二、かき氷と蛍と枕草子
下半分に青い荒波、中央に赤々と「氷」の一文字。この旗を見れば、誰でもかき氷を販売していると理解できることでしょう。わたしの目の前にある屋台のテーブルには、先を斜めに切ったストロー 氷と書かれた発泡スチロールの器、それから、七宝模様のような丸いハンドルを回すタイプの業務用氷削り器が並んでいます。日が暮れ始めて暑さが和らいだことで、売れ行きは小一時間前に比べて格段に落ち着きました。セットしたままのブロック氷からは、ポツポツと雫が滴っています。
現代ではすっかり夏の風物詩となっているかき氷も、古代では貴族しか口に出来ない高級品で、かの清少納言が記した『枕草子』の「あてなるもの」の一節が最も古い記録とされている。当時は、金属の器に、氷の塊を刃物で削った「削り氷」を入れ、上から「甘葛」と呼ばれるアマチャヅルの汁を掛けて食したそうな。以上の情報は、演習担当の「ヘルメット女史」こと、おかっぱ頭がトレードマークの田中教授からの受け売り。
「悪いわね、ハルカちゃんにまで店番させちゃって」
「いいえ。こういう形でお祭りに参加できて嬉しいですし、それに、土地勘が無いので、どこへ行って良いのかも分かりませんから、一つ所にいられる方が楽です」
盆踊りの会場設営で男手が出払ってしまったので、わたしは雪村くんのお義姉さんと一緒にいました。お義姉さんは背中には、初めての夏祭りに興奮して大はしゃぎした末に疲れて眠ってしまった甥っ子くんの姿もありました。そのロールパンのようにふっくらした小さな手には、わたしが家から持って来た竹トンボが握られています。手前味噌ですが、わたしの家は代々竹細工を取り扱って来たこともあり、近所でもよく飛ぶと評判の逸品です。
お天気に恵まれて良かったというお話から、マアジやシロギスがよく獲れるという漁村らしい情報まで他愛ない会話を交わし、ポツポツと提灯が明るくなった頃合いに、ようやく雪村兄弟が戻ってきました。
「よう、戻ったぞ。売れ行きはどうだ?」
「ちょっと、あんた。そんなに大きな声を出しちゃ、コウタが起きちゃうじゃない」
「これでも甲板にいる時の半分も出してないぞ。なっ、トオル!」
「そこで僕に話を振らないでよ。僕は三半規管が弱いせいで、船に乗れないんだから」
「また、難しいことを言ってら。中卒で漁師やってる俺にも分かるようにしゃべれって」
「平衡感覚については、義務教育の範囲内のはずなんだけどなぁ……」
Tシャツの下に長袖のインナーを着ている雪村くんとは対照的に、お兄さんの方は背中に「祭」と書かれた法被一枚を羽織っただけで、肌は浅黒く日焼けし、パツパツの上腕筋やバキバキの腹筋が丸見えの恰好でした。眼鏡も掛けていません。お兄さん曰く「自分は父親似で、弟は母親似なのだ」とか。顔を合わせれば、頭でっかちだの、なよなよしてるだのと揶揄うお兄さんでしたが、表情から察するに、言葉とは裏腹で、心の中では賢い弟のことを応援している様子でした。
さて。屋台の方はお兄さん夫妻に任せて、わたしは雪村くんと境内を散策することになりました。わたしの手には、店番を手伝ってくれたお礼も兼ねて、レモンシロップをかけたかき氷を持っていました。それを、頭痛に襲われないようにちょっとずつ口に運びつつ、砂利道をザクザク歩いていると、蛍を見たことがあるかという話題になりました。
「昔は家のすぐ裏に川が流れてて、戦前までは当たり前のように蛍がいたらしいんだけど、高度成長期の護岸工事や暗渠化でいなくなってしまったんだって聞いたわ」
「都市部は、どこも同じ事情があるんだね」
「こっちでは、見られるの?」
「うーん、どうだろう。ゲンジボタルの成虫の発生期は五月から七月だから、ピークは過ぎてるんだよね。見られるとしたら、向こうの池の畔なんだけど……」
そう言いながら本堂の裏手に回る彼に、わたしも付いて行きました。
「暗いから、足元に気を付けて。……うわっ」
「大丈夫? 雪村くんこそ、怪我しないでよ」
「ハハッ。カッコ悪いところ見せちゃったなぁ」
人工的な明かりがほとんど無い池の畔に到着すると、わたしたちは微かな光を逃すまいと目を皿にして見渡しました。
「夏は夜。月の頃はさらなり」
「闇もなお、蛍の多く飛び違いたる」
「また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし」
「雨など降るも、をかし」
沈黙が気まずかったものの、お互いに何を話していいやらといった状況で、何故かわたしたちは、有名な『枕草子』序段を交互に暗唱してしまいました。
しばらくは、ただただ漆黒が支配するだけの世界に視えましたが、やがて暗闇に瞳が順応して来た時、スイッと一筋の光が通り過ぎました。
「ねぇねぇ、今の、見た?」
「えっ、いたの?」
「ほら、あの石灯篭の近く。あっ、また光った!」
「本当! 今度は僕も分かったよ」
一匹が光り始めると、それに呼応するように二匹、三匹と光り始めました。ただ、彼の言っていた通り最盛期を過ぎていたこともあって、数え切れないほどではありませんでした。
それでも、初めて見た生の蛍の光は、幽玄で幻想的な風景に思えました。
「深町さん。今、ここには僕たちの他に、蛍しか見てないわけだけどさ……」
「なになに? 誰も聞いてないんだから、おしまいまで言ってよ」
「それで、……少しの間だけ、動かずに目を瞑っていて欲しいんだけど、いいかな?」
「いいわ。心の中で十数えたら目を開けるから」
十、九、八、七、……。瞼を閉じ、胸をときめかせながら静かにカウントダウンしていると、ちょうどラスト一のタイミングで、唇に温かく柔らかな感触を覚えました。
きっと、傍目には一瞬の出来事だったのでしょう。でも、わたしには暫く時が止まったように感じました。間違いなく、これが彼とのお付き合いの中で最高の瞬間でした。
このあと、遠くから太鼓や鉦や笛の賑やかな音色が聞こえてきたため、わたしたちは盆踊りの櫓が立っている場所へと移動しました。その間、迷子にならないよう手を引いてはくれたものの、彼は言葉少なく、決してこちらを向こうとはしませんでした。まぁ、たとえ表情を窺えなくとも、どんな顔をしていたかは容易に想像できますけど。