死なば何処へ
ある朝ベッドから身体を起こすと、目の前を死んだはずの祖父が歩いていた。
呆然と、視界の右から左へのろのろ移動する祖父を眺めていた。
そのうち祖父の目の前に寝室と廊下を隔てるドアが立ち塞がったが、何もないかのように祖父はそのまま歩みを進め、ドアをすり抜け、姿を消した。
祖父が消えたドアを数秒見つめた後、漸くあれが世に言う”幽霊”というやつか、と思い至った。
祖父が亡くなったのは、5年前。大学卒業を控え、暇を持て余していた私はある日の朝、母から電話で「祖父が”起きなくなった”」と言われた。電話口から聞こえる声からはありありと焦りが感じられ、母の声の後ろから、知らぬ数人の男性が何やら大声を出していたり、がちゃがちゃ大きなモノが動く音が聞こえていた。おそらく救急隊員が母の後ろに居たのだろう。
それくらい祖父の死は突然であり、かつ、あっさりとしたものだった。
前日まで自分と同じくらい歳をとった老犬を引っ張って近所を散歩をし、飯も3食しっかり平げて、趣味の盆栽いじりもこなした。
明日死ぬとは思えぬ元気と日常に満ちて布団に入り、そして、正しくポックリ逝ってしまった。
葬式で悲しむ親族を尻目に、棺に横たわる祖父の顔は、随分満足げであった。
「じいちゃんは未練なく、あの世へ行けたんだな」と父は沈痛な面持ちで、祖父を見下ろす私の横に立っていた。
祖父の死にあまり実感を持てていなかった私は、あまり悲しみすぎるのも良くないのかもなぁ等と呑気に考えていた。本人に未練が全くないのに、残す親族が未練たらしく泣き悲しみ棺に縋るのも変な話だ。
いっそ笑顔で楽しく送ってやれば良いのではないかとまで考えはしたが、流石にそんな事を思いついたその場で言うほど、私も未熟な年齢ではなくなっていた。
祖父に親しい人たちが皆悲しみで背を丸めて斎場を静々と去ってゆく様を、私はただぼんやりと眺めていた。
今やその当時の悲しみどころか、そもそもの祖父の存在さえ実家の仏壇を拝まない限り忘れ去っている私の処へ、一体なぜ出てきたのか。そもそもあれは本当に”幽霊”なのか?寝ぼけた頭が夢か抜け出しきれずに角膜に映し出した幻ではないのか?
可笑しな話だが、一応”幽霊”の存在を確認しようと、のっそりベッドから這い出て私は躊躇いなくドアを開けた。相手は祖父だ。しかも死ぬ間際の所謂”おじいさん”と言われる姿の。怖がるも何もない。
ドアを開けて廊下に出る。玄関方向に顔を向けると、そこにいた。
のんびりとした、老人特有のあの歩速だ。成人男性なら数秒で済む距離も、老人にとっては難儀な道のりだろう。
というか、歩くのか。世間で言う”幽霊”ってやつは、足が透けてたりして浮いてるものじゃないのか。それに、結構はっきり見える。少なくとも透けてはいない。何というか、解像度が低い、といった感じだ。
一般的が”幽霊”に対して抱く、居るか居ないのか判然としないような希薄な印象は無く、ただ何となく見づらいけど、人間としての存在感はしっかりある。そんな感じだ。
祖父は変わらず私への関心はまるで無いようで、玄関へと真っ直ぐ向かっている。
どうやら、外に出たいらしい。
私はどうにも気になってしまい、急いで身支度を済ませ、祖父を追いかけることにした。
”急ぐ”といっても、顔を洗い、髪を整え、着替えて財布やスマホなんかの最低限の荷物を纏めるなんかしていれば、どう頑張っても10分か15分はかかってしまう。
祖父が玄関をすり抜けてずいぶん経ってしまったように感じ慌てて外に飛び出してみたが、なんてことはない。祖父はマンションの階段を、この5階からのんびり降り終えたばかりのようだ。
そういえば生前も足腰は丈夫で、階段を使いたがっていたなぁ。
その辺の好みというか、意地というか。そういうものは、死んでも変わらないらしい。
今、この日が休みで心底よかったと、私は思っている。
なんせ、私にしか見えない老人の散歩に付き合わされているのだから。
平日の仕事に悩殺されている時に祖父の”幽霊”を見かけたとしても、多分疲れのせいにして無視するに決まっている。
しかし、この祖父のお陰で、ある種贅沢な時間の使い方を今していることになる。
平素の休みであれば、朝早くから家を出て周囲を散策しようなどとは思いもしないだろう。
今のマンションに住み始めて3年になるが、祖父の後について歩く道や、その道の脇に並ぶ店を私は碌に知らなかった。
通勤や生活で通る道は限られてる。できるだけ無駄なく、労少なくミッションをこなせるルートしか私は覚えていなかったし、他のルートの開拓などする気もなかった。
お陰で、私が毎朝夕横切る駅前の公園のベンチに祖父が落ち着くまでの間、驚きと発見の連続だった。
こんなふうに散歩をしたのは、いったい何時ぶりだろうか。
何も考えず、ぶらぶらと目的もなく歩き回る。唯一気を配ることはといえば、祖父を見失わないようにするだけだが、祖父はドアはすり抜けるが壁はすり抜けないらしい。ちゃんと道が通っている所しか歩かない。
つまりは、老人の散歩の付き添いである。ただ、相手はとっくの前に死んでいるけれど。
公園での滞在時間は結構長く、30分ほど経った今でもベンチから立ち上がる気配を見せない。
朝食を食べずに家を出た私は、公園の真横にあるコンビニでパンとジュースを買ってベンチに戻った。
相変わらずベンチに祖父は居た。だが、変化もあった。
新聞を読んでいるのだ。
一体どこから仕入れたのか。祖父と同じく解像度の低い新聞を頑張って読み取ろうと顔を寄せ目を凝らしてみると、私が契約してる新聞の朝刊だった。
どうやら祖父は、私の家のポストから目敏く朝刊を発見し、持ってきていたらしい。まぁ厳密には”祖父の幽霊”が持っているモノなので、新聞も当然”新聞の幽霊”ということになるのだろうか。
そもそも、モノの”幽霊”ってあるのか。”付喪神”とかは、確か長く使い続けたものに命だか何だかが宿る、というものではなかっただろうか。
この新聞は多分昨日刷られたてのものだろうから、”付喪神”やら何やらが宿るにはあまりにも早すぎる気がする。
結局、他になんといえば良いか分からないのでこの新聞も一応”幽霊”ということで良いだろう。
そんな訳の分からないことをうんうん考えながら、パンを齧る。そして、新聞を読む祖父の姿を眺めながら、ふと思う。
これ、読むのに結構時間かかるんだろうなぁ。
私は再びコンビニに行き、漫画雑誌を数冊抱えて祖父の横に座った。
いつの間にか昼を過ぎてしまってたらしい。
祖父も私も、手元の読み物に夢中になっており、時間をまるで忘れてしまっていた。
そのことを思い出したのは、私ではなく祖父の方だった。突然、はっと公園の柱時計の方に顔を上げ、しまったと言わんばかりに顔を顰めると、新聞を丸めて小脇に抱えどっこいしょとベンチから立ち上がった。
それに釣られて、私も漫画雑誌をビニール袋に放り込み、祖父について行く。時間を気にしているあたり、どうやら目的は定まっているらしい。果たして、次はどこへ行くのやら。
と思っていると、先ほどから私が世話になっているコンビニへ入ってしまった。
流石にもう買いたいものもないし、そもそも日に3度同じ人間が同じ店に出入りするというのは、店員は気にしないだろうが、私としてはどうにも気恥ずかしい。
幸い祖父は壁抜けはしないし、店内の様子は外から見ることができる。私は少し離れたところから店内をガラス越しに眺めた。ガラスを通して見る祖父は益々解像度が荒く、何か物体が動いていることは分かるが「あそこで人間が動いているか」と今訊かれると正直自信が持てないと、言った印象だ。
細かな活動内容を観察するのは諦め、祖父が出てくるのを待つことにした。
こんな風に待つことになるなら、いっそ昼食も買ってしまえば良かったかと後悔し始めた頃に、祖父は出てきた。右手におにぎりを2個持って。
先程の”新聞の幽霊”を見てしまったせいで、あまり驚きはなかった。ただ、幽霊でも腹は減るのか、とは思った。よくよく見ると、左手にはペットボトルのお茶もある。
幽霊の無銭飲食は果たして法に抵触するのだろうか、等とくだらないことを考え、恐らく昼食を持っている祖父を追いかける。幽霊はちゃっかり飯を手に入れているのに、生きている私は漫画雑誌以外何も持っていない。
いよいよ、コンビニに入り損ねたことを後悔した。
昼飯を持った祖父の行き先は、なんて事はない。私の家だった。
どうせ私の部屋に戻るのだろうと思ってエレベーターに乗り、自室がある5階まで先回りをした。上から階段を見下ろすと、案の定、祖父は行きと同じくえっちらおっちらと階段を登っており、5階にたどり着くと私の部屋の玄関ドアを通り抜けた。間近で見ると、ちょっと息が切れ、顔が疲れていた。
祖父と一緒に中に入る、私が靴を脱ぐ間に、祖父はそのままリビングの方へのそのそ進んでいく。
乱雑に脱ぎ終えついて行くと、祖父は食卓用のテーブルに着いて、解像度の低いおにぎりをもそもそ食べていた。お茶ももちろん、解像度が低い。
あまりにも慣れた様子で食卓で飯を食っているものだから、私は起きた時同様呆気に取られていた。
さっさとおにぎりを平らげると、祖父は立ち上がり、横のリビングにあるソファーに寝転がった。時間は15時。お昼寝の時間か。
これはもしかして、死後の祖父のルーティンを見せられているのか?
聞こえはしないが、いびきをかいていると言わんばかりの寝相を眺めながら、そう思った。
天国か地獄か、はたまた極楽浄土かは知らないが。とにかく、死ねば魂は”あの世”とやらに行くのではなかったのか。この世に現れれる”幽霊”なんかは、未練だとか恨みだとかがあるから留まっているじゃないのか。
しかしよく考えれば、それもこれも全部生きた人間による妄想でしかなく、実際、死んだらどうなるかなど誰も知り得ない。本当は”あの世”なんて所もなければ、輪廻転生なんてものもないのか、もしくはそれら全部あるけれど、どこに行って何をするかを死んだ人間は自由に選べるのかもしれない。
そして、私はぴん、と閃いた。
私たちは今”生者”だけが住む層で生活していて、そこで死ぬと、私たちが呼ぶところの”死者”が住む層に生活圏が移動する。そして、その”生者”と”死者”の層は限りなく近くで重なっていて、どちらか片方が透けて見えることも偶にある。この、祖父のように。
何とも馬鹿馬鹿しいような、それでいて親近感の沸くような思いつきである。
重なってはいるが、干渉することがない世界。
ちょっとSFっぽい、ワクワクする響きがある。
昼寝する祖父を見下ろしながら、そんなことをつらつら考えていた。
寝ている祖父の寝顔は、葬式の時に見た顔と何ら変わりなく、満足気である。
昨日までは見えなかった、死んだはずの祖父。
今朝、たまたま私だけが見えるようになった祖父は、今瞬きした瞬間に姿を消すかもしれない。
本当に”死者の層”に住む祖父が見えているのか、はたまた私の妄想か。どちらにせよ、私は祖父が元気そうで何よりだ。
しかし、1つだけ疑問がある。
何故実家じゃなくて、私の家に居るんだ?
訊くに訊けない。
何せ、祖父は死んでいるのだから。