誰がために生きる
有加さんからの離婚の申し出を、断れないことは分かっていた。
修也が生まれてきた時、この結果が回避できない事も分かっていたと思う。
有加さんは、僕達に子供ができない原因をずっと自分のせいだと感じていたと思う。
医者が原因が有加さんにある可能性が高いとに言った、あの日から。
でも僕は彼女との間に子供ができないことに不満を感じたことは一度もなかった。
僕は二人でいることで満ち足りていたから。
ただ、僕が心の何処かで子供を欲していたことも、見透かされていたのかもしれない。
そんな有加さんに僕がどんなに酷いことをしたのか。
それでも、有加さんが離婚を申し出ないことを心の何処かで願っていた。
泣いて引き止めくれることを僅かでも期待していた、自分勝手だと思いながら。
僕が有加さんとの離婚を望むことはあり得ないから、僕から離婚を切り出すことは無かった。
きっとそれに気付いて、彼女は離婚を切り出してくれたのだ。
僕は彼女の思いを無にしてはいけない。
修也と紗綾さんを幸せにすることを最優先しよう。
そう固く決心し、あの日 有加さんに「行ってきます。」と言って我が家を出た。
あれから幾日、何ヶ月たっただろうか。寒さが緩んで、『樹雨』の桃の花が良い香りで鼻をくすぐるようになった。
僕は紗綾さんと修也と、樹雨の近くに一軒家を買って住んでいる。
新築ではないが、子供が楽しめるような仕掛けが施してある家だった。
以前の持ち主は子供の成長とともに住み替えの為、売りに出していた掘り出し物件だった。
娘親子が家を出て後、店の二階にはお義母さんが一人で住んでいる。
寂しいのでは?と同居を提案してみたが、まだ義父と暮らした思い出の家に居たいからと断られた。
『私の帰る場所は、お義父さんの居る場所よ』と言われた気がした。
修也は可愛くて、紗綾さんは僕の愛しい人だ。
だから僕はこの家が僕の帰る場所になることを切に願いながら、「ただいま」の意味を持たない「ただいま」を重ねていった。
しかし、いつまで経っても僕の居場所にはならなかった。
意味を成さない言葉を口にすることは、思った以上に負担となった。
僕は、ただただ何かに蝕ばまれていった。
笑顔は日増しに歪になっていった。
この前、気が付くと有加さんマンションの前に立っていた。
帰りたいと願いながら、マンション前の公園で日が暮れてゆくのを眺めた。
そしてそっと目を閉じ、有加さんの待つ我が家を思い出した。
手を伸ばせば有加さんが居る我が家がある。
でも、修也と紗綾さんの顔を思い出した。そして、有加さんの別れ際の笑顔を思い浮かべ、耐えた。彼女が修也の為にくれた精いっぱいの笑顔を。
僕の我儘で彼女の想いを台無しにしてはいけないと。
修也の未来を大切にしないといけないと自分に言い聞かせた。
そして、今日も修也と紗綾さんの待つ家に戻った。