お願いさん
十数年前の話だ。僕の通う小学校では『お願いさん』なる怪談が流行っていた。
夜の学校に忍び込んで四階の男子トイレの一番の個室に入り、願い事を四回言うとお願いさんが現れて叶えてくれるというものだ。その代わり、寿命を半分奪われるらしい。
まだ中学年の僕たちは死の概念がまだピンと来なかったが、六年生の間では大分広まっていた。実際試した生徒もいるみたいで、居残りで巡回していた教師に見付かって大事になったらしい。そのせいで保護者に「子供を夜に外出させないように」と注意喚起のプリントまで配られる事態となった。
僕はそう言った類いの怖い話に興味がなかったので母は安堵していた。
ただ高校生になったばかりの兄はそうもいかない。ある日、うちに友人を数人連れ込んで、何やら作戦会議していた。
「お前んちの飴うめーな」
「そうかぁ? 俺もう飽きちまったわ。ポテチ屋だったらよかったによ~」
兄の部屋を通り掛かると、そんな話し声が聞こえてきた。
僕たちの家は江戸時代から続く飴屋だ。
『天気飴』という店名は、この辺りではそれなりに有名だ。鼈甲飴、黒飴、抹茶飴など昔ながらの飴だけでなく、果汁を使った飴や酒入りの飴も販売している。
兄の友人たちは酒の飴を狙っていたようだが、笑顔の母から渡されたのはサイダー飴だ。それでも十分喜んでいたが。
僕も母から飴を貰ったので部屋に戻ると、歳上の友人が膝を抱えて窓の外を眺めていた。
「イトくん、お母さんがこれあげるって」
「えっ、あ、いいの?」
「うん」
母がくれたのは桃の飴だった。桃のピューレをたっぷり使っているだけあって、酒飴を除以外ではこの時季で一番値の張る品だ。ちなみに兄の友人が舐めているサイダー飴は安い部類に入る。
「いただきます」
イトくんはそう言ってから、飴を口の中に転がした。嬉しそうだ。僕も飴を舐めてみると、桃の香りが口いっぱいに広まった。月並みな感想になるが、生の桃にそのままかぶり付いた時のような感動がある。
途中で舐めるのに飽きて噛み砕いてしまった僕と違い、イトくんは完全に溶けるまで舐め続けていた。
イトくん。中学二年生で名字が以東なのだが、糸のようにひょろひょろしているという理由からイトというあだ名がついたらしい。僕は悪いと思って本名で呼んでいたけれど、「イトでいいよ」と言われたので呼び方を改めた。
服装に無頓着な人で、いつも黒い学ランか無地のシャツばかり着ている。ぼーっとしていることが多くて、時々頼りなく見える。
だけどとても頭がよくて、帰宅部だから僕の家庭教師にもなってくれていた。報酬として彼が求めたのは飴だけだった。そんなイトくんは母の大のお気に入りだ。
「イトくんはお願いさんに会いたい?」
「?」
勉強を始める前に聞いてみる。
「うちの学校で流行ってる怪談だよ。中学校じゃそういう話ない?」
「あるかもしれないけど……僕、友達いないから分からない」
悲しいことを言われてしまった。
僕がお願いさんの話を詳しく聞かせると、イトくんは興味があるのかないのかよく分からない顔で頷いた。
「イトくんはお願い事ある?」
「く……」
「く?」
「倉木悟になりたい」
大人気俳優の名前を口にして、イトくんは薄笑いを浮かべた。だから友達が出来ないんだと、この時僕は思った。
その夜、物音がして僕は目を覚ました。兄の部屋からだった。
廊下に出てみると、ちょうど兄が家から抜け出そうとしている最中だった。
「絶対にこのこと、父さんと母さんに言うなよ」
鬼のような形相で言われて僕は無言で頷いた。それを見て気をよくしたのか、兄は「コンビニでお土産買ってきてやる」と言って玄関から出て行った。
僕は素早く部屋に戻って布団に潜り込んだ。兄はお願いさんに会いに小学校に行ったのだとすぐに分かった。
どんなお願いをするのだろう。そんなことを考えているうちに僕は再び眠りに就き、次に目覚めると朝になっていた。僕の枕元にはチョコレート菓子が置かれている。兄がいつ部屋に入ってきたのか、全然気付かなかった。
朝食の時間、兄は眠そうな顔で居間に姿を見せた。あのあと、何時くらいに帰ってきたのだろう。ゆったりとした動きで納豆を掻き回している。
食事後に昨日のことについて聞いてみると、兄は自慢げに話し始めた。
昨夜、裏門から小学校に難なく侵入した兄たちは、まっすぐ四階の男子トイレに向かった。
しかしここで問題が浮上する。誰が個室に入って願い事を言うか決めていなかったのだ。
皆、誰かにやらせるつもりだったようで、「お前がやれ」とか「俺は叶えたいことなんてない」と言い合いが始まった。と、目立ちたがり、格好つけたがりの兄が立候補した。
兄は勇み足で個室に入ると、「お願いさんに会いたい」と四回叫んだ。
「それでどうなったの?」
「それだけだわ。なんも起こらなかった」
個室に五分籠ってみたが、お願いさんが出るどころか奇妙が現象が起こるわけでももなく、その後はコンビニをに寄って解散。
なのに兄が達成感に浸っているのは、根性のある男だと友人から評価を得たからだろう。
学校に行く準備をしていると、天井からカタ、ゴトンと何かを叩く音がした。
僕の家は古く、昔はネズミも出たのだと昔祖母が言っていたことを思い出した。また天井裏に棲み付いてしまったのかもしれない。
帰ったら両親に言おう。そう思いながら僕は家を出た。
学校が終わり、僕は急いで帰って来た。放課後のホームルームが終わったと同時に雨が降り出したのだ。
両親は作業場で飴を炊いているので、この時間帯家には誰もいない。濡れた服を着替えて部屋でのんびりしていると、カタ、カタと天井から音がした。やっぱりネズミでもいるのだろうか。そう思いながら天井を見上げていたが、少し経つと音の質が変わり始める。
ミシ……ミシ……と軋むような嫌な音だ。地震が起きているわけでもないのに、天井の埃が降って来た。
ネズミよりも大きなものがいる。そう考えた瞬間、ぞわっと恐怖が沸き上がった。
ミシ、バキ、バキンッと音はどんどん大きくなっていく。それと共に、天井の板と板の間にうっすらと隙間が空いた。
ミシ……バリバリ……。強引に引き剥がすような音を立てながら、隙間はどんどん広がっていった。
何かが天井から出ようとしているのだ。早く逃げ出さなければいけないのに、僕の体は恐怖で指一本動かせなくなっていた。
バリバリッ、ベリッ。あ、板が抜ける。他人事のようにそう思った直後だった。
チョキン。
はさみで何かを切る音がして、代わりに天井からの音が消えた。
その時、誰かの気配を感じて背後を振り返ると、イトくんが立っていた。
左手には糸切りはさみが握られていて、何もない場所でチョキチョキと切る動作をしている。
そしてそれをやめると、僕にシャープペンシルを差し出した。僕のものだ。
「昨日、間違って持ち帰っちゃったから届けに来たんだ。ごめんね、探したでしょ」
「ううん……自分で失くしたと思ってたから、他の使ってた」
シャープペンシルを受け取りながら天井を見上げる。
隙間はいつの間にか消えていた。ただ、床の上に散らばる埃が先程の出来事は幻や夢ではないと教えてくれた。
「昨日はあんなのいなかったのに。どこから来たんだろう……」
イトくんは天井をじっと見ながらぼそぼそ呟いて、帰って行った。お土産に形が悪くて売り物にならない飴をお土産に渡すと嬉しそうにしていた。
イトくんを玄関まで見送りに行った時、雨はぴたりと止んでいた。