腐ったおにぎり
初めての投稿です。拙作ですが、ご感想など頂けるととても嬉しいです。
※胸糞注意 グロ表現はおそらくありません。 あと怪異等は起こりませんので悪しからず。
世界が、もはやこの空間しかないのではないかという錯覚を覚える程少年の心は狼狽していた。外界の音は遮断され、自身の動悸だけが鼓膜を揺らす。そんな事実は認めたくないと、あらんかぎりの声を振り絞って叫んでみたが、それは穴だらけの壁に吸い込まれていき、外に漏れることはなかった。それでもなお、生命を勝ち取る手段はそれしかないと、もはや人間であることを忘れたような獣の絶叫を続ける。しかし、ついぞ望みがかないことはなかった。少年はもはや今日何度試行したかわからない自問自答をまたもや繰り返した。
(なんで?なんで?なんで?誰か助けてよ?僕何か悪いことした?今日までいっぱい我慢したじゃないか!校則を破ったせい?たったそれだけのことで?……誰か助けてよ、お母さん、なんで来てくれないの?この際先生でもいいから、戻ってきてよ!なんでこんなことになっちゃったんだろう)
少年の脳は、自身の助かる道はなかったのかと、この2日間の記憶を思い出していた。
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「ばあちゃん、このおにぎり腐っているよ」
優は眉をひそませつつ、戸棚の奥の方にあったソレをなるべく視界に入れないように祖母にそう言った。
「ああ、そういばいつかこしらえとったねえ。悪いけど畑の肥溜にでも放り込んでおいてくれんかね」
なんで僕が、そんな言葉を飲み込みながら優は無言でちりとりでその腐ったおにぎりを取り出し、外の肥溜に向かった。
(ばあちゃん、最近またもの忘れがはげしくなっているなあ。この前も僕のこと「幸子」って、母さんの名前で呼んでたし)
優がこの家に来た当時はそんなことなかった。いつも朝から晩まで畑仕事や家事をして近所の人と楽しそうに昨日見たドラマの話なんかしていて。時どき厳しく叱られてしまうけどそんな時は決まってソーダ味のアイスを買ってくれる優しいおばあちゃん。優はそんな祖母が大好きだったし祖母からの愛も同時に感じていた。
しかしそんな祖母が最近、物忘れが激しくなり日課だったはずのドラマもめっきり見なくなってしまった。あんまり口には出さないけど、夕ご飯の味付けもどこかおかしい。
(それにしてもこのおにぎり、いつ作ったんだろう。こんなに真っ黒になるまで放っておくなんて。しかも臭いし。うげっ、今なんか動いた。……今日はご飯食べられそうにないな)
優はなるべるソレを直視しないように、息を止めながら畑の横にある肥溜に放り込んだ。
朝から嫌な思いをしてしまったが、今日は1学期の終業式。明日から夏休みということを思い出した優は、すぐに機嫌をなおして学校に行く準備を始めた。
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終業式の後、優の担任である斉藤がぱちんっ、と両手を叩いて生徒の注目を集める。
優は教室教室後方の、廊下側の席から斉藤に目をやった。
「今日は4年1組の皆さんに大切なお話があります」
明日から夏休みということもあり、騒がしかった教室は担任の一言でシンっとなる。斉藤の表情は真剣味を帯びていて、子供ながらにもただならなぬ気配を感じ取ったのである。
「実はこの度……先生は結婚することになりましたーー!!!」
一瞬、ぽかんと間の抜けた雰囲気なった教室が一斉に沸いた。
「うわーー!!!すげーーー!!!」「おめでとー!!」「誰とー!!」
「先生彼氏いたんだー!!」
斉藤は坂山第三小学校に2年前から赴任しているまだ若い音楽教師である。小学生である優の目線からであってもまだまだ不慣れな部分が目立っていたが遅れをどうにか取り戻そうとする姿勢が好ましく映っていた。それは優だけではなく、2年前に都会の大学を出たばかりの斉藤はこの山間の集落には似つかわしくない垢抜けた雰囲気を纏っており、男子はもちろん女子からの人気も高い先生だった。女子はともかく、結婚の報告には何人かの男子は淡い失恋の味を噛み締めたことだろう。
「そこで……なんですけど。高橋さん……先生の旦那さんになる人なんですが大阪の会社に勤めていまして。先生もそこに引っ越すことになりました。なので、今日で皆さんとはお別れとなってしまいます。」
一転、教室の空気が変わった。さっきまでの浮ついた雰囲気が途端にひどく重いものになる。
「えと……ですから、皆さん……と過ごした日々は大変楽しくてーーー」
「やめちゃやだー!!」
1人の女生徒の声が教室に響いたとき、堪えきれなくなった幾人かの生徒が涙声で騒ぎはじめる。
「先生やめちゃやだあ……」「結婚しても残ってたらいいじゃん!」「そうだよ!別に先生までいく必要ないじゃん!」
斉藤は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「いえ、そういう訳にはいきません。実は先生のお腹の中には新しい命が宿っています。赤ちゃんを産むと言うことはとても大変で、危険なことなのです。生まれる前の命というものはとても弱いものですから。先生は新しい環境でたくさんたくさん準備をしなければなりません。皆さんのお母さんもきっとそういうふうに皆さんを産んだんですよ。」
斉藤の真面目な口調に、またもや教室は静寂に包まれる。
「私が居なくても、4年1組の皆さんならきっと立派にやっていけると信じています。だって皆さんは……うっ……先生の……大切な、うぅ……」
最後の方は言葉になっていなかった。誰1人身動きもしない教室に、斉藤と、数人の生徒の嗚咽だけが散らばった。
そんな教室の雰囲気を打ち破られたのは教室前方の扉からだった。
「斉藤せんせーい!!!ご結婚おめでとうございまーーす!」
ガラリと扉が開かれ、この場にそぐわない潑剌とした野太い声が響く。扉を開いた人間は満面の笑みで日に焼けた顔を晒した。教室にいる人間は一斉のその方向に何事かと目を向ける。先程とはまた違った沈黙が教室に居座った。
「え、あ……鈴木先生?ありがとうございます……?」
突如教室に乱入してきたの人間の正体は両手に花束を持った学年主任の鈴木だった。
「アレェ……もしかしてテンション間違っちゃった?」
鈴木のおどけた声に教室の雰囲気は一気に弛緩した。
「あー、もう鈴木せんせーい。空気読んでよー!」「だから彼女もできないんじゃなーい」「て言うか先生だけなの?」
鈴木に対する不満を口々に言う生徒たち。しかしその非難の言葉とは裏腹に、その口元には先程の重苦しい雰囲気が嘘のように笑みが浮かんであった。
「なんだよその口の聞き方はー。俺だけじゃ不満か?夏休み前は他の先生方も忙しいんだよ。全く。そんなんだったら。斉藤先生も安心して離任できないじゃないか。」
鈴木の言葉に、思わず気まずそうに口をつぐんでしまう。
「でもまあ、なんだ。結婚てのはめでたいものなんだ。最後ぐらいパーッと祝ってやろうじゃないか。斉藤先生に最後に見せる顔が泣き顔ってのも嫌だろ?ほら、学級長、花束。」
そういって鈴木は優の方を見ながら手に抱えていた花束を差し出した。
急に指名された優は狼狽えながらもその意味を汲み取り、鈴木の前へ歩いて花束を受け取り、斉藤と向かい合う。
「あの、斉藤先生。ご結婚おめでとうございます。今までありがとうございました」
優は頭を下げながら花束を差し出した。緊張で少し指が震えている。そんな優の指を見て斉藤は思わず微笑んでしまう。
「ありがとう。優くん。みんなも祝福してくれる?」
斉藤はそう言うと教室を見渡しながら目を細めた。すると、教室の一角からぱちんぱちんと手を叩く音がなった。その一つを皮切りに、ゆっくりと教室中に拍手が鳴り響いた。
坂山第三小学校、真夏の昼下がりのことであった。
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【職員室】
「こんな忙しい時期に結婚?なんの断りもなく。何を考えているのかしら」
「ちょっとありえないですねー」
「しかもまだ2年目でしょ。あの子。ろくに仕事もできない癖に退職ですって。今まで仕事を教えてやった時間を返してほしいわ」
「本当ですよね。馬鹿みたいに遅くまで残って。私帰り辛くて仕方なかったですもん」
「しかもできちゃった結婚ですって。いつの間に仕込んだのかしら。そんな暇あったら仕事の1つでも覚えればいいのよ」
「案外仕事が嫌になっちゃって逃げるために無理やり迫ったんじゃないですか」
「ははは。あり得るわね。若いだけの体目当ての馬鹿な男でも捕まえたに違いないわ」
「それにしても教頭も大変ですよね。いきなりやめるだなんて言い出すものだから代わりの講師探すのにそこら中に電話してますよ」
「他人事みたいに言わないでよ。代わりが見つからなければあんたが代わりに音楽を担当しないといけないのよ」
「ええ!いやですよそんなの!今だっていっぱいいっぱいなんですよ!清掃担当区だってこれ以上増やせません!」
「私だってそうよ。わかったらあんたも心あたり探しなさい」
「あー。もう!本当にはらたつ!今度会ったら嫌味の一つでも言っておかないと」
「知ってる?加藤先生なんてわざと今日の集合時間違うの教えてらしいわよ」
「あーだから4年1組遅れて来たんですね」
「ね。焦っちゃって。馬鹿みたい」
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「まさるー!こっちだよーい!」
「あはは、まてよーー!」
お調子者の健太が気色満面といった風に優を囃し立て、優も嬉しそうな声をあげる。
「こっちも忘れるなって!」
「あ、ばれちゃうよ!」
気の強い浩平が声を張り上げれば、普段は呑気な拓郎が動き回るのを嫌ってそれをとがめる。2人ともどこかやはり嬉しそうだ。
ぱしゃぱしゃと水をかき分けながら優は級友を追いかける。終業式の翌日、優は解放された学校のプールで友達と遊んでいた。坂山第三小学校は夏休みになると午前中だけ校内のプールを解放されることになっており、娯楽の少ない田舎の集落の、数少ない楽しみがこれだった。
「そろそろあがるー?」
「えーまだ時間あるじゃん!」
「もう10分前だよ。遅れるとまた鈴木先生に怒られちゃうよ」
「えー、まあいいか。でもまだ遊べるよね!」
「別にいいけどさ…」
太陽が中天へ差し掛かり、冷たかった水温に温みを覚えるようになった頃。そんなことを言いながら優たちはプールサイドにあがる。プールサイドのアスファルトは熱を帯びていて、優たちの足をじりじりと焦す。優は名残惜しそうに太陽が乱反射する白と青の水面を見ながら、つま先歩きで更衣室に向かった。
着替えを済まし、体育館前の階段に座りながら、優たちはこれからの予定を話した。
「お腹減っちゃったしさ、一旦家に帰ってご飯食べてから遊ぼうよ」
「そうだな、母ちゃんもメシ作ってるだろうし」
「え、もうちょっと遊べるんじゃない?」
「んなこと言っても俺が母ちゃんに怒られちまうよ!」
「で、でもさ」
「あはは!浩平落ち着けよ〜。優は今日が最後だから遊びたいんでしょ」
「つってもさあ…。」
「まあ優もばあちゃんが昼ごはん作ってるんでしょ?帰ってあげなきゃ」
「でもでも…。いや、うんまあそうだね」
「じゃ、お昼食べたらすぐにまた学校に集合だね〜」
「すぐだからね!」
渋々、と言った体で優が午後の約束を了承する。せっかくの夏休み。1秒でも時間を無駄にしたくない。とは言え、優がこんなにも焦っているのは理由があった。
今日は、東京で働いているお母さんが迎えに来てくれるのだ。優にとってそれは大変喜ばしいことであった。
健太たちと別れ、家までの道を辿りながら母のことを考える。
(お母さん、久しぶりだな。前に会ったのは三年生の進級の時だっけ。最近は会いに来てくれることも減ったけどお母さん昔と比べてどんどん明るくなって来てるよなあ。しかも今回は会うだけじゃなくて東京まで連れて行ってくれるなんて!夏休みの間だけだけど、楽しみだなあ)
次第に足取りは軽くなっていく。さっきまでの友人との間に覚えた焦燥も忘れ、どうしようもなくにやけてしまう。心に溢れ出した感情を少しでも発散するように優はついに駆け出した。
(お母さん来るのは夜だっけ、全然待てないや。健太たちと遊びながら時間を潰さなくちゃ!)
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優は6歳の、小学校への入学とともにこの集落に来た。優の両親は4歳の時に離婚している。なぜ離婚したのかは聞いていないし、そもそも優の父親にあたる人物について優の記憶はあまりない。仕事が忙しく、ほとんど家にいない人だった。ただ1回だけ、公園へ花見に連れて行ってくれた記憶があるだけである。と言ってもほとんどおぼろげな記憶だが。
とにかく、そんな両親が離婚したことについて幼かった当時の優にはそこまでショックを受けることはなかった。母親に引き取られて引っ越したアパートには、優のお気に入りだった玩具箱を置くスペースがなく、泣く泣くその大半を捨てることになったこと以外は。
しかし、当然ながら優の母親はそうはいかなかった。育児と仕事、そのどちらも両立しなければならない。その苦労は想像を絶するものであった。慣れない仕事で上司にぐちぐちと嫌味を言われながらもなんとかこなし、残業をしてノルマをこなそうとしても息子の幼稚園の送迎がある。仕事が長引き、何度幼稚園に頭を下げたかわからない。その度に心はささくれ立ち、ちょうど海岸の絶壁が波に侵されるように、その精神は脆く崩れていくようだった。
それでもなんとか2年間は綱渡りでながらもそんな生活を続けていたが、限界が近づいて来るのを感じていた。そして優が小学校の入学を意識するようになった夏の日。実の母が一人暮らしをしている故郷に息子を置いていくことを決意したのであった。
当然、優は反抗した。ようやく住み慣れた家を離れることにも、仲の良い友達と別れることになることも大問題であったが、何よりも大好きな母と別れることが1番辛いことであったから。
しかし、最後は「ごめんね」と言う母の涙に幼いながらも「何を言っても仕方がない」と言う自身の人生に対する絶望のようなものを見つけてしまい、泣く泣く了承することになった。「わかったよ」言った後の、「ありがとう。やっぱり優はやさしい子ね」と涙を流しながら笑みを浮かべる母の顔と言葉を優はなんとなく忘れることができなかった。その時、少年の目は確かに年老いてしまった。
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優が家の扉に手をかけると、焦げ臭い匂いが鼻をついた。なんとなく嫌な予感を覚えながら扉を開くと、祖母がちょうどお昼ご飯の支度をしているところだった。テーブルには、煮物とご飯と、それからキャベツの千切りの横に何か黒い塊が乗った皿が並んでいた。多分、匂いの原因はあれだろう。
「ばあちゃん、ただいま。それ何?」
「ああ、優、お帰り。今日はとんかつを揚げてみたんだ」
「とんかつ、ってもう揚げ物はしないって約束したじゃないか!」
優は語気を荒げてしまう。と言うのも最近、祖母は揚げ物を作っていてボヤ騒ぎを起こしたばかりなのだ。その際に、優は自分が近くにいない時に揚げ物を作ることを約束したのであった。
(また、忘れたのかな。最近約束したばかりなのに)
イライラしてしまう。でも優は自分の正当性を疑ってはいなかった。
(僕は心配しているのに、なんでわかってくれないんだ)
心配しているからつい声を荒げてしまう。そんな建前とは別に「なんで僕がこんなことを繰り返されなければならないんだ」と言う被害者意識をうっすらと感じながらも、心の奥底の自分ですらわからない部分に押し込めながら続ける。
「ばあちゃん、僕は今日から東京に行くんだよ!それなのにこんな約束も守れないってどうするんだよ!!」
「優はやっぱりやさしいねえ。ばあちゃんを心配してくれているんだねえ。でも、今日で最後にするから、とんかつ、よくできたから。お食べ」
「よくできたからって、明らかに焦げてるじゃないか」そんな言葉を、なんとか飲み込んだ。そして内心は苛立ちをつのらせていたが祖母の声を聞くとどうも怒りが沈んでいく。怒りよりも、やるせなさが勝った。
「……わかったよ。大きい声出してごめんなさい」
そう言うと、祖母の顔を見ずに食卓へつく。
(まあいいや。最近はばあちゃんの変な料理にも慣れてきたし)
「いただきます。」と言うと優は比較的安全そうな煮物に手を伸ばした。
(うぇっ、この煮物甘すぎるよ。砂糖の分量を間違えたな)
そしてその味をごまかすようにご飯を頬張る。
(カピカピだ。朝から炊飯器を保温状態にしていたんだな)
(このくらいなら。いつも食べてるのとそう変わらない。いつもの通りに、なるべく鼻呼吸を控えて飲み込んで仕舞えばいい。でも、)
と、とんかつと呼ばれた黒い塊を見る。
(ああもう、びっくりするくらい焦げちゃってるよ。失敗の中でも、焦げたのは大変なんだ。食べた後、しばらく口の中がイガイガするし、うがいしてもなかなか取れないし)
一人ため息を吐きながら意を決してとんかつを口に運ぶ。口いっぱいに広がる使い古した油の酸味と焦げたパン粉の苦味。それでも我慢しつつしばらく噛んでいるとあることに気がついた。
(これ、中の方生だ。普段の豚肉より分厚いから)
吐くべきか迷ったが、しわくちゃな顔を不安げに覗かせる祖母の顔を見ると飲み込まざるを得なかった。
「美味しいよ、おばあちゃん」
「そうかい。優は本当にとんかつが好きなんだねえ」
「うん、でもおばあちゃん。今日は食欲ないみたい。夏バテかな。ラップしといて残しといてよ。夜には食べるからさ」
「あらそうかい、心配だねえ。もうちょっと食べてたほうがいいじゃいかねえ」
「だからいいって!……ごめん。本当に食欲がないんだ」
そう言うと優は自分でご飯と煮物と、そしてとんかつをラップで包んで手早く冷蔵庫へ放り込んだ。
(帰ってきてから食べよう。とんかつはレンジで温めれば中まで火が通るかな。……あれ、でも待てよ。夜に母さんが帰ってくるまで待ってればそのままうやむやになるんじゃないか。そのまま冷蔵庫で腐っちゃっても、結局肥溜に放り込んじゃえばいいんだし)
そこまで考えると少し気分が晴れるようだった。自分でもなぜだかわからない罪悪感が胸を締め付けていたが、油っぽい生焼けの肉を食べた気持ち悪さと思うことにして飲み込んだ。
「じゃあ、おばあちゃん。僕友達と約束してるからまた行くね」
「ええ?もう行っちゃうのかい?来たばかりじゃないかい。もっと休んでいったらいいのに」
「うん、ごめん。でも友達と約束してるんだ」
そう言うと優は会話を打ち切った。何か言いたいような顔をしている祖母の顔をちらりと見ると、なるべく目を合わせないように足早に玄関に向かった。そうしないと、この場に少しでも長くいると、感情がどうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ行くから」
まるで言い訳でもしているように、同じ言葉を繰り返した。
「それじゃあ行ってらっしゃいね。……夜には幸子が来るから、なるべく早く帰ってくるんだよ」
そう言う祖母の顔を優は見ることができなかった。そして振り返ることなく。「うん。」とだけ短く返事をして祖母の家を後にしたのだった。
優が学校について30分ほど体育館前の階段で時間を潰していると、健太たちが次々とやってきた。
「何して遊ぶー?」
「じゃあ鬼ごっこ!」
優たちは「わーっ」と声を上げながら駆け出した。
それから、しばらく優たちは校内で思いっきり遊んだ。鬼ごっこに始まりボール鬼、ビー玉遊び、時折運動場脇の木陰で休みながら夏休みの午後を満喫した。
日が傾き、刺すような暑さもいくらか和らいだ頃、その提案は健太からなされた。
「じゃあ、かくれんぼしよっか」
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ジャンケンでグーを出した優は無事勝利を掴み取り、1人だけチョキを出した拓郎が鬼となった。拓郎が校庭に生えている大木に目を伏せて大きな声で「いーち、にぃーい、…」と数え始めると。優たちは蜘蛛の子を散らしたようにかけ出した。
(よし、拓郎は鈍いから遠くの方まで隠れることができるぞ!)
これが気が早い浩平だったら、数える数すらおざなりにして、その俊足を持ってすぐに校庭の周辺を駆け回るだろう、そして隠れる時間すら与えられずに見つかって終わりだ。でも、拓郎だったら律儀に10までゆっくり数えて、歩きながら探すに違いない。それだったら、校庭をまっすぐ突っ切って、校舎内に隠れる余裕だってあるかもしれない。そしたら絶対に見つからない。
そんなことを考えていながら優はなんとか校舎まで走り切った。後ろを振り返ると、拓郎はまだ目を伏せたままだ。
優は素早く近くにあった保健室の影に隠れた。すると、
「もーいーかーい」
遠くで拓郎の声が響いた。優は姿勢を低くしながら、「もーいーよー」と返事をした。
その声に複数の声が重なる。どうやら他の2人も無事に隠れることができたようだ。多分、声色からして健太は運動場の近くに、浩平は優と同じく校舎にいるようだが、優とは反対側の教室等に隠れているようだった。
(よし、拓郎は近くの健太から探すに違いない。その隙にもっと見つかりにくい場所を探すか)
優は姿勢を低くしながら、物音を立てないようにゆっくりと目の前にある階段を手すりに隠れながら登って行った。そうして3階まで登ると、こっそりと頭を出して校庭を確認した。
(拓郎は……いた!まだ健太を探してるみたいだぞ。あ、健太もいた。あんなに近くにいるのに気付いてないのかよ)
健太は拓郎の目の前の木の後ろに隠れており、拓郎の視点からは見えないが、優の位置からだったら丸見えだ。目の前に健太に気付けない拓郎が間抜けに見えて、思わず笑ってしまう。
(これならまだ遠くまで行けそうだ)
優はやはり姿勢を低くしながら廊下を忍足で進んでいく。すると、今年の四月に改築工事を終えたばかりの音楽室に突き当たった。しかも、夏休み中は閉まっているはずの南京錠が開いている。
(ラッキー!鍵しまってないじゃん!ここに隠れよう!)
本来であれば生徒だけでの音楽室の使用は禁止されている。いつもの優であれば理性が邪魔をして、音楽室に入ることを自身が咎めたであろう。なんなら、職員室に行って鍵が開いていることを報告すらしたかもしれない。しかし今の優は軽い興奮状態にあった。夏休みの初日、もうすぐ迎えに来るはずの母親、友達とのしばらくの別れ。そうした様々な感情が自身の胸の中でせめぎあい、いつもの正義感を思考の隅に追いやっていた。そして、優は音楽室の引き戸をキィ…と開けて中に入って行った。
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【都内某所】
「お疲れーー!」
「お疲れ、幸子」
「ちょっと、名前で呼ぶのやめてって言ったじゃない。嫌いなのよ。芋っぽくて」
「はいはい、でも本当にお疲れ。今回の企画よく通せたね。難しいって聞いてたけど」
「はーい!頑張りましたー!急に責任負わされちゃって!いっぱい褒めてくださーい」
「あれ?幸子ちゃんもう酔っちゃってる?」
「だから下の名前はやめてってば。……だってぇここしばらく残業でうち帰れなかったしぃ。上司からもお疲れさん、ってことで午後から有給貰っちゃった。」
「それで昼間から酒浸り?」
「ちゃんと日が落ちるまで待ってたしぃ。急に休みって言われても何していいかわかんなくなっちゃうんだよね。……直樹ともすぐには会えないし」
「ははは。僕も仕事だからね」
「ここ1、2年は特に忙しかったから全然会えなかったし。今日は朝まで付き合ってよね」
「もちろん。今日は寝かせる気なんてないよ」
「うふふ。やった」
「でもよかったの?今日じゃない?実家に帰るとか言ってた日」
「え、うん。いいのよ。これからまた忙しくなってくるし。帰ってる暇なんてないのよ」
「そっか、じゃあこれからもこうして会えるかな」
「そういうことー。じゃ、どんどんのもー」
幸子は一瞬、自身の母と1人息子のことを思い出した。
(いいのよ、ようやく仕事も楽しくなってきたんだもの。憧れのキラキラした暮らし。前は子供まで産んでやったのに失敗しちゃったけど。母さんも1人でいるよりは優と居た方寂しくなくていいじゃない)
「そういえばなんで携帯番号変えちゃったの?」
「んー、人間関係の精算?」
「なんだよそれ」
そう言って直樹と呼ばれた男は笑う。目の前にいる女の、数時間後の痴態を思い浮かべながら。
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音楽室の中はまだ改築間もないこともあって、気化したホルムアルデヒドのツンとした匂いが鼻をつく。優はその正体こそ分からなかったが、なんとなく懐かしいような気がしてこの匂いが好きだった。
優はそっと引き戸を今度は音がならないように気をつけながら閉めた。途端、外の音が急に希薄になり自分の呼吸の音がやけに大きく感じられるようになった。禁止されている音楽室に入るという罪悪感と、自身の大きくなっていく呼気が1人の不安を駆り立てたが、それにも増して音楽室に1人忍び込んでいるという事実が、密かな優越感をもたらし背徳的な興奮を優に覚えさせた。そして、優は不安よりも興奮を取ってしまった。
優は物音を立てないよう、慎重に音楽室の中を歩き回った。音を立てることによって拓郎や、教師陣に気付かれてしまうことを恐れてではない。この静謐な空間に大きな物音を立てることがなんだかひどく恐ろしいことのような気がした。そして優は黒板の後ろ側にある、楽器置き場にとなっている空間にたどり着いた。
そこには様々な楽器が置かれていた。電子ピアノ、ピッコロ、シンバル、木琴、オーボエ、確か、斉藤先生が音楽の時間にそう教えてくれたはずの楽器たち。そうした楽器を目で辿っていき、優の目が止まったのは楽器置き場となっている棚だった。
その棚は、上方にはガラス張りの引き戸がついており、小太鼓や管楽器などが並べられている。そしてその下方には木製の扉が付いている収納スペースが設けられており、普段は大太鼓を置いているはずだった。しかし、優は知っている。ここに置かれているはずの大太鼓は浩平が音楽の時間にふざけて壊してしまって廃棄することになった。だからここのスペースは空いているはずだ。
優は扉にかけられている金具を外し、扉を開いた。すると予想通りにちょうど大太鼓1つ分のスペースが空いていた。そして、そのスペースに自身の小さな体を押し込めていく。その棚は大太鼓を収納する為に計算されて作られていたのか、かなり余裕がない作りになっており、優はなんとか足を折り曲げ、俗に言う体育座りとなり頭を傾げるような体勢なってようやくそのスペースに収まることができた。そして、扉側の手を器用に使い、扉を閉めることに成功した。
すると、必然的に優の目に映るのは扉の隙間から差し込む僅かな線上の光と、それに照らされる自身の腕。それ以外は完全な闇となってしまった。扉の隙間を覗くと、音楽室の様子が少しだけ伺えた。
(ここなら外からも見えないし。ここまでしたらバレないよね。音楽室は、音も外に漏れにくいって斉藤先生言ってたし)
何もここまですることはなかったかな、と思うもここまでうまく隠れたのだからあえて出る必要もないと1人で納得した。
自分の息遣い以外、何も聞こえない空間で、考えることは自然と音楽室での思い出のことになった。
(音楽の時間、楽しかったなあ。斉藤先生優しくて、歌が上手で、僕のトライアングル、優しい音がするって褒めてもらえたし。……そういえば浩平が太鼓を壊しちゃった時、斉藤先生スゴク困った顔していたなあ。まだ学校にいるのかなあ。今日見なかったけど、もう行っちゃったのかな)
暗闇の中で脳裏に浮かんだのはほとんど斉藤先生の顔だった。優しい斉藤先生。そんなことを取り止めもなく考えていると、先ほどまでの興奮が嘘のように冷めていくのを感じ、同時にどうしようもない寂寥感が胸に迫り上がってきた。
(寂しいなあ。……もう会えないのかなぁ。………母さん、今どのあたりかな……。なんだか……眠く……)
そこで優の意識は途絶えた。午前は泳ぎ回り、午後に走り回った。まだ未成熟な少年の体力はもうほとんど残っていなかった。それでも先程まで少年を動かしていた情動も冷めてしまった。日没に差し掛かった山間の集落は気温が急激に下がり始めた。もちろん寒くなると言うほどではないが、少年の熱ったからだ心地よく冷まし、眠りの世界に導くには十分だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
ボソボソ
カチャリ……
トントントン
トントントン
優は何か囁き声のようなものと金属音で眠りから覚め、寝ぼけてぼーっとする頭を断続的に聞こえてくる足音のようなもので徐々に覚醒させていった。
(ここは……?あっ、音楽室か!僕こんなところで寝ちゃったんだ。……なんだろうこの音?)
トントントン
トントントン
一定のリズムで聞こえる足音のようなもの、優はそれが幻聴ではないことと、自分のかなり近くで生まれているのだということを、床から伝わる振動で察した。
トントントン
トントントン
トントントン
トントントン
ドンドンドン
ドンドンドン
ドン!ドン!!ドン!
ドン!!!ドン!ドドン!!
足音のようなものは次第に強くなっていった。一定のリズムだったものが滅茶苦茶になっていきついには地団駄を踏むような音になっている。
優はあまり現実味のなさに最初は呆然と聞き入っていたが、怒り狂うような音の連打に恐れて体を縮こまらせた。
ダァン!!ダァン!!ダァン!!
音が大きくなる度に、優は足を抱く自分の腕にギュッと力を加えた。
(はやくおわってくれ!!)
そんな思いばかりが心を塗りつぶす。1分は経ったろうか?いや10分かもしれない。優はもはや時間の感覚さえも忘れて必死に我慢した。しかし音は鳴り止まない。それどころか一段と強くなっているように感じる。限界が近づき、思わず「やめてくれ!」という言葉が喉元にまでせりあがったその時、不意にぴたりと音が止んだ。優は危うく大きく息を吐き出しそうになったが、
「っざけんじゃないわよっ!!」
先程とは違う、明確に意思を、それも多分に怨嗟が含まれた声にまたもや絶句することになった。
「あのクソども!面倒ごとばかり押し付けて!何も!教えてくれなかったくせに!」
それは優が生まれてはじめて聞いた本気で人を恨む言葉だった。
「言うことを聞かない猿どもめ!余計な仕事ばかり増やして、ひっついてくるんじゃないわよ!」
金切り声でそう叫ぶ声の主に震えながらも、その声に、どこかで聞き覚えがあるような気がした。
「だいたい、鈴木のセクハラ野郎は!恩を着せようとしてくるくせに肝心な時には使い物にならないし!」
認めたくなかった。そんなはずはない。
(嫌だ、だって、あんなこと言うはずがない)
まとまらない思考の中、必死で自分の考えを打ち消そうとしていた。
(だってもう居ないはずじゃないか。昨日だって、別れるのが嫌で泣いてたじゃないか。そんな人が……)
ここにいるわけがない。と、そう自分を、論理のようなもので納得させた。優はそれを証明してやろうと、恐る恐る、しかし、勇気を振り絞って扉の隙間から音楽室の様子を覗き込んだ。そして、直後に後悔することになった。
そこには、憎しみで顔を歪め、あらゆる罵詈雑言を垂れ流す斉藤の姿があった。
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斉藤の聞くに耐えない暴言はそれからもしばらく続いた。優は斉藤のあまりの豹変ぶりに体を震わせながら耳を塞いでいた。そして、気付くとその目からは恐怖と失望が涙という形になって溢れ出していた。次第に喉元に迫り上がる嗚咽は口を手で抑えることでなんとか耐えることができた。しかし、そうすると自然と片手は耳を抑えることができなくなってしまう。優は、聞きたくない怨嗟の声と、時折はさまれる地団駄を踏む衝撃音をただ目を瞑って聞くことしかできないでいた。
それからまたしばらく経ってようやく斉藤は落ち着いたようだ。実際には落ち着いたというよりも自身の中にある恨みを全て力に変えて出し切ったように、はあはあと息を切らしていた。そして、息を整えると、微かに声を絞り出した。
「でも、今日で終わり。高橋さんも説得できた。ちゃんと孕めているか不安だったけど、本当に良かった。私の希望、あんなクソ猿どもとは違う、大切に産んであげなきゃ。うふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。あははははははははははははははははははは。あはは。ふふふ。」
今度は静かに笑い出した。優は先程とは幾分マシだとは思いながらも、やはり恐ろしく、そして、悲しく。ただ黙って聞いていることしかできなかった。
そして、一頻り笑った後、満足したのか入り口に向かって行った。
「だいたいなんで鍵が開いてんのよ。どうせクソガキどもが掃除終わりに忘れたんでしょうけど。棚の鍵も開いてたし。本当使えないわね」
ぶつぶつ言いながら、静かに音楽室のドアを閉めると、カチャリという音を鳴らして鍵を閉めて職員室に向かって行った。
職員室に向かいながら、幾分か気分の落ち着いた斉藤はふと昨日の見送り会のことを思い出していた。緊張で震えながらも、花束を渡してくれた生徒のこと。
「……まあ、悪いことばかりじゃなかったかな」
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「優まだ見つかんねーの?」
「校内中探したんだけどなー」
「まだ探してない場所ある?」
「そういえば音楽室のあたりはまだ探してないや」
「あ−音楽室はまだ行ってないかも」
「拓郎ちょっとめんどくさい距離になるとすぐ諦めるからなー」
「みんなで探そうか」
「あ、斉藤先生だー!」
「本当だ、手振ってくれてる!」
「斉藤せんせー!」
「皆さん、どうしたの?こんな時間まで?親御さん心配しちゃうよ?」
「かくれんぼしてた!」
「先生はー?」
「先生は音楽室の戸締りをしていましたよ。浩平くん、また鍵閉めるの忘れたでしょ」
「え、うそ俺しめたもん」
「嘘はよくないですよ。今回はいいですけど、今度から気をつけてね」
「……はーい」
「先生、音楽室から来たなら優見ませんでした?」
「優くん?見てませんよ」
「えー、おかしいなあ」
「優くん、今日はお母さんが迎えにくる日じゃなかった?もう帰っちゃったのかも」
「あーそうかも夜までには来るってずっと言ってたし」
「拓郎がいつまで経っても見つけないから飽きて帰っちゃったんだよ」
「ほら、皆さんももう日が暮れますよ。そろそろ帰りなさい。」
「はーい」
「先生さよーならー」
「はい、さようなら。気をつけて帰ってね」
「斉藤先生美人だよなー」
「優しいしねー」
「いい匂いもするー」
「てかさ、優本当に帰っちゃったのかな?」
「ずっと楽しみにしてたみたいだしそうなんじゃない」
「はぁー、お別れの時くらい声かけろよなー」
「まあ、一生会えないわけでもないし。夏休み明けたらまた遊ぼうよ」
「だな。明日は何するー?」
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優は斉藤が出て行ってもしばらく身動きができないでいた。少しでも動いたら、気づかれるかもしれない。そんな恐怖が優を縛っていた。
恐怖であまり回らない頭で考えるのは先程までのこと。
(なんで、……アレが斉藤先生?僕たちのこと、クソガキって……。今までのことは全部嘘だったの?)
裏切られたという悲しみと耳にこびり付く呪いのような言葉が脳裏で何度も反芻される。そしてその度に抑えきれない感情の奔流が胸の内で増幅していく。
しばらくそうしていると、もう耐えきれなくなってしまったのか、あるいは斉藤が行ったという事実をようやく受け止めたのか。いずれにせよ、もうこんなところからとっとと抜け出したくなって静かにそっと、左腕で木製の扉を押した。
(あれ、開かない。なんで?)
最初はゆっくりと、次第に力を込めて、ついには先ほどまでの恐怖すら忘れ、ドンドンと扉を叩く。自身を眠りから覚ました金属音、それが脳裏に浮かぶと流していた涙は引っ込み、代わりに冷や汗が額にびっしりと張り付いた。
そしてようやく優は自分がこのちっぽけな棚の片隅に閉じ込められたのだということに気がついた。
「誰か!助けて!閉じ込められました!浩平!健太!拓郎!ここだよ!もういいよ!早く見つけてよ!」
密着した腕は勢いもつけられずただ愚直に扉を押すにとどまった。少年の細腕では金具を壊すことができず、ぎっぎっときしませるだけだった。暮れかかっていた日の光はついに山間に沈んでいき、扉の隙間から射してしていたただ一筋の光を奪い、少年を更なる闇の中へと誘った。
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閉じ込められてからどのくらい時間が経っただろうか。暗闇の中で、時間の感覚なんてとっくの昔になくなっていた。脳がすり切れるくらいに振り返ったこの2日間の記憶では、自身の過失と呼べるものは校則を破って誰もいない音楽室に侵入してしまったことくらいだった。少年はこれまでのことを考えることを取りやめ、考えることを避けていたこれからのことについて考え始めていた。
(みんな、僕のこといつ見つけてくれるんだろう。もし見つけてくれなかったら、どうなっちゃうんだろう。僕はどうなっちゃうんだろう。……お腹すいたな)
このまま見つからなかったら。更にその先のことを考えようとすると思考が止まった。代わりにより生来的な欲望が先に脳を刺激した。
(今日、最後に食べたのはあのとんかつもどきか。……そういえば僕がおばあちゃんの家に来たときに最初に作ってくれたのもとんかつだったな。それ以来、「贅沢はできないね」とか言って薄いとんかつだけになっちゃったんだよな。)
そこまで考えが至り、そういえば今日のとんかつはやけに厚みがあったな。ということを思い出した。
(そうか。今日の昼ごはんがおばあちゃんと食べるこの夏最後の昼ごはんだったんだ。だから、普段使わない……)
自然と、涙が溢れてきた。そして、今までの自分の態度を振り返った。母と会える喜びにかまけ、1人残される祖母について一瞬だって慮ったことがあっただろうか。物忘れが激しくなってきた祖母の料理を手伝ってきただろうか。
(そういえば、おばあちゃんの物忘れが激しくなったのって、お母さんから電話があってからだった。……そっか、これは罰なんだ。1人で幸せになろうとした)
そう考えると、なんだか得心がいった。そして優は一つの決心を抱いた。
(もし僕がここから抜け出せたら、お母さんに頼んでみよう。おばあちゃんも連れて行けるようにって。おばあちゃんはお母さんのお母さんなんだから、強く頼んだらきっと聞いてくれる。そして、お母さんが仕事から帰ってくるまでにおばあちゃんと夕ご飯を作って待つんだ。そしたら、お母さんだって生活が楽になって、そのまま一緒に暮らせることができるかもしれない)
悪くないアイディアだと思った。むしろこれが最上なような気がした。すると、この空間に陥ってしまって初めての笑みが溢れた。
(うん、そうしよう。今度は絶対に諦めたりなんかするもんか。)
胸の内にわいた僅かな希望に心が満たされた。
(きっと、いつまでも帰ってこない僕は不思議に思って、お母さんが探してくれる。警察だって探してくれるかもしれない。……でも、もし見つからなかったら……)
祖母の家の棚の奥に放置されていた。腐ったおにぎり。全体が黒いカビで覆われ、腐臭があたりに漂い、最後は肥溜の中に捨てられたアレ。そんなおにぎりの姿が自身に重なるように幻視された。
優はそんな考えを振り切り、一縷の望みを持って、1度目の朝をまった。
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「どこじゃー…………。ワシの孫はどこに行ったんじゃー…………。まさるぅー……まさるぅー……」
「また今日も歩いてるわよ。吉本さん家のおばあちゃん」
「幸子さんが連れて帰ったんでしょ?」
「ほら、でも旦那さんが亡くなって優くんが来る前も似たようなものだったじゃない。夏休みが終わって帰ってきたら治るわよ」
「じゃあ夏中はあのままってこと?勘弁してよ。不気味で仕方ないったら」
孫を探す老婆の声は、夏休みが終わり、丸山第三小学校に殺到するパトカーのサイレンにかき消されるまで続いた。重要参考人として連行された老婆の手には、溶け掛けのソーダ味のアイスが握られていたという。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
悪意にも満たない杜撰さや手違いで死んでしまう。僕はそれがとても恐ろしいと思うのです。
そして僕は多分もうホラーなんて書かないでしょう。とても気が重くなりました(笑)
次回がありましたらまたよろしくお願いします。




