◆◆◆◆
ハーピィーはおれに背を向け、ボサボサの頭を上下させている。まるで寝起きの人のような髪だ。
路上に転がった物体を趾で固定したうえで啄んでいた。頭をあげるたび、薄皮のようなものがひも状に引き伸ばされているのが見えた。
とても優雅な晩餐とは言えない。長らく肉にありつけていなかったらしく、いやしく、貪婪で、あくなき健啖ぶりを示した。
おれは同胞が解体される、おぞましい部分を直視せずにすんだ。
ふだんから気が合わなかったとはいえ、さすがに世話になった人間が貪り食われる姿は見るに堪えがたい。車の陰に隠れてそっぽを向くにかぎる。
アニーは、ものの10分もしないうちに鉤爪と牙で遺体を引き裂きながら食べ尽くし、きれいな残骸だけにしてしまった。
満足げにゲップを洩らし、爪で歯間に挟まった肉片を取り除き、シーシー言った。
そして人体模型然としたピンク色っぽい骨をつかんだ。
あれほど乱暴に啄んだというのに、骨は部位ごとにつながったままだった。
焼き魚の食べ方が人によってうまい下手があるように、ハーピィーなりに作法は悪くないのだろう。
ハゲワシの風切羽をダイナミックに広げ、翼をばたつかせて空中に舞いあがった。
腐敗臭と糞尿をミックスした異臭があたりに立ち込め、おれは思わず顔をしかめる。
次に眼を移したときには、アニーは巣の頂でホバリングしていた。
枝の先端に、今しがた食べた残骸を括りつけるところだった。まるで戦国武将が相手の首級を討ち取り、トロフィーを誇示するかのように。
こうして先輩はクリスマスツリーの飾りの仲間入りを果たしたのだった。
巣全体は十指で数えきれないほどの人骨が飾られていた。
ハゲワシの翼をバサバサ言わせながら降りてきた。
今度はヒラリと車のルーフにとまる。これほどの巨体なのに、思いのほか重量はないのか、鋼板製の屋根はたわむほどでもない。
「あたしゃね、ご存知のとおり、ハーピィー一族の古株さ。人間たちの持ち物を掠め取るのが専売特許さ。なのに、あんた自らが食い物をよこしてくれたんだから、たっぷりもてなさないとね」と、アニーは臭い息を吐き散らしながら言った。「さっきも言ったろ、このエレガントな巣をどけてあげる。そしたらあんたは先に進める。どこへ繋がっているのか知ったこっちゃないけどね。行ってしまうがいいさ、可愛い悪党め」
「悪党は余計だよ」
と、おれは言い、先輩が食い散らかされた路上にうずくまった。
引き裂かれたスーツから財布やらスマホを抜き取る。スマホは叩き付けて壊し、渓谷に投げ捨てた。手裏剣みたいに回転しながら落ちていった。
「ほら、今からお別れの餞別をあげよう。ちょっと待ってな」
アニーは言い、いきなり顔を緊張させた。
頬をふくらませ、眼を閉じると、歯を食いしばって唸り声をあげる。
ハゲワシの太い腿を開き、
「ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ――ッ!」
と、いきみ出したから、困惑せずにはいられない。
まさかハーピィーがラマーズ法を実践するとは思いもよらなかった。
「なにしてるのか知らないけど、ひとつ質問があるんだ。答えてくれないか?」
「ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ!……見りゃわかるだろ。産気づいてるのさ。ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ!……質問だって? そりゃあんた、内容によりけりだわね」
「この行き止まりへ来る前に、標識があったろ。ビックリマークと、その下には『ハルパゼイン注意』とまであった。ありゃ、どういう意味だ。行政がこの場所を知ってるとは思えないんだが」
アニーはラマーズ法の呼吸をしつつも、苛立った顔つきでおれを見おろしてきた。
「どうしょうもない世間知らずの坊やだね。ギリシア語で『harpazein』は、『ひったくる』って意味さ。つまり、ここに来た人間は掠め取られるのさ。なにもかもね。あんたとさっき食べた人間とは、どんな関わりがあったかまでは知ったこっちゃないけど。あんたは素直に肉を差し出した。けど、人としての良心まで差し出したも同然さ。あたしはそいつまでいただいたってわけ」
「人としての良心」おれはおうむ返しに呟いた。「だから悪党と呼んだのか」
「そんなことより、あんたにお土産を持たせてやらないとね。待ってな、じきに産まれる。……ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ―ッ! ヒッ、ヒッ、フ――ッ!」
やがてアニーのいきみは最高潮に達した。
くるりとおれに背を向けると、尾羽をあげて、こちらに尻を向けた。
汚物で穢れた尻の穴から、なにやら半円状のものがヌルッと突出した。
アニーは踏ん張り、イクーッ!と鼻息を荒くしてわめいた。
しぶきとともに、スポン!とビヤ樽のような大きさの卵が飛び出た。
車のルーフでバウンドし、回転しながらおれの方に落ちてきたので、あわてて後ろに飛び退いた。
アスファルトの上で跳ね、おれの足元でとまった。割れもしない。
「こんなものいらないって!」
「そう言わず、取っておき」アニーはくるりと振り向き、息も絶え絶えの様子で言った。「これはね、あたしが産みたくて産んだ卵じゃないんだよ。人間どもからいろんなものを掠め取った。あたしはこの地に縛り付けられた、罰を受けた身さ。罪滅ぼしってわけじゃないけれど、この卵をお土産に持たせてあげるよ」
「こんなもん、もらったって邪魔になるだけだろ!」
「失礼な男ね、せっかく善意で言ってるってのに!……あいたたた。また片頭痛だよ。頭がお尻みたいに割れそう!」アニーはベソをかきながら言った。「あんたはカルマを背負っちまったんだ。アンビシャスな業ってやつをね。逃げ得は許さない。たっぷり苦しむがいいさ!」
ハーピィーはそう言うと、ふたたび羽ばたいた。
「あたしゃね、あんたまで取って食っちまおうかと考えてたんだ。せっかく紳士的な対応をしたってのに。ほら、あたしの気が変わらないうちに、さっさとお行き。しっかり卵を積んでいくんだよ。置いていったりしたら、容赦しないから!」
こう言って、アニーは頭上で脱糞した。
恐るべき下痢便の滝だった。おれの周囲に夕立のように降り注ぐ。
逆らえそうもなかった。
ビヤ樽そのものの卵を抱えると、車の後部座席に放り込んだ。
どうせ厄介な荷物は、こいつが食べ尽くして証拠を消してくれたんだ。
だったら長居は無用。とっととこの薄気味悪い場所から離れるべきだ。
運転席に着いた。
その間にも上空から、ご機嫌斜めのハーピィーが大量の下痢便をまき散らしてくる。
フロントガラス一面に落とされた。
何度もウォッシャー液をプッシュし、ハイモードでワイパーを動かした。
黄色い粘液が引き伸ばされる。鼻が曲がるほどの臭気が車内にまであふれた。
ライトをハイビームにしての巣を照らす。
すでにガラスの向こうには骨を飾り付けた大木は忽然と姿を消していた。
それだけではない。
防護柵に遮られ、行き止まりだったはずの道路の端さえ解放されて、真っすぐ続く道幅の広い国道がずっと先まで延びていた。
ナビも正常に機能しているようだ。
どんな原理で異界に足を踏み入れていたのか定かではないが、うまくこちら側に戻ってこられたようだ。
無事帰還できれば、悩む心配はない。
道があるのなら、前に進むだけだ。
上を見た。さっきまで奇声を発しながら飛びまわっていたアニーの姿もかき消されていた。
おれはアクセルを踏んだ。
無我夢中で車を走らせる。
異界へ行っていたのは事実だろう。ここまで来る途中、後ろのトランクルームに重量感があったのに、今は軽い。加速具合で手に取るようにわかるのだ。
不意に後部座席で、異音がした。
ガシガシガシッ、ガシガシガシッ!
あわてて車を停めた。
ふり返り、卵を見た。ビヤ樽なみの大きさで、毒々しいまだら模様があった。
表面にいくつもの亀裂が生じているじゃないか。
亀裂どころか、ところどころ小さな穴まで開いている。
しきりにガシガシとくり返される。
そのうち卵が大きく割れ、空洞が開いた。
ヒナの顔が露出した。こいつは頭突きで殻を割ったにちがいない。
我が眼を疑った。
おれは高い所から落ちる人のような悲鳴をほとばしり出した。
未熟な翼を持った先輩だとは誰が予想しよう。
殺したはずの、あの厭味ったらしい30半ばの顔のままベソをかき、小さな鳥の姿で身をよじっていた。
おれは目眩を憶える。せっかく遺体を処理できたと思ったのに、アニーめ、もっともとんでもないものをよこしやがって……。
こんな化け物を、持ち込むわけにはいかない。
とくに、こいつだけは――。
またどこか、人気のない場所で殺すか?
そう思い、暗い前方を見据えたときだった。
左に標識が見えた。
もしかして、また〈!〉じゃあるまいな?
おれは速度を落とし、その標識のそばに横付けした。
〈?〉だった。
了